98 ロメオの選択
人は岐路に立たされたとき、いつでも最良の選択ができるとは限らない。
そのときのロメオもそうだった。
本当は、馬車に乗り込もうとするジュリアを強引にでも押しとどめ、マリア・リベルテが戻ってくるのを待つべきだったのだろう。
けれども実際には、ロメオの横をすり抜けてビロードに覆われた座席に座るジュリアを、彼は止めることができなかった。
この機会を逃したらもう、手がかりはみつからないかもしれない。失踪した弟の行方が知りたくて焦るジュリアの気持ちが、ロメオには痛いほどわかったからだ。
「わたしは行きます。どうか、あの人たちが戻ってきたら、勝手なことをしてごめんなさいと言っていた、と伝えてください」
顔を上げて、ジュリアはにこりと笑う。
気丈な笑顔。けれどもその表情とは裏腹に子猫の精霊をぎゅっと抱きかかえている様子は、彼女の内心の不安をあらわしているようにも見えた。
ロビンの護衛であるロメオが馬車に一緒に乗り込むことはありえない。それを飲み込んでのジュリアの決断だった。
今回宿に潜入するにあたって、ロビンはマリア・リベルテらと行動をともにし、ジュリアとロメオはの連中をごまかすための目くらましの役を担うことになった。それは術師でもあるマリア・リベルテが自らの補佐としてロビンの同行を望んだためだった。別行動の刻限はきょういっぱいで、夕方彼ら本来の宿泊場所で落ち合うことを約束している。
本当だったらロメオはロビンにつき従うべきなのだ。自分はハマースタイン家のやとわれの身なのだから。
だから約束の合流場所を無視してどこに向かうのかわからない馬車になど、乗り込むことはできない。
自分が行けない以上、ジュリアを一人で行かせるべきではないのだ。だからどうあってもジュリアを止めなければならない。
馬車の脇に控える初老の男に向け、ジュリアは口を開いた。
「どうぞ、馬車を出してください。この人はここに残りますから」
しかしジュリアがそう言い終わらないうちに、ロメオもまた光沢のある赤いビロード張りの座席に身を滑らせた。
最良の選択は、得体のしれない相手の誘いを断り、2人とも馬車などには乗らないことだ。けれども最悪の選択は、明らかに狙われているこの少女を一人で行かせて、みすみす相手の手に渡してしまうことだ。
もちろんこれは、ロメオのキャリアにとってはマイナスの行動だ。どんな状況下においてもロメオは職務を放り出すべきではない。
しかしそれでも。近衛兵隊長に掛け合ってジュリアを連れ出した自分には、責任がある。
ロビンには妙に運の強いところがある。あの赤毛の少女は最悪自分が戻ってこれなくても、一人で旅をしてでも見世物一座に追いついてしまいそうな気がした。
ましてやいまロビンは、計り知れない力を持つマリア・リベルテと行動をともにしているのだ。
隣でジュリアが慌てた声になる。
「降りてくださいロ……あっ、あなたは。声をかけられたのはわたしです。わたし、ひとりで行きますから」
ロメオはそれには答えず、初老の男に、扉を閉めるよう促した。
子猫のアゲートがジュリアの膝の上で、ひどく退屈そうに伸びをした。
***
転移酔い。マリアがそう表現していた状態を、ロメオたちは実際に体感する羽目になってしまった。彼らを乗せた馬車が一瞬で、別の場所に移動したからだ。
きつく絞られた雑巾のように内臓が捩れ、苦い胃液が逆流してくる。頭にも手足にも万力で締め付けられるような痛みがきりきりと走る。隣ではジュリアが真っ青な顔をして唇を引き結んでいる。子猫の精霊だけがくつろいだ表情で丸まって目を細め、尻尾をゆらゆらと優雅に揺らしている。
ほろが引き上げられ、2人と1匹は馬車から降りるように促された。
ロメオは自らも頭痛と吐き気と締めつけられるような四肢の痛みに耐えながら、真っ青な顔でよろめくジュリアに手を貸した。子猫のアゲートはジュリアの膝からするりと降りて、軽やかに地面に足をつけた。
ぴりりと乾いて肌寒い空気が、ここが南部ではない別の場所であることを告げていた。新都では朝から分厚い雲に覆われていたはずの空は、吸い込まれそうな冥い群青一色だ。
そこは大きな屋敷の庭だった。いや、屋敷ではない。城といっていいようないかめしい建物だ。庭をぐるりと囲む石造りの城壁。その外側には起伏した大地。盛り上がった丘に緑深い森が広がるのが見える。尖ったシルエットのやたら背の高い木々。たくさんの梢がざわざわと風に揺れて波打っている。
ロメオはカルナーナのほとんどの地域を国境沿いのあたりまで旅をしたことがある。その経験から推し量るに、ここは北部の湖沼地帯のあたりだ。
王都やブリュー侯爵領などと違い、ここの城壁は町全体を囲むのではなく城とその庭だけを守るタイプのものとなっている。
カルナーナの北端の国境の向こうはオルアスターだ。オルアスターは貧しい小国であり目立った軍も持たず、他国を侵略しようとした歴史もない。オルアスターの西と東にはそれぞれ大国のアルグリッドとナルキアがある。しかし、2つの国とカルナーナの間にはそれぞれ高く険しい山脈が横たわる。この地方では、要塞都市の発達する要因があまりなかったのだ。
北東の空に聳えるのは冠雪したイスクエルド山脈。北西にはデルチュア山脈の名だたる峰の数々。目測だがそれらまでの距離と角度からして、旧デュメニア伯爵領のあたりであるかと思われた。
ロメオは不審に思いながらもう一度城に目を向けた。
かつては広大な領土であったデュメニア伯爵領だったが、ジグムント・デュメニア伯爵が爵位を返還したのちは、政府から遣わされた役人が治める国有地となっているはずだ。こんな城が存在していようはずはないのだが……。
ロメオに支えられながらやっと馬車から降りたジュリアは、しかしすぐに胸を押さえてその場にうずくまる。
「大丈夫か? ジュリアさん」
ジュリアは無言で頷いたが、その顔は真っ青なままだ。
ここまで彼らを案内してきた初老の男は2人の横で、無表情に待っている。慣れているのかそもそも人間でないのか、2人と違って瞬間移動がまるで応えていない様子だった。
「彼女を少し休ませてもらえねえかと思うんだが……」
「お疲れのところ申し訳ありませんが、殿下が待たれておりますので」
「ロっ……ライムさん、わたし大丈夫です」
ジュリアはあやうくロメオの本当の名前を呼びそうになったが、すんでのところで踏みとどまった。
とはいえジュリアのフルネームを呼んで声をかけてきた相手だ。すでにロメオのことも知られている可能性は高い。
ふらつきながらもジュリアは何とか立ち上がる。ロメオは内心やや気おくれしながらも、さっきのように腕を伸ばしてジュリアを支えた。
大男の武骨な腕で支えられるのは、ジュリアは不快ではないだろうか? 気持ちが悪いとか思われていないだろうか?
きょう自分はちゃんと手を洗っただろうか?
さっきは自分も吐き気と痛みでいっぱいいっぱいだったから気が回らなかったが、一度気になり出すと、自分がひどくぶしつけな真似をしているようでどうにも心地悪い。
とはいえ、ここにはマリアもロビンもいない。手助けするのも支えるのもロメオで我慢してもらうしかなかった。
ロビンに借りた洗いざらしの軽業用の稽古着に身を包んだジュリアはひたすらに小さくて可憐で、自分とはまるで別の生き物のようだ。少女は蒼白な顔のままロメオの腕につかまっていたが、あまりにも軽くてまるで体重がないみたいに感じられる。
さっきまでロメオを悩ませていた、こみ上げる吐き気と筋肉痛と関節痛と骨痛は徐々に収まりつつあったが、ジュリアの方はまだそういうわけにはいかないようだった。
子猫のアゲートにはジュリアの状態がわかるのだろう、抱き上げてくれとも言わず、ジュリアに寄り添うようにして足元で静かにしている。
ロメオは気を引き締め直し、初老の男に向かってもう一度交渉した。
「一度、井戸で顔を洗わせてくれ。なに、大した時間はかからねえ」
「井戸……ですか?」
「その殿下とやらも、別にいまわの際ってわけでもねえんだろ? だったらもうちょっとぐらいは待っていただけるんじゃねえのか? 顔を洗えば彼女だって気分がしゃっきりするはずだ」
「……承知いたしました」
返答があるまでに妙な間が空いたが、結局男は頷いた。
「こちらです」
子猫のアゲートは心得たもので、跳び上がってロメオの身体をよじ登り肩の上にちょこんと乗った。
案内されながら、ロメオは小声でジュリアに話しかけた。
「そのまま聞いてくれ、ジュリアさん。あんたの弟くんから聞いているかもしれねえが、言霊の術についてだ。貴族が言霊の術を使って相手を従わせようとするとき相手の名前を呼ぶのは、魂に楔を打ち込むためだ。何度も呼ばれ慣れている名前はその人の魂の近くにあるんだ。だから言葉を奥深く魂まで届ける使者の役割をしてしまう。だが、無防備でいるとき名前を呼ばれるのと警戒しているときでは、明らかに術のかかる強さが違う」
ジュリアの弟のジョヴァンニがアントワーヌ・エルミラーレンの言霊の魔術によって強く操られるようになってしまった一番大きな理由がそれだ。だれかが彼に言霊の術を使うかもしれないなどと、そもそもジョヴァンニは想定していなかったのだ。
もう1つ理由はある。
ジョヴァンニにとって運の悪かったことに、彼に術をかけたときのエルミラーレンは憲兵隊の副隊長の立場をとっていた。ジョヴァンニにとっては上官だ。普段から軍人は上官の命令には従うものである。それもあって、あのときジョヴァンニは術が非常にかかりやすい状況に置かれていたのだ。
あとでロメオら警備兵は、自分の雇い主であるジゼル・ハマースタインとあの事件について話し合った。また、それとは別にロメオは、術師の使う術について詳しい人間に聞き合わせをした。その2つから言霊の術がどういうものかをロメオなりにまとめ、対策を考えてきた。
はっきり言って、万人に効く強力な防御方法はない。だが、影響を小さくすることなら可能なはずだった。
それにしても、相手が悪すぎる。
アントワーヌ・エルミラーレンというのはある意味最悪の相手であるといっていい。
カルナーナの国民の間には、未だ王家への憧憬が根強く残っている。
カルナーナ王家は新興国のオルアスターや隣国リナールなどと比べても由来が古く、高貴な血筋であるとされてきた。古くから王家は国民に愛され、国民の誇りの象徴でもあったのだ。
かつて都では富裕層の台頭により革命が起こったが、それは地方に住む国民たちの預かり知らぬことであったのだ。
民衆の意に反して滅ぼされてしまった王家の末裔。
王家に背くことに抵抗感を覚える国民は少なくない。その命令がなんであれ、保守的な人々ならば言霊の術など使わなくても唯々諾々と従ってしまいそうだ。
とはいえ、恐らくだが──とロメオは考える──それでもなお自分には言霊の術は効きにくいだろう。
なぜなら自分には忠誠心のようなものがないからだ。断言するが、欠片もない。貴婦人に対しても対等な雇用・被雇用関係に過ぎない。
いまのジュリアについてはどうだろう?
弟のジョヴァンニは憲兵隊員だった。いわば、新政府のお役人だ。弟ともども新都に住み、彼女自身も恐らく中等教育までは受けている。新しい価値観に触れ、王家に対する盲信のようなものは薄れているかもしれない。
だが、この件に関してはあまり楽観的に考えすぎない方がよい。
理性では新政権の理念に賛同していても、それでもなお王家に対する強い憧れを持つ国民は多いのだ。




