91 ないはずの記憶
「お風呂?」
入浴したいのだといったカナリーに、モナはきょとんとした顔で問い返した。
「それなあに?」
「お風呂も知らないの?」
カナリーは呆れ顔になる。
モナは振り返って仲間を見た。
「ミナとマナは知ってる?」
2人は同時に首を横に振った。
「お風呂を知らないなんて、マナの知識とやらも大したことないわね」
カナリーはそう断じたが、ルビーにはそれは仕方のないことに思える。聞いた話を知識として蓄えることと、実際に人の社会の中で生活してみることは全然違う。
それに多分、人間の世界の中でも、日常的に湯を沸かして入浴する習慣を持たない国だってあるのだ。
3人の少女たちにカナリーは説明しようとした。が、これがなかなかうまくいかない。
「お湯を沸かすって? どうやって?」
「火を使うの?」
「陸の民が野菜を鍋で煮て食べるのと同じやり方なのかしらね」
「鍋って朝ごはんのスープが入ってた容器だよねえ。人間が入るんだったら、すごい大きな鍋が必要だねえ」
「けど鍋で煮たものは鳥でも魚でも死んでしまうわ」
「人間って自分を煮ても生きていられるの? だったらすごくない?」
「そうじゃなくて、ちょうどいい温度にするのよ。ロビン、あんたもしゃべれるようになったんだったら、黙ってないで一緒に説明してよ」
カナリーはルビーに加勢を求めてきた。ルビーもおぼつかないながらも何とか風呂の仕組みを説明する。
見世物小屋の風呂の構造は単純だ。石で組み立てた窯の上に湯船を設置している。下から火をくべて、直接水を温めるのだ。どんどん熱しながら汲み置きしてある桶の冷水をどんどん足していって熱くなり過ぎないようにする。水は湯船から溢れだして洗い場にどんどんこぼれて流れていく。そこらじゅうが水浸しになるが、窯の中には水が浸みないように工夫して作られているらしい。
4日間だけ下働きをしていたときに、水をたくさん足していく理由も教えてもらった。たくさんの人が入浴するため、そのままだと湯が汚れてしまって病気の原因となるからだ。
ハマースタインの奥さまのお屋敷ではもう少し複雑なつくりになっている。給湯室と浴室が分かれているのだ。湯船を直接火にかけるのではなく、給湯室から加減をされたお湯が流れてくるようになっている。
こちらは給湯室を覗いてみたことがないので詳しい仕組みについてはルビーにも説明できない。
ほかにも蒸し風呂というものがあるらしいことを本で得た知識で知っているが、これも仕組みは全然わからない。
さしあたってルビーは見世物小屋で見てきた風呂の様子を解説するにとどめた。
「石窯? 石窯ってなあに?」
「薪をくべる? 薪ってなあに?」
「木を砕くの? ……へええ、木を砕いて石の中に入れるの?」
「石の中が空洞になってるの?」
「空洞って中をくりぬいてるの? もともと空洞になってるの?」
「組み立て? 石を組み立てるの? 窯って小さな建物のようなものなの?」
「ちょっとうまく想像できないねえ」
「パンを焼いたりするのが石窯? パンってさっきの料理にあったふかふかしてたやつよね?」
「うん、あった。手でちぎって食べたわね」
「あれはおいしかったよねえ。また食べたいけど、あたしたちには作れないよねえ」
3人の少女たちはめいめい疑問点を口にしたが、それがいつの間にか食べ物の話に変わってしまった。
彼女らの賑やかな会話はしばしばとりとめもなく脱線していく。
自分たちの作れないものを持ってきたのだというモナは、腑に落ちない顔のルビーとカナリーに向かって言い加えた。
「カナリーの朝ごはんはねえ、毎日陸の民に頼んで届けてもらってるんだよー。あたしたちが食べるものはカナリーの口に合わないと思うし、力のもとにもなりにくいからねえ」
「今回カナリーがいてよかったわよね」
「おいしいものが食べられたものね」
「何より珍しい話が聞けて、楽しいものねえ」
「人間のお客さんは、本当に珍しいのよ」
「賢者さまだって、10何年か前に来たっきりだと思うわ」
「今回カナリーがここに来たのは、緑樹さまが大河世界を選んで飛んでくださったからよ」
最期のはミナの憶測だったが、細かい事情をいえば、多分違う。モリオンは精霊界に飛んだのではなく、異空間に精霊界を呼ぶと言っていた。呼ばれて応えたのが水の世界だったのはきっと、最期が間近だった川の王がいたためだ。
人間の世界からの客人が珍しいというのは、おばあちゃんも言っていたことだ。
精神的鍛練を積んだごく一部の者を除いて、人間が精霊界を訪れることはめったにない。
カナリーは行きがかり上ここに来ることになってしまったが、魔力を持たない人間がこちらの世界に連れてこられるのことはまずないといっていい。
たまたま何かの偶然で迷い込んでしまう人もいるにはいる。しかしほとんどの場合、そういう人間は自分で気づいていないだけで、実は半分精霊だったり、術師の素養を持っていたりするのだそうだ。
物質界から精霊界への通路はまず、周辺領域と呼ばれる地域につながる。
周辺領域は1つではない。草の民の住む草原世界、火の民の住む山岳世界、風の民の住む天空世界など、幾層にも分かれているのだそうだ。モナたち水蛇の都のある大河世界もその1つだ。
すべての周辺領域には大きな共通点がある。精霊界の中では比較的物質界に近い性質のエネルギーを持つ世界だという点だ。春夏秋冬と季節はめぐり、1日は昼と夜で構成され、時間の流れ方も物質界とよく似ている。
鍛練を積んだ人間でも、周辺領域を通過することなく精霊界の深奥まで一気に入っていくことはできない。
歴代の賢人グレイハートとて例外ではない。人間の賢者はいつも周辺領域のどこかに何日か滞在して精霊界に慣れてから、太陽の塔を目指したのだという。
先代の賢人は水の精霊と特に相性がよかったらしい。だから、しばしば大河世界に向けて時空を超えて渡ってきていた。
老グレイハートが10数年前水蛇の都に滞在した背景には、そんな事情があったのだという。
3日前、水底の集会所でルビーはおばあちゃんから、そんな説明と一緒にいろいろな話を聞いた。
太った男──カルナーナの首相──との果たし合いに敗れ、呪いを残して死んだ女術師にまつわる話もその1つだったし、ルビーのアンクレットについてももう少し詳しく教えてもらった。
アンクレットは普段ルビーの魔力を外界から遮断しているが、それだけではない。ルビーが魔法を使うときも、一度アンクレットを媒体として通り抜けてから外に働きかける流れになってしまっているのだそうだ。それはルビーも以前から薄々感じていたことだった。
ちょっとした魔法でもスムースに使うことができるようにするためにはまず、アンクレットの魔力と調和を取る方法を覚えなければならない。
そのほかにも、アンクレットに込められているさまざまな魔力と同調することで、ちょっと複雑なこともできるようになる。人間が"魔術"と呼んでいるような類のことだ。
また、同調を応用すればルビーの魔法そのものの効果を増幅させることもできる。
それらはすべてルビーの鍛練次第だということだった。だが、おとといときのう練習したみた感じでは、全然うまくいかない。
なぜならアンクレットに編み込まれた魔力を、ルビー自身が読み取ることができないからだ。
とにかく風を操るやり方だけは何度か試してみて、何とかまたできるようになった。
けれどもいまも、ルビーの中でなにかが引っ掛かっていた。
カナリーに川の王の守護石でできたバングルを施したとき、モリオンは言っていた。
不安定な力を安定させる役目を持っているのだと。それはルビーのアンクレットと同じ働きをしているのだと。
どうして賢者は、自分に石を施す必要があったのだろう。
賢者の妹の予言者は、何を予言したのだろう。
自分の中の魔力の、何が不安定だったのだろう。
どうしてモリオンは、最初に南の島で出会ったとき、人魚のなれの果てだといわれている怪物の塔に、ルビーが忍び込むと考えたのだろう。
「わかったわ、カナリー。お風呂って、こちらの世界の温泉のことね」
3人で散々脱線しまくったあと、突然マナは言った。
「えっ? 温泉があるの?」
「よかったら連れて行ってあげるわ」
「本当に?」
身を乗り出したカナリーに、マナは頷いた。
「ええ。山岳世界まで行かなきゃならないから"跳ぶ"必要があるけど、それでもいい?」
温泉が何かを知らないミナ、モナ、ルビーに、マナは説明してくれた。お山の地面が熱くなっていて、そこから湧き出ている水が温かいのだという。
別の階層の世界に跳ぶことになるので、モナには初めての試みとなる。それでもこれまでやってきた近場での練習は順調だ。だから問題はないとマナは言った。
「ね、みんなで行ってみましょう。ルビーもいいでしょう?」
ルビーはしぶしぶ頷いた。
ほんとうはルビーは、きょうもうんと高いところまで樹をよじ登って、どこかの枝の上から川を見下ろしながら、風を操る練習をするつもりだった。
軽業の練習も休めない。
こちらの世界に来てからやたら身体が軽い気がするが、あれはバランス感覚を使うものだから、身体の軽さだけなく、熟練も必要なのだ。
「ねっ、カナリー、やっぱりマナって物知りでしょう?」
モナは嬉しそうにカナリーを振り返る。
「着替えはねえ、あたしのワンピースが余ってるから、それをカナリーが使ったらいいからねえ」
「あら、モナはいいの? せっかく蹄の一族の若者があたしたち3人おそろいでって届けてくれたのに」
「だってねえ、あたし髪を短くしてるからワンピースみたいな女の子らしい服が似合わないんだよねえ。それに明るくて綺麗なオレンジの布だから、カナリーにとっても似合うと思うんだよねえ」
「あんたの髪、もう伸ばしてもいいっておばあちゃんは言ってたわよ。魔力のコントロールができるようになったからって」
「なんか突然できるようになったんだよねえ。不思議なんだけどねえ」
「おばあちゃんが言うには、それって緑樹の王の影響なんですって。それと、川の王が身罷られてなお川のエネルギーが満ち満ちているのもね」
モナが魔力をコントロールできなかったことと髪を短くしていたことは、どうやら関係あるらしかった。
ルビーが疑問を口にする前に、マナは説明をしてくれた。
「長い髪には編んだ魔法を溜め込むことができるのよ。モナがコントロールの効かない状態で無自覚にどんどん魔法を溜めていっていたから、おばあちゃんが短くした方がいいっていって、切っちゃったの。暴走すると危険だからって」
マナはこうも言い加えた。
「そしてそれがね、人間の世界で間違って伝わってたこともあるんですって。つまりあたしたちの長い髪を切り落としたら、魔力が使えなくなるから捕まえたり閉じ込めたりできるっていうの。だからもしも人間の国で、なんとかしてあたしたちの髪を切り落とそうとしてくる相手に会ったら、そういう人は悪意があるかもしれないから気をつけなきゃいけないのよ」
マナの言葉を聞いて、モナは身震いした。
モナは元気で好奇心旺盛だが、その反面どうやら少々怖がりのようだった。
ルビーは微笑ましい思いで短い水色の髪の少女を見やった。
そのときだった。
突然ルビーの内側から、あるはずのない記憶が溢れ出てきたのは。
それは何かから逃げている記憶だった。
人の背よりも高い草の波の間を、必死で走っていた。
後ろから追いかけてくるのは、複数の人間の気配。
夜のようだった。あたりは暗く、尖った草の葉の先に、細く欠けた月が空に斜めに引っ掛かっている。
息が上がり、苦しい。
けれども立ち止まれば、つかまってしまう。
よろけながらも走る。走る。もつれた足で懸命に走る。
絡まり合う草の根に足を取られ、転ぶ。
草の間から姿を現すのは男たち。
鍬や鋤などの農具を構え、憎しみのこもったぎらついた目でこちらを見ている。
「髪を、髪を切れ」
だれかが大声を上げた。
「それでそいつは気味の悪い力を使えなくなる」
地面から引きずりあげられ、髪の毛を乱暴につかまれた。
振り上げられたのは鎌だった。
そののシルエットは三日月を背景にして真っ黒だ。
ザクリ、と無造作に切り落とされた髪の束が、草むらの闇に散って見えなくなる。
暗くて見えないが、切り落とされた髪の色を知っている。
とても明るい白っぽい茶色。金色に近い。
亜麻色、と表現する人もいる。
綺麗に手入れして、長く伸ばしていた。
大事にしていた。
父を失って、家を失って、身一つになって、奴隷商人に売られて。
ほかに何も持たない自分のたった一つの宝物だった。
髪を切り落とした凶器は頬と肩をかすめ、上着の袖を裂いた。
よろめいたところを膝を蹴り上げられ、つんのめって地面に倒れ込む。
折れた植物の茎が手足にザクザクと刺さる。
男たちは雄たけびを上げた。
「やったぞ」
「俺たちの勝ちだ」
「化け物なんぞにやられてたまるか」
悲しい気持ちが心いっぱいに広がっていく。
痛みよりも恐怖よりも、強い強い悲しみ──。
──わたしは、あなたたちを傷つけたりしない
──そんなことは望んでいない
──願っていない
だって彼らもまた、操られているのだ。そうと気づかぬままに。
頭の中に、声が聞こえる。
直接語りかけてくる声。
『ロゼッタ。立ち上がれ。立ってそいつらに歯向かうのだ』
耳を傾けては駄目だ。
でももう遅いのかもしれない。
頭の中に、直接つながってしまった。
一度つながってしまった回路を断ち切るのは困難だ。
その声を締めだそうとするだけで、割れるように頭が痛くなる。
──傷つけたくない。傷つけたくないの
それでも頭を振って、必死に声を追い出そうとする。
──わたしの頭の中から出ていって! ワルシュティン卿!
『そんなのんきなことを言っていられるかな?』
頭の中の声は笑う。気味の悪い、のたうつようなぐつぐつとした笑い声を上げる。笑い声はやがて哄笑に変わり、われ鐘のようにガンガンと頭の中に響いた。
『そいつらは、おまえを傷つける気満々だぞ。そいつらの中にはもともとあるんだ。おまえのような異能者への恐怖、妬み、憎しみが。心の隅に淀んでいる汚い灰汁ををちょっと撫でてやるだけでいい。勝手にそれは舞い上がり、増幅を始める。わたしがそいつらに憎しみを植えつけたわけではないんだぞ。そいつらが勝手におまえを怖れ憎んでいるだけだ』
──わたしは何もしていないのに!
『そうだ。おまえはまだ何もしていない。だが、腕をへし折られて無抵抗でいられるかな。殴られても、踏みつぶされても、されるままになっている気かね。愚かなそいつらは、おまえの髪を切り落とせば魔力が奪えると信じている。聞こえるだろう、そいつらの憎悪の声が。勝ち誇った声が。力を失ったおまえをこれから思うまま嬲れると信じて笑う、浅ましい声が』
──この人たちのせいじゃない。あなたがこの人たちを酷い目にあわせたから
ぐつぐつぐつと、声は再び笑った。
『虫けらのようなやつらだぞ。汚らしい浅ましい心の卑しい人間たちだ。だが、おまえは違う。おまえはわたしたち貴族と同類なのだ。さあ、いい子だロゼッタ。立ち上がってそいつらの目に物見せてやるがいい。やり方はわかるな。風を操るんだ。そいつらの皮膚と肉を切り裂くがいい』
──違う! わたしはあなたの同類なんかじゃない!
ルビーの心の中で、少女が絶叫した。




