90 樹上の休息
「ルビーーっ! 起きてるー?」
遠くで呼ぶモナの声が聞こえて、ルビーは目を開けた。丸木小屋の大きな窓から、まぶしい陽の光が差し込んできていた。
ここにきてから、きょうで3日目の朝になる。ルビーは起きだして毛布をたたみ、窓辺に歩み寄った。
そこは巨大な樹の上だった。人間が何人も手をつないでも一周できないぐらいの太い幹が、川の面から突き出て空に向かって伸びている。のびやかに広がる枝の一つ一つがすでに、大きな樹の幹の太さだ。
これまでルビーが見たことがないぐらい、とてつもなく大きな樹。その重なり合う枝々の遥か下方、青く光る川の面にモナの男の子のようなショートカットの頭が見えた。モナはこちらに向けて大きく手を振る。
「おはよーっ! あとで朝ごはん持っていくねえーっ」
ルビーは窓から身を乗り出して、黙ってただ大きく手を振り返した。おばあちゃんに勧められて風を操る練習を始めたルビーだったが、つくり出せる声はまだ小さく、呼んでもきっとモナには届かない。
水蛇の都をあとにする前に、モリオンがその不思議な力をつかって成長させた樹だった。ルビーたちがいるのは、枝の間につくられた丸木小屋の中だ。水に入るのを嫌がっていたカナリーが水蛇の都に滞在するための、苦肉の策だった。
水底にある樹の根元は、ちょうど町はずれのだれも住んでいない場所に位置している。力を使う前にモリオンは、水蛇の都の住人たちの許可も取った。
小屋はこじんまりとしているが、壁も屋根もあるちゃんとした家だ。巨大な蔓で四方をしっかりと固定されている。床はすべすべの木の板でできていて、裸足でも快適だ。大きな窓から差し込む木漏れ日で、中はとても明るい。
そよそよと流れ込む風は暖かくやさしい。窓からは水面が見渡せる。淡い青い光を放つ川は、いつでも夢幻のように美しい。
この距離のこの角度からは水底にある街までは見えない。波打つ水面が静かにどこまでも広がっているばかりだ。
水面の世界にも昼と夜がある。あたりが暗くなり、目を凝らしても空に太陽が見つけられなくなったら夜だ。夜になると、それまで見下ろしていたはずの川が、不思議なことに眼下から消えてしまう。
大きな枝の隙間から覗くのは満天の星空で、遥か下を見下ろしても一面の星の海。視界の全てが瞬く星々で満ちた空間だ。
まるで夜になると巨大な樹ごと、すっぽりと別の場所に移ってしまったかのようだった。
最初の晩にルビーと一緒に初めてそれを見たカナリーは、ため息をついた。
「せっかくのロマンチックな景色なのに、一緒に眺めるのがロビン、あんたじゃあね。どうせだったら──」
そのあと言いかけた言葉をルビーをちらりと見て飲み込んだカナリーは、代わりにこう言い足した。
「あーあ、素敵な彼と一緒に見たかったなあ」
アートのことを言いかけたのだとわかった。でも、どうしてそんな風に言い直したのかはわからない。
大きな樹をぐるりと取り囲むたくさんの星はとても綺麗だった。次の日の朝、1人で早起きして見た夜明けの風景──空と輝く川の面──は荘厳で素晴らしかった。
でも、ルビーにはいま別のだれかが一緒だったらもっと楽しいかもしれないとは、どうしても思えない。
あの不気味な女将のところに残してきてしまったロメオとジュリア。彼らはどこかに連れ去られてしまったようだとモリオンは言っていた。もしかしたら、あの女将のつくった奇妙な異空間に閉じ込められているのかもしれない。
モリオンが戻ってくるまではルビーには待つ以外どうしようもない。どうしようもないけどもどかしい。もどかしいのが現実だから、たとえばジュリアがここに来ている状態を、ルビーにはうまく想像できない。
巡業のため一座とともに舟で旅立ったアートとレイラ。その同じ舟の中で身体を壊して寝込んでいるはずのロクサム。行方不明になっているジュリアの弟のジョヴァンニ。見世物小屋を逃げ出してどこかへ消えたナイフ投げ。何かの決意を秘めてブリュー侯爵領へ旅立ってしまったジゼルさま。街に残っているはずの楽団の人たち……。
みんなみんなをここに連れてくることができたら、ルビーの胸を塞ぐこの重い塊は消えるんだろうか。
だけどどうやったって連れてくることができない人たちだっている。
冷たい固い塊のようになって横たわっていた火炎吹き。手足を投げ出して光る水の中に浮かんでいた青白い顔の女の子。カナリーに腕輪だけ残し、無数の光る粒になって散ってしまった川の精霊。
ここに広がる景色がどんなに綺麗でも、二度と彼らがそれを見ることは叶わないのだ。
レイラから託された宝石の小袋は、ロメオと一緒に泊っている宿に預けた荷物の中に置いたままだ。どんな顔をして、あれをレイラに返せばいいんだろう。
そしてアシュレイ。
アシュレイのこともルビーは考えた。
アシュレイはいつでもルビーの内側にいる。いつでもルビー自身と一緒で、いつでもルビーの一部だ。だから、夢のような星空も、静謐な夜明けも、そよ風の吹く朝も、ルビーのものであるとともにアシュレイのものでもある。
丘の上の廃墟から親方と一緒に見た煉瓦の街の風景も、モリオンの巨大な蔓に巻き上げられて見せられた走る馬車も、アートに連れられて登った大天井のブランコの横木も、ルビーを水槽に閉じ込めた座長の怒り狂った顔も、みんなみんな一緒に見てきたのだ。
それは嬉しいことなんだろうか?
けれどももう、ルビーの外側にアシュレイはいない。
海流に乗ってすさまじいスピードであの海の果てまで泳いでいくこともなければ、たくさんの魚を豪快に丸飲みすることもない。海底の泥を撥ね上げながら隠れている大きな獲物を狙うこともなければ、しゅっとした青い背びれを光らせて月に向かって海面を高く跳ぶこともない。
それはやっぱり悲しいことのように、いまでもルビーには思える。
そしてまたロクサムのことも、再びルビーは考えた。
ロクサムにこの景色を見せてあげたら、ロクサムは喜ぶんだろうか? それはロクサムを大事に思っているということになるんだろうか?
ロクサムの体調が悪いことをルビーは知っている。だからここに連れてきたりするよりも、ロクサムがこき使われたりすることなく船の中でゆっくり休めていられるならその方がいい。それで少しでもよくなって、起き上がって歩けるようになっていたらいい。
ロクサムがいまよりもしあわせになってくれたらいい。本当に嬉しいと思うことに出会って、心からのびのびできる場所にいけたらいい。だけどきっと、そのためにルビーにできることはそんなにたくさんはないのだ。
カナリーはアートが大事だからここに連れて来たいんだろうか。カナリーにとっては、相手を大事にするということの意味はそういうことなのかもしれない。特別に綺麗なものを見せてあげたいってことなのかも。
本当にカナリーがアートを大事にしたいなら、彼と一緒に空中ブランコの練習をもっと真剣に取り組めばよかったのに。ルビーはちょっとそんな風に考えてしまう。
だけどカナリーはきっと、そんなことは思いつかないのだ。カナリーの頭の中では、何かいろいろなことがちゃんとつながっていないように思えた。どうしてそうなのかは、ルビーにはよくわからない。もっとしっかり話をしてみたら、カナリーのことがもう少しわかるようになるんだろうか?
モリオンから聞いた話では、カナリーは見世物小屋にはもう帰らない、帰りたくないと言っていたそうだ。けれどもモナに連れられて飛んだ南の島では、アートの乗っている一座の船に連れて行けと言っていたらしい。
カナリーは本当はこれからどうしたいと思っているんだろう。
おとといもきのうも時間はあったから、ブランコの道具がなくてもできる基礎トレーニングをルビーは地道に続けている。腹筋や逆立ちや簡単なストレッチやバランス歩行。一緒に練習しようと誘った方がいいんだろうか。
もしもアートだったら、このさきカナリーのことをどうしようと思うんだろう?
連れていってとことん面倒を見ようとするんだろうか?
それとも誰かに預けて忘れてしまうんだろうか?
売り飛ばされたカナリーの行方をルビーが追った大きな動機の1つはアートのことだった。
レイラは言っていた。もしもアートが火炎吹きの危機を知ったら、すぐさま船を降りて助けに行ってしまうと。だれかに危機が迫っているときは、彼はいつでもあんなふうに躊躇なく飛び出していくのだろう。
ルビーには火炎吹きを助けることはできなかったけれども、それでも亡くなった火炎吹きのためにできるだけのことはしようと思ったのだ。
いまも船の上にいて身動きが取れないアートは、地上で起こってしまったことをレイラから聞いてもどかしい思いをしているはずだ。だからアートが動くのと同じ真摯さでルビーは動こうと思ったのだ。もしも彼が船から降りていたらきっと、カナリーを捜してまっすぐに助け出していたはずだから。
ルビーは彼が手を伸ばしても届かないその先の、ほんの少しの助けになりたいと願ったのだ。
水を張った水槽に閉じ込められたルビーにためらいもなく差し出されたアートの手。頼もしいその腕に引き上げられてルビーは命を救われた。けれども彼は本当は、あのときつかんだルビーの手に、かつて伸ばした手をすり抜けて舞台の底に落ちていった少女の幻影を重ねていた。
胸がずきりと痛んだ。
理由はよくわからない。
別にアートが心配なわけではない。彼は強いし、もしも何か困ったことが起こっても機転がきく。レイラや船医として船に乗っている建設大臣などの味方もそばにいる。
ルビーは考えるのをやめた。カナリーを起こそう。もうじきモナが朝食を持ってここにやってくる。
「カナリー、おはよう。モナがあとで朝食持ってきてくれるって」
小屋の中はとても静かだったから、ルビーの声はささやくみたいだったけど、ちゃんとカナリーに届く。それでも窓の外で小鳥が鳴いていて、きのうの朝までより少しだけ賑やかだ。どこから飛んできたのか、きのうのうちに上の方のどこかの枝に住みついたみたいだった。
カナリーは眠そうに目をこすりながら身体を起こし、毛布からもぞもぞと這い出てきた。水蛇の人たちが用意してくれた毛布はふわふわしていて、見世物小屋でみんなが使っている使い古されたぼろきれとは全然違う。
カナリーとは、あれから火炎吹きの話をしていない。
女将の宿に向かう馬車の中でずっとカナリーが泣きじゃくっていたとき、声の出ないルビーは何一つ言葉をかけることができなかった。
こちらの世界に来てからカナリーは火炎吹きのことを一切口に出さない。
もしかしたら、気持ちを切り替えてしまったのかもしれない。めまぐるしくいろんなことが起こるから、考えずに済んでいるのかもしれない。
でも、あえて考えないようにしているだけかもしれない。
ルビーの側からは、いまさら話題にできない。でも、ふとカナリーが火炎吹きのことを口にするとき、もっとちゃんと聞いてあげられたほうがいい気がする。モリオンが戻ってくるまで、予定ではあと1日か2日。少しでも会話ができるようにもっと頑張って声を出す練習しておこう。改めてルビーはそう思う。
「朝ごはんよりあたし、お風呂に入りたいんだけど」
半身だけ起こしたカナリーは丸太でできた壁にもたれて、ぼやくように言った。
「服も何日も同じだから、着替えたいのに困っちゃうわ」
「川で水浴びしたらどうかな」
ルビーは何の気なしにそう提案したが、直ちに却下された。
「川は嫌。あたしが泳げないの知ってるでしょ」
「下の枝が足場になってて……」
「嫌よ! 水浴びじゃ嫌なの。ちゃんと薪で沸かしたお湯じゃないと。それに新しい服も要るわ。せっかく身体を洗っても、同じ服を着るんじゃ意味ないもの」
下の方の枝が水際にうまく足場をつくっているから溺れる心配はない。服だって水浴びをしながら一緒に洗って乾かせばいい。ルビーはそれを説明したかったが、大声で遮られて諦めた。ささやくような声を紡ぐことしかできない状態で、言い合いになったらうまく伝わらない。
カナリーとうまく意志の疎通を図るためには、やはり猛特訓が必要な気がする。
「おっはよー、カナリー、ルビー。朝ごはん持ってきたよー」
ノックの音がして、大きなバスケットを抱えたモナが小屋に入ってきた。
続いてミナとマナも一緒に入ってくる。
3人ともいまは水蛇の姿ではなく、人間の女の子の格好をしている。モナはショートパンツに茶色の革のベストという男の子のようなスタイルで、ミナとマナは色違いのおそろいのワンピースを着ている。ワンピースはふんわりとした優しいシルエットで、色は淡いピンクと白だったから、2人が床に座ると2つの大輪の花が小屋に咲いたみたいだった。
カナリーはミナとマナのワンピースをちらちらと見てから自分の着ている地味な上下に目を落とし、ため息をついた。華やかな装いを、うらやましいと思ったみたいだった。
3人の女の子たちはそれぞれが運んできた大きなバスケットを小屋の真ん中に次々と置いた。バスケットからは温かそうな湯気が立ち上っている。
ミルク色のスープの鍋。焼き立てほかほかのパン。魚料理の乗った皿。ゆで卵に果物の盛り合わせ。中から現れるたくさんの料理に、ルビーは目を丸くする。
モナがにこにこ顔で口を開いた。
「きょうはねえ、みんなで一緒に朝ごはんを食べようと思って、たくさん持ってきたんだよー」
「みんなで食べるの? だってロビンはここでは何も食べなくてもよかったんじやないの?」
カナリーも目を丸くしながら質問した。
「そりゃこんなにたくさんあたし1人じゃ食べきれないけど」
「きょうの朝ごはんはね。あたしたちのお勉強も兼ねてるの」
うふふ、と笑ってミナが言った。
続いてマナとモナも口を開く。
「物質界に行ったら、あたしたちもこういったいろいろな食事をとるようになるはずだから、ちょっと慣れておこうと思って」
「ルビーもねえ、ずっと精霊界にいるなら特に何も食べなくていいんだけど、きょうあたり緑樹さまがお戻りになるっておばあちゃんが言ってたから、そろそろなんか口に入れておいた方がいいんだよねえ」
モナたち水蛇の女の子たちは、ルビーのことを本当の名前で呼ぶ。ただし、念のためガードの魔法をかけているのだそうだ。だから、カナリーにはルビーの人間界の通称である"ロビン"と聞こえているはずだということだった。もしも彼女たちがカナリーの前でモリオンを名前で呼んでも、カナリーの耳にはマリアと聞こえるらしい。
ミナマナモナは本当の名前のままだったが、水蛇のおばあちゃんが言うには、カナリーは精霊界で起こったことは多分ほとんど覚えていられないだろうから、あまり心配しなくてもいいそうだ。
人間が精霊界をきちんと記憶にとどめておくには、"精神的鍛練"とやらが必要になるという話だった。
※ 2/1訂正 胸がしくしく痛んだ → 胸がずきりと痛んだ
「しくしく痛む」のは胃で「ちくちく痛む」のは良心ですね




