出会い
黒い犬が増えた――。
ラベンダーは地上に足をつけ、そっとあたりを見渡し、誰もいないのを確認した。
透明な翼を閉じる。
彼女の羽は普通の妖精とは違っていた。混じりけのない純度の透明度を誇る羽。
くっきりと浮かび上がる翅脈は、光線の角度によっていろんな色に変わる。
他の妖精にはない特徴が、彼女が何者であるかの証でもあった。
妖精の女王として生まれた彼女だったが、小さい頃からお転婆で、供もつけずいつも一人でふらふらと飛びまわっていた。
数日前に空があやしい影に覆われたかと思うと、一夜にして世界が変わってしまった。
黒い犬は子牛ほどの大きさをしている。真っ黒でつるつるした皮膚、火のような燃える目で気味の悪い叫び声を上げる。声を聞いた者は、耳を押さえて震えるしかできなかったという。
黒い犬に触れると、その場で死ぬとも言われている。
さらに、死者の行列を見たという者もいた。邪悪な騎馬隊が黒い旗を掲げて、どこかへ向かっていた。
ラベンダーは、それらをこの目で確認せねばと思っていた。
妖精たちがおびえている。それを守るのは女王である自分の資格であった。
女王と言っても、ラベンダーはついこの間、結婚をして、女王の資格を得たばかりであった。
十八歳の彼女は、ミルク色の肌に髪は腰くらいある金髪で青い瞳をしていた。
すらりと手足が長く身長もあった。身長のわりに痩せていて、夫であるローワンはもっと太れ、といつも言った。
夫のことを思い出すだけで、胸が悪くなる。
ラベンダーは顔をしかめて首を振った。今は、ローワンのことなど思い出してはならない。あの、いまいましい夫は、今頃、他の女性、自分の義妹と仲良くしているだろう。
「ああっ、もうっ、いやっ」
ラベンダーは叫ぶと、足を踏みならした。
「いやだ、いやだっ」
片時もローワンのことが頭から離れない。
いつでもどこでも、自分は夫のことを考えている。
城を抜け出したのはそのためだ。
ローワンは自分じゃない女性を愛している。
その事実を認めたくない。
だから、彼の事を頭から追い払うために、何か別のことを考える努力をしているのだ。
ラベンダーが大きく息を吐きだした時だった。
少し離れた所で、奇妙な叫び声がした。聞いたこともない断末魔の叫び。
ラベンダーは全身が総毛だった。
振り向いて少し行くと、黒い犬の集団に出くわした。
赤い燃える目、唾を垂らし、何かに向かって吠える犬。そして、剥きだした牙で何かを引き裂こうとしていた。
「あっ」
ラベンダーは、羽を広げて飛び立った。ハシバミの杖を取り出す。
「邪悪な生き物を取り払え!」
杖を振ると、黒い犬がいっせいにこちらを向いた。
なんて、恐ろしい姿をしているのだろう。
瞬きをしてしっかりと目を開けた時には、黒い犬は全て消滅していた。
地上に目を凝らすと金色に光る少女が横たわっていた。
ラベンダーは震える体を叱咤し、地上へ降りようとしたが、地上は黒い犬で穢れていた。浄化しなくては、下りられない。
(助けて…)
金色に光る少女が呟いた。
彼女は、死者の魂だった。
体を丸めて横たわり、白金の髪は柔らかくうねっている。美しい少女だ。
(わたしは、アニス。助けて、お願い)
彼女はそう言った。ラベンダーは頷いた。
「今、助けてあげるわ」
ハシバミの杖を振り上げ、アニスの体を宙に浮かせた。
「こちらへ」
杖で呼び寄せ、自分の腕に抱えようとした。
「やめろ」
背後で声がしてはっとすると、夫に両腕をつかまれた。熱い息が耳にかかる。
「ローワンっ」
彼の声を聞いただけで、心臓が跳ね上がり息ができなくなる。
「何をするのっ」
「それはこっちのセリフだ。勝手に城を抜け出し、あげく、バカな真似をしてやがる」
「触らないで」
「黙れ、このわがまま娘」
睨まれて萎縮する。涙がじわっと盛り上がり、ラベンダーは口を噛みしめた。
掴まれた腕が熱く、じりじりしている。
「離して」
「おとなしくするのなら、離してやるさ」
ラベンダーが小さく頷くと、ローワンが手を離した。
アニスは宙に浮いたまま、目をさまよわせている。
「死者はおとなしく浄化するもんだ」
アニスはゆるゆると首を振った。
(わたしは死んでいないの。残念だけど…)
弱々しい声に、らベンダーは胸が痛んだ。
「助けてあげるわ」
「お前は黙ってろ」
ローワンの厳しい言葉に、ラベンダーは目を吊り上げた。
「わたしに指図しないでっ」
「お前は俺の妻だ。お前に指図しないで、誰ができるっ」
ラベンダーは怒りで我を忘れそうになった。ハシバミの杖を握りしめた。
「よくも、よくも…っ」
「今、それどころじゃないだろ」
ローワンが大きくため息をついた。
「話は後で聞いてやるから、この死者を導いてやれ」
ラベンダーの顎を指ですくい、唇に親指を押し当ててくる。
ラベンダーはまたもや体が熱くなって、何も言えなかった。
バカにされて、情けない気持ちになる。
力を抜いたラベンダーを見て、ローワンはほっとした。
「お前にしかできないんだから、除霊してやれ」
アニスは首を振った。
(除霊などできないわ、わたしは死んでいないもの)




