一人寂しいお姉ちゃん
病院で真人は警察に簡単な事情聴取を受けた。
自分でも意外なほど心は落ち着いており、わけなく強面の警官に応対することができた。
榮太郎は路面の凍結に気づかず足を滑らせて、トラックの前に進み出たと澱みなく答える。
警官は特に不審がらず、友人の不幸に同情する言葉までかけてくれた。
警官が病院の廊下を曲がって完全に姿を消しても、「ああそうだ」と戻ってくるのを真人は密かに恐れている。
トラックに跳ねられた榮太郎は、一命を取り留めた。意識が戻らず集中治療室に運ばれ、処置を受けて数時間が経過している。脳に障害が残るかもしれないと、榮太郎の家族が医師と話しているのを聞いてしまった。もちろんそこに、みのりという若い女の姿はなかった。
真人と榮太郎は友人ではないが、目の前で明らかな惨劇が起こったとなれば動揺を押さえるは難しかった。一人になると、震える指先でエレベーターのボタンを押した。
病院の長いエレベーターを降り、病院のエントランスに出ると、ガラス窓に水滴がついていた。
学校にこれから向かう気にはなれず、さりとて一所に落ち着く勇気も出ない。
人の顔を目視せずに下を向いて歩く。雨の粒の冷たさも忘れ、駅へ駅へと近づいていく。マンホールの蓋が人の顔のように思えてきて下を向くのも辛くなってくる。
自宅に戻ることを決断した。他の場所では心許ない。
真人の自宅は、駅にほど近い三階立ての一軒家だ。長男が家を出たのを機に新築した。話には出ていないが、ゆくゆくは長男に家を譲ろうというのが父親の目論見ではなかろうかと真人は踏んでいる。
「おかえり」
家の松ノ木の下につばひろの帽子を被った女性が佇んでいる。透明のビニール傘に小雨がすーっと流れて地面に吸い込まれた。
真人は息をするのも忘れ、女性の口元のほくろに目を奪われる。その黒点は真人を奈落に引きずりこもうとする闇のように思えてならなかった。
「な、、何でここに」
舌をもつれさせながら何とか言葉をかける。
「お姉ちゃんだから、真人君のことは何でもお見通しだよ」
みのりは照れたように目を伏せる。真人は勇気を奮い起こし決然と言い放つ。
「帰ってください!」
「大変。こんなに濡れてる。あったかくしないと」
みのりは真人の剣幕にも怯まず傘を差しだす。
傘の下に入るや、真人の体は硬直した。まるで見えない手にがっしりと掴まれたようで息苦しい。
「私は真人くんのお姉ちゃんになったの。お姉ちゃんだから何でもしてあげたいの」
切なげな上目づかいに、心をもみくちゃにされそうになる。やさしい言葉をかけられているのに真人脳裏をよぎるのは、榮太郎の変わり果てた姿だった。
「そんなの誰も頼んでない! おかしいんじゃないのか」
小走りで家の門をくぐり、鍵をかけるまでが勝負だった。
無事に安全を担保してから扉越しに耳を澄ませる。ややあって、悲しげな声が鍵穴の隙間から漏れ聞こえてくる。
「……、ごめんね。怖かったよね。でも外で待ってる」
真人は耳を塞ぎながら、階段を駆け上がり自室に閉じこもった。
家族が帰宅しても、真人は扉のノブを押さえて出てこない。
母の声も父の声も念仏のように耳を通り抜けていく。業を煮やした父親に怒鳴られ、渋々階下に降りる。
白を基調とした明るいリビングの壁には、フランスの画家の絵がかけられている。父が知人に勧められるまま買ったらしいが、その真贋は怪しいものである。物置にはそのような代物がごろごろしている。
「子供じみた真似はよしなさい」
珍しく家にいると思ったら、父は新聞に目を落としたまま真人を叱った。
「学会じゃなかったの」
真人はコップで水を飲み干してから、キッチン越しに父を見た。
五十にさしかかる前に、大抵の人間のその後の展望は予想できる。父もまた病院の主要なポストを得ようと苦心してきたのを真人も知っている。それでもままならない人生の荒波に翻弄されてきたことも事実であり、結果的に父をして冷や飯を食わされるという口癖を定着させたことが、真人を暗い気持ちに追いやることもあった。
「学会は明日だ。それより成績はどうだ?」
「まあまあかな。落第はしないよ」
「油断しているとすぐに落ちこぼれるぞ。勇人はもっと」
煙草に手を伸ばそうとした父の手が空を切る。
エプロンをした母が、煙草をテーブルから素早く取り上げたのだ。
「あなた、禁煙したんじゃありませんでしたっけ?」
「い、いや。つい」
「空気汚れるしカーテン汚れるんだから、全く勘弁してくださいね」
母は父と二歳年下で、日舞の講師をしている。品があって、めったに声を荒らげたことがないが、言うべきことははっきり口にするし、父も頭が上がらないようだ。
「さ、二人とも辛気くさい顔やめてご飯にしましょ。今日は中華よ」
「お前、太るからしばらく和食中心にするって言ってたじゃないか。俺、昼飯ラーメンにしちゃったよ」
「おあにくさま。食べた分だけ動けばいいんです。真人さんも中華好きよね? ね?」
同意を求められ、真人は頷いていた。旗色が悪くなった父はせき込みながら食卓についた。
辛党の母が作った麻婆豆腐に父と真人は同じように玉の汗を浮かべた。
「ところで真人、春になったら富士山に登るぞ」
父は登山が趣味で、息子たちを伴うことが多い。兄の勇人がそれに従わなくなったので真人にお鉢が回ってくることが多くなった。
「あら男同士で徒党を組んで嫌らしい。私は仲間外れですか」
母がすねると、父は降参するように手を振る。
「わかったわかったみんなで行こう」
厳格で不器用な父と、愛情深い母に囲まれて真人のさっきまでの塞いだ気分が嘘のように晴れる。改めて家族のありがたみを実感した。
みのりと名乗った彼女には、自分のように大事な人はいなのだろうか。
ふと同情の念がわき起こった。




