99 病床のエルミラーレン
案内されたのは謁見室のような公的な場所ではなく、完全なプライベートルームだった。
入口には何人かの衛兵が武器を手に待ち構えていて、ロメオたちを取り囲むようにして一緒に部屋の中に入ってきた。
部屋の主は病に伏せっていた。豪奢な造りの天蓋つきのベッドのすぐわきには主治医なのであろう、白衣の男が控えていた。
部屋全体に薬品と消毒液の匂いが漂っている。
「きょうは気分がいい」
病身の男は主治医の手を借りて身を起こしながら、ロメオとジュリアを見た。
「かねてから気になっていたジョヴァンニのお姉さんを、やっとこの城に招くことができたからね」
白っぽい金色の髪。ごく淡いグレイの瞳。細く整った鼻梁。尖った顎。温度のない、それでいてどこか神経質そうな眼差し。
アントワーヌ・エルミラーレン──逃亡奴隷のハルの行方を追う憲兵隊の副長に乗り移り、ハマースタインの奥さまのお屋敷に現れたカルナーナ王族の末裔だ。
カルナーナ政府が一流の絵師に似顔絵を描かせ、多数の人員を動員し国中を捜しまわったにもかかわらず、杳として行方の分からなかった男が目の前にいた。
しかしながら、あのときとは雰囲気というか、様子が違う。
あのときブランコ師アートを相手に俊敏な動きで剣を振るっていた男は、いまは腕を動かすのさえけだるげだ。
なんの病気だろうか。
消毒液の匂いに混じって、微かに、ほんの微かにだが異臭がする。なぜだかロメオは、かつて戦場にいたときに嗅いだ臭いを思い出していた。
──腐臭?
「ジョヴァンニは……弟はここにいるんですか?」
ジュリアはロメオの支えから離れ、よろよろとエルミラーレンに駆け寄った。
とっさにあとを追おうとしたロメオは瞬時に長い槍を構えた2人の兵に左右から阻まれる。前振りも何もない影のような動きだった。
呼吸で間合いを測ることができない。やりにくい。
ジュリアの前にも、べつの衛兵がすっと立ちはだかる。
動作は俊敏だが皆一様に表情も生気もなく、生きて呼吸しているような感じがしない。まるで紙のようにぺらりとめくれてしまいそうな存在感のなさだった。
「会わせてください。ジョヴァンニに会わせて!」
ジュリアは衛兵たちの異様さに気づく様子もなく、ただ必死にエルミラーレンに訴える。
病床の男は鷹揚に頷いた。
「もちろんそのつもりでいるとも。ジョヴァンニはよく仕えてくれているからね。早く家族を呼びよせてやりたかったのだよ」
彼は手を上げてジュリアを押しとどめている衛兵を一歩下がらせ、少女に傍に来るように促した。ロメオは2人の兵とともに黙殺された。
男はベッドサイドのボードに手を伸ばし銀ぶちの眼鏡を掛け、改まった様子で口を開く。
「ただし、いまは勤務時間内だ。彼は城の警備と巡回を担当していてね。真面目な彼のことだ。いま呼びつけると同僚に迷惑がかかるといって気に病みそうだから、交代の時間まで待ってもらえるかね。質問があれば、わたしが代わりに受けるから」
「ここはどこだ?」
そう質問したのはロメオだった。
エルミラーレンは少女から男に視線を移し、不快そうに顔をしかめた。
が、すぐに笑みを浮かべ、穏やかな声で返してきた。
「ここはエルミラーレン公爵城だよ」
「このへんは旧デュメニア伯爵領じゃねえのか? カルナーナ建設大臣ジグムント・デュメニアの出身地の。このあたり北部の湖沼地帯は、いまはカルナーナ直轄の国有地のはずだぜ」
「それは逆賊の決めたまやかしの版図だろう。そんなものに意味があるとは思えないが」
今度は男ははっきりと眉をひそめた。声の中にも冷やかな響きが混ざる。
「そんなことより、きみはロメオ・モルデウだね。きみの仕事は我が婚約者レディ・ブリューの護衛ではなかったかね? 職務を放棄してこんなところをうろついているのは何の真似かね」
やはりロメオの正体は相手に知られている。
相手は言霊の術を使ってくるだろうか?
使ってくるとして、自分がそれに操られてしまう危険はあるだろうか?
油断なくあたりに目を走らせながら、ロメオは言い放った。
「あいにくだが、おれの雇い主があんたと婚約していたことがあるという事実はまったくないそうだぜ」
「古き血の盟約だよ」
ロメオの言葉を半ば遮るように、男は言った。
「レディ・ブリューはお忘れなのだね。家同士の結びつきは絶対だ。父上のブリュー侯爵にも許しをいただいている正式な婚約だ」
歌うような言葉の響き。
「下賤の男との婚姻など最初から無効だった。わたしと彼女は依然、婚約中なのだよ。王室への反逆者どもとのごたごたがらみで思わぬ長い春となってしまったがね」
ロメオの肩に乗った子猫のアゲートは、さっきから緊張した様子で、尻尾をピンと上げ、床についた男を見ている。子猫が静かに毛を逆立てている気配を、ロメオは感じた。
得体の知れない移動方法で一気にカルナーナ北部に飛んだ馬車の中でさえ、ゆったりとくつろいで寝そべっていたアゲートが、いまは警戒心をあらわにしている。
「ときにジュリア──」
張りつめた面持ちの少女に、エルミラーレンは向き直った。
「ジョヴァンニから聞いたよ。お父さんのことはお気の毒だったね。25年前の王家殺害と国の動乱のため、お父さんは本来の武人としての職を失い、旧勢力に与するものとして疎んじられ、まともな職に就くこともできず、きみたちの幼いころに極貧と失意のうちに亡くなったのだそうだね。けれどもリッツォーリ家は代々王家に仕えてきた由緒ある武人の家系だ。ジョヴァンニを再び臣下として迎え入れることができたことを、わたしはとても嬉しく思っているんだよ」
「弟がそんな話をするはずがありません」
目を見開いて、ジュリアは言い返した。
「父が亡くなったとき、弟はまだ3つでした。わたしもまだ6歳にもなっていませんでしたが、亡くなったときの父は時代の変遷も自らの境遇も恨んでいませんでした。父が亡くなってからわたしたちは母とともに南部に移り住み、カルナーナ政府の補助金をいただきながら初等教育を受けたんです。弟もわたしも、いまの政府が悪いものだとは思っていません」
エルミラーレンは微笑んだ。
「とはいえジュリア、政府の用意する補助金などほんのわずかな金額だったのだろう?」
どこか冷たい耳障りの、それでいて妙に優しげな口調だった。
「きみたちのお母さんは南部で働きづめに働いて、結局過労で倒れて亡くなった」
「それは母がわたしたちに上級の教育も受けてほしいと──」
「それもジョヴァンニが話してくれたよ。お母さんが亡くなったあとは、お姉さんが働いてジョヴァンニを中級学校へ通わせてあげたそうだね。ジョヴァンニはお姉さんにもとても感謝しているそうだ。だから今度は自分がしっかり働いて、お姉さんに楽をさせてあげたいといっていたよ」
目を見開いたままの少女に向かい、噛んで含めるように、まるで小さな子どもに言い諭すように、男はゆっくりと語りかける。
「お父さんが無念でなかったはずがないだろう。ただ一途に真っ正直に王家に仕えてきただけなのに、反逆者どもの巻き起こした恐ろしい動乱の影響で非業の死を遂げたのだからね。それも歳の離れた若妻と幼い2人の子どもを残したまま。そしてきみたちはお父さんを死に追いやったものたちの作りあげた学校に通って、彼らの口先ばかりの綺麗事に丸めこまれて、まやかしの中で生きてきた。さぞや無念であったことであろうと思うよ」
「そんな……」
「それに、ご両親やきみが苦労した末にジョヴァンニが通うことになった中級学校も、彼にとっては決して居心地のよいものではなかったようだね。彼はクラスメートによってひどくいじめられていたという話だ。そのことをお姉さんは知っていたのかね?」
驚いた顔のジュリアに、エルミラーレンはもう一度微笑みかけた。
「いや、当然知らなかったのだろうね。ジョヴァンニは言わなかったのだろう。お姉さんに心配をかけるのは本意ではなかっただろうからね」
──ジュリアさん、この男の話をまともに聞いては駄目だ!
ロメオはよっぽどそう声に出して、その会話を遮りたかった。
エルミラーレンの言葉に潜んでいるのは、毒だ。
ジュリアは聡明な女性だが、弟には弱い。ましていまはどう見ても平常心ではない。
彼はジュリア・リッツォーリの弱点を的確に把握し、その弱点を狙って毒を吹き込もうとしているのだ。
中級学校に通っていたころジョヴァンニがいじめられていたと聞いても、ロメオは特に驚かない。そういうこともあったのかもしれないと思う。
彼は見るからに育ちの良さそうな、礼儀正しい少年だ。国から補助金をもらって通うような公立の学校では、恐らく異分子であっただろう。悪目立ちもしたかもしれない。やさぐれた連中が目障りに感じるようなタイプだ。
目をつけられてあらぬ因縁をつけられたとしても不思議ではない。
ジョヴァンニがそのことを姉のジュリアに相談しなかった理由はわからない。
自分でなんとかしようと思っていたのかもしれないし、どうすればいいのかわからないまま心配をかけたくない一心で黙っていたのかもしれない。あるいは相談できる教師や友人が中級学校にいたのかもしれない。
あくまでもこの男の言っていることが本当のことだとしての話だが。
たとえ本当の話だとしても、もう過去の話だ。いまさら蒸し返すようなものでもない。
当時何があったにせよ、彼はそれを乗り越えて無事に卒業した。そして憲兵隊の試験を受け、見事に合格したのだ。
いまそれを蒸し返す理由はただ1つ。この男はジュリアの動揺を誘おうとしているのだ。少女の心にさざ波を立てることで操る隙をつくろうとしているのだ。
けれどもロメオは2人の会話を遮ることのできる立場ではない。ジョヴァンニの行方を捜しているのも得体の知れないこの男から情報を引き出さなければならないのもロメオではなくジュリアなのだ。
いっそ周囲の兵が槍を振り回してくれでもしたら、ロメオとしてもまだ前に出ていって守りようがあるのに。
もどかしい思いでロメオは小柄な少女の後ろ姿を見つめた。
「わたしはね、ジュリア、きみに確かめたいのだよ──きみがどう考えているのかを。自由と平等は、あの連中の言い張るように本当に両立するものだろうかね? 素晴らしい理念のもとに運営されていたはずの中級学校でジョヴァンニは、ならずもののような連中に殴られたり蹴られたり勉強道具を壊されたり食べ物を捨てられたりの過酷な毎日を過ごしてきたのだよ。これはいまの政府の真実の姿の一端を映しているとはいえないかね? ジョヴァンニは持って生まれた品のよさやまっすぐな気性を妬まれて、生まれの卑しい性根の曲がった連中に憎まれた。とても不幸なことだったのだよ。人の世に正しく必要なのは自由などではなく秩序というものではないだろうか。人間ひとりひとりが己の分をわきまえ持って生まれた身分を受け入れて生きる方が、無用の争いを起こすことなく幸福に人間らしく生きられるとは思わないかね?」
ゆっくりと紡ぎ出されるエルミラーレンの言葉の中身を咀嚼しながら、ロメオはこの男がハマースタインの奥方の屋敷に現れた日のことを思い出す。
この男に操られたジョヴァンニが犬歯をむき出しにした野猿じみた凶悪な顔で、ブランコ師アートの喉笛を食いちぎろうと飛びかかっていったときのことを思い出す。
あのときこの王族の男は感情も何もない冷淡な表情のままただそれを眺めていた。
「そして平等とはね、ジュリア、王族として生まれながらにして人の上に立つことが定められているものこそが、民の1人1人に与えることのできるものなのだよ。その立場にたつにふさわしいものがその役割を果たしてこそ、真の平等というものは実現する。カルナーナ共和政府のやり方は──そう、強欲なものが自由という言葉を言い訳にして余計な取り分をもぎ取るための都合のよい口実に過ぎないのだよ。あの連中の掲げる自由という耳障りのよい言葉のためにきみたちのお父さんは犠牲になり、きみの弟は辛酸をなめて育ってきたのだ。そして君はそのことからこれまで目を背けて生きてきた。それはあの連中が幼い君たちに教育と標榜する洗脳を行ってきたためだから、ある意味君のせいではない。仕方がないことだとも思うが、もうそろそろ目を覚ましてもよいころではないかね」
こいつの言うことなどすべてでたらめだ。
そう睨みつけるロメオの視線を気にする風もなく、エルミラーレンは少女に向けてすっと手招きした。
「もっとこちらに来なさい、ジュリア。そう、こちらに」
不意に──。
その声に、ざらざらとした独特の響きが混ざる。
それは正確には声ではなく、耳の裏側の頭の中に直接響く。
言霊の魔術だ!
「わかるね、ジュリア。きみもまた、王家への忠誠を誓うのだよ」
「ジュリアさん、こいつの声を聞いちゃいけねえ!」
ロメオは思わず耳を塞げと叫んで、エルミラーレンの声を遮ろうとした。
だが、遅かった。
ジュリアの顔からまるで色を無くしたように表情が消える。
放心した少女はたどたどしい足取りで、エルミラーレンに向けて数歩踏み出した。
押しとどめようと衛兵の槍を振り払った瞬間だった──。
何の前触れもなく、不意にロメオの身体はぐらりと前に傾いだ。
いつの間にかエルミラーレンは顔を上げて、まっすぐにロメオを見ていた。
「ロメオ・モルデウ、わたしは嬉しいよ」
薄れゆく意識の中で、王家の男の薄い唇が紡ぐその言葉をロメオは聞いた。
「ここにきたきみが偶然王家の血を引いているおかげで、わたしはきみの身体に自由に乗り移ることができるのだからね。きみの器は王族の意志を宿すのふさわしい。血の盟約は絶対なのだよ。先ほども述べたことだがね」
分厚い筋肉に包まれた水牛のようないかつい男は、大きな音を立てて床に倒れ伏した。
少女はその様子を振り返ることもせず、ぼんやりとした顔のまま王族の男を見上げている。
タンッ!
軽やかな跳躍を見せ、子猫のアゲートがロメオの肩を離れ、病床の男に飛びかかっていった。




