尽くしてくれるお姉ちゃん
一
小うるさい雨は、日付をまたいでも降り続いていた。
みのりは外で待っていると言っていたが、真人の後に帰宅した父親や母親が気づかないはずがない。夕食中に探りを入れたが、彼らにおかしな兆候は見受けられなかった。
訊ねるまでもなく、外に誰もいないことは明白だ。にもかかわらず真人はカーテンを開けるのをためらっている。
みのりが、もし変わらず外で待ち受けているとしたらと怯えずにはいられない。
ベッドと勉強机の往復回数が百回に至る前に、真人は決断した。
みのりは幽霊ではない。未だに自分を見張っているとしたら、警察に通報するつもりだ。病院では嘘をついたが、あれは彼女を庇ったわけではなく、危害を加えられるのを恐れたためだ。十中八九、榮太郎を突き飛ばしたのは彼女だという確信がある。動機はわからないが、痴情のもつれだと考えると一応の辻褄は合う。
一度決断すれば行動は迅速だ。こういった所は父親の形質を遺伝しているのだった。
両親はとっくに床についている。まず二人の寝室の前を物音を立てずに横切ると、足下の間接照明を頼りに階段を降り、一階に立つ。
扉を開けると、湿った風が顔に吹き付けた。
肝を冷やしながら、辺りに目を配る。ドアのそばに車庫があり、父親の国産車が鎮座している。暗がりに、みのりの姿は認められなかった
落ち着きを取り戻し、一端きびすを返した真人の足が止まる。
門柱の陰にビニール傘が翻るのを目の端で捕らえていたのだ。気のせいだとは思いこめず、真人は門扉を開いた。
みのりは、体を屈めて立っていた。
片腕を胸の前に回して体を暖めていたが寒さを凌げず、こぎざみに震えている。それでも彼女の表情には苦悶ではなく、前途を期待するような明るさがある。
真人の肌に寒気が伝播していく。
「何してるんですか」
真人に気づいたみのりが、ゆっくりと面を上げた。
「言ったでしょ、待ってるって。お姉ちゃんは約束を守るものなんだよ」
みのりの態度はいっこうに崩れない。一見すると慈愛に溢れているようだが、偏執的な面とも表裏一体だ。
「……、入ってください」
真人の方が根負けした。放置しておけば世界が終わる日まで家の前に居座りそうだった。そうなっては堪らない。
自室に入れるわけにはいかず、暗がりの一階リビングにみのりを押し込む。
「わー、ここが真人君が暮らしてる家なんだね」
父の買った絵をしげしげと眺めて、みのりは感嘆の声を上げた。
「その、真人君っていう呼び方やめてくれませんか」
相手を刺激しないように、おっかなびっくり指摘する。
「名前で呼ばないとわからないでしょ。お姉ちゃんを困らせないの」
みのりがそう言うとそういうものかと納得しそうになる。だが異常な状況に置かれているのは変わりない。
「僕に何の用なんですか? 榮太郎のこと……」
みのりはとぼけるように首を傾げる。
「私は君のお姉ちゃんになりに来たんだよ。それだけだから。それはそれとして」
しきり直すように明るい声を出すと、みのりは真人の手を取った。
「お風呂沸かしてくれる? 冷えたー」
無邪気な要求に真人は従ってしまう。不幸中の幸いか、両親に一連の動きは気づかれなかったようである。
不本意だがジェットバスつきのバスルームは、みのりのお気に召したようである。
「せっかくだから一緒に入ろうよ」
「は?」
「いざいざ」
圧倒的に押しの強いみのりに、真人は唯々諾々となる。深夜の眠気もそれを助長した。
榮太郎の言ったことは真実だった。みのりの裸体は、真人の青い本能を刺激しなかった。みのりはうら若く魅力的だったが、緊張を強いられることもなくそれこそ身内が側にいるような安堵感に包まれる。
「気持ちいいね」
「そうですね」
真人の足の間にみのりは座っていた。この日を境に彼女の髪からは真人の家のシャンプーの匂いがするようになった。
二
みのりがフライパンに向けて卵を割ると、亀裂から卵黄が二つになってまろびでた。
「ラッキー」
みのりは桂木家の料理番になって、朝餉を取り仕切っている。
真人の父は今朝早くに出かけた。真人は夕べの夜更かしがたたって、大慌てで階段を転がり落ちてきた。
「ち、遅刻する!」
みのりは目玉焼きの載った皿をテーブルに置くと、立ち止まることなくターンして、真人の口にクロワッサンを突っ込んだ。
「ふぐっ!?」
クロワッサンはほのかな温かみと、やわらかさが健在してる。出来立てを買ってきたらしい。
「近場にいいパン屋さんがあって助かっちゃった。さ、朝ご飯食べよ」
手際よく真人の寝癖を直すと、みのりは羽でも生えたかのような身軽さでキッチンから次々と皿を持ち出してきた。
「本当に居座る気なんですね」
二つの卵黄を持つ目玉焼きの境界は箸でつつくうちに消失していた。
「今日は雨降らないみたいだよ。傘はいらないみたい。お父様は午前六時に出かけた。お母様はお友達と宝塚を観劇しに行くって」
両親の不在をこれほど恨めしいと思ったことはなかった。だが学校に行けば、一時だけでもみのりから離れることができる。それは救いになるだろう。
「大塚さんは」
「……」
榮太郎の姉であった過去には無反応で通すつもりらしい。真人は渋々言い直す。
「みのりさんは、普段どう過ごされているんですか」
興味本位だけでなく自分の目の届かない場所で暗躍されるのが不安で訊ねた。
「私は大学生だけど」
「学校名と学科は」
みのりは国立大の経済学部に通っていると教えてくれた。隠している風でもなく、自慢するわけでもなく事実をありのまま伝えるようだった。たとえ事実だったとしても、それほど安全を担保するわけではないのだが、後で役に立つかもしれない。
料理は軒並み高クオリティーを示していた。トマトの切り身とレタスのサラダを頬張ると、玄関へと向かう。
「行ってらっしゃい。今日は家のお掃除をぱぱっとしちゃうね」
送り出されても不安が払拭できず、何度か首だけで振り返る。
みのりは真人の背中が見えなくなるまで玄関で見送りをしていた。
真人は学校につくや前日、無断で休んだことを担任に詫びた。
担任は、警官と同じように真人が目の前で友人が事故にあったことに対してショックを受けていると思ってくれた。
その被疑者が自宅にいるとは告白できず、真人は神妙な顔つきで職員室を出た。
どうして助けを求めないのか、第三者から不審がれるかもしれない。
自分だけでなく家族に危害を加える恐れがあるとか、理由は色々探すことができる。
意図して探すということは、みのりを追い出す決定的な材料が不足していることに意味していた。みのりは今のところ真人に危害を加える様子はないし、肉親以上にかいがいしく世話をしてくれている。榮太郎のことがなければ素直に今の状況を受け入れていたかもしれない。それでもやはり異常な状況に置かれていることには変わりはないのだ。
みのりと離れているうちに打開策を見つける必要がある。
真人は委員長の威厳を保つことを忘れ、呆けたまま時間を過ごした。
クラスメートは真人が榮太郎を思って、意識を削がれているのだろうと噂した。ホモの疑惑の材料が組上がっていく。
二時過ぎにぽつぽつ雨が降り出した。みのりの話を鵜呑みにして傘を持ってこなかった。教室にいる大多数の人間がそうであったため、天気予報が外れたのだろう。
真人は天候どころではなく、いかにしてみのりから離れるかに考えが占められている。
「真人くーん!」
校舎を出てすぐに呼び止められぎくりとして足を止める。
みのりは黄色のレインコートを着て学校の敷地に忽然と現れた。
「雨降ってきちゃった。ごめんね、傘持ってきたよ」
「傘?」
みのりはてぶらにしか見えない。真人がそれを指摘すると、顔を赤くして俯いた。
「えと……」
「いいですよ、もう。ははは……」
真人は、不意打に訪れたみのりのミスに笑い転げそうになった。
「あー、もう傘忘れたのは悪かったけど、そんなに笑わなくても」
「すみません。帰りましょうか」
「うん」
みのりと帰路に着くのが嫌ではないことに気づいていない。まるで幼い頃頃からこうしていたように真人はこの環境を受け入れ始めていた。
雨は小雨だったものの、濡れネズミになるのは耐えられず、真人はコンビニで傘を買った。
「洗濯物を入れてたりして、ばたばたしてたんだよ。ほんとだよ」
「もう気にしてませんから。それより家にいてくれて助かりました。大学は休みですか?」
「う、うん……」
みのりは曖昧に返事を濁す。個人情報に触れそうになるとそれを避けようとするようだ。
「それよりその言葉づかいは何? 真人君」
真人はみのりに対する失礼に思い至らず、首をひねった。
「そんな他人行儀な言葉づかいしないでよ。もっと仲良くなりたいから」
もし、みのりでない別の女性から言われたら、真っ当に受け止められていたかどうか。
だが、さすがに喜びを表だって顕せずに、わかったとだけ言った。
みのりとスーパーで買い物をしてから家に帰る。
「母さん遅いな」
母は宝塚の観劇に行ったらしいことは既に聞き知っている。父は学会で静岡にいるはずである。
みのりは、歌謡曲を口ずさみながら料理をしていた。
時刻は六時。
夕食は、魚介なカルボナーラだ。まろやかなソースまで残すのがもったいほど美味で、榮太郎の話を信じざるを得ない。みのりは本当に万能なのかもしれない。母が平生から家事をさぼっていたわけでないだろうが、家の中はみのりの手によって生まれ変わったように整えられていた。
「一つ約束して欲しいことがあるんだけど」
ところが、みのりの一言に真人は予期せぬ緊張を強いられることになる。




