70 マリア・リベルテ
ルビーは二度びっくりして、モリオンの白い顔を見た。
モリオンは小さく頷いた。
「出会ったばかりのころ、彼の心を一度覗きかけて、結局やめたのよ。あの人の心の中の、真っ暗な奈落に引きずり込まれそうな気がして、恐ろしかったから。だからずっと気づかなかったわ。それが、こんなに近くにいたなんて……」
目の前の、モリオンがアートの知り合い? 彼女はずっとルビーを捜してくれていた? そしてけた外れの超人的な力を持っているように見える彼女が、どうしてアートの心を覗くことを、恐ろしいと感じているのだろう。
奈落って?
柔らかな微笑みを浮かべたアートの、どちらかというと穏やかなたたずまいをルビーは思い浮かべる。図らずも奥さまと彼の会話を盗み聞きしてしまったことで、彼の胸をいまも重くふさぐ少女の存在について知ってはいる。
それでも。
迷いなく行動する彼の、そのまなざしの先にあるのは絶望ではないと思っていた。胸の奥にどんな苦しみを抱えていたとしても、その先にある希望や願いや祈りや、そんなものをどこかで見据えているから、ああして動けるのだと思っていた。
違うのだろうか?
人の心を覗き見るということがどういうことなのかは、ルビーには想像がつかない。星空のように吸い込まれそうなモリオンの黒い瞳は、人の苦しみも深淵も、彼女自身の内側に我がことのように写し取ってしまうのかもしれない。
たくさんの人の苦悩を受け取るのだとしたら、心を知るということは、いったいどれほどの重荷となることなのだろう。
「ルビー……」
モリオンは、すこし不思議そうに目を見開いて、彼女の名を呼ぶ。
「あなたの内側、以前会ったときとはまるで別の人みたい。たくさんの人の願いや思いを受け取って、いまのあなたは動いているのね。それから、わたしの持つこの力を、"重荷"として考えてくれてありがとう」
目の前の少女は、柔らかな表情になって微笑んだ。
「あなたが、わたしの気持ちを知ろうとしてくれていることが、嬉しいわ。そして、その女の子を救い出すのも──たくさんの人の願いが、あなたの中に溢れているからなのね」
口もとに微笑みを浮かべながらも、少女の黒目がちの大きな目は、静かにルビーを見つめている。
「いまわたしがカルナーナでかかわっているのは、奴隷解放のために奔走している人たちなの。アートとはそこで出会ったのよ。それに、建設大臣もかかわっているわ。非合法な裏組織だから、大臣は表立って顔は出さないけれど」
奴隷解放? 非合法組織?
けれどもルビーはそのとき頭に浮かんだ疑問について、それ以上考えを巡らせることはできなかった。
後ろの方で、小さなかたん、という音がして、2人の後ろの通風口の、屋根に向かう縦穴からもう1つの人影が下りてきたからだ。
不穏な気配を察して、ジュリアが様子を見にこちらに向かってきたのだ。もしかしたら、懐にしのばせてきた短剣をひそかに構えているかもしれない。確かめるために、ルビーは振り返った。
小柄な少女は、茶色の髪はうしろに無造作に束ねたまま、さっきまで来ていた地味なスカートの代わりに、ルビーから借りた軽業用の身軽な上下に着替えている。
「大丈夫ですか? ロビンさん」
小声でそう尋ねた少女は、モリオンの手の中から発する光の思わぬ眩しさに、一瞬目をしばたたかせた。
が、再び見開いたジュリアの丸い目は、さらに真ん丸な形になる。
「マリア・リベルテ……さん。占い師のマリアさんじゃないですか! どうしてここに?」
モリオンを見たジュリアは、ひどく驚いた顔でそうつぶやいた。
一方モリオンは、その黒い目をいぶかしげに細める。
「あなたはだれ?」
「ジュリアといいます。以前、占いのお店の方にお邪魔したものです」
今度はモリオンの目が、驚きに見開かれた。
「どうして? お店ではわたし、顔を隠しているのに……」
「確かに顔の半分は布で覆ってましたけど、目もとは見せていましたから。わたし、一度見た人の顔は忘れないんです」
ジュリアは、地味でおとなしそうな外見とはうらはらに、さまざまな特技を持っているらしかった。
「やっぱり、思っていたとおりの綺麗な人」
ほう、と溜め息をついて見とれるそぶりのジュリアとは対照的に、モリオンはやや困惑した顔で眉をひそめた。
「あのね、ジュリア……」
「でも、占い師のマリアさんが、どうしてこんなところに?」
何か言いかけたモリオンの声は、純粋に不思議がっているジュリアの声に遮られる。
「ねえ、聞いて、ジュリア」
それでもモリオンは、怯まず重ねて話しかけた。
「あなたが占いのお店に来てくれたときのこと、わたし、覚えてるわ」
ジュリアは小動物のような茶色のつぶらな目をぱちくりさせた。
「あなたに一つ言いたかったことがあるの。あなたが考えているようなこと、何もないから」
「え?」
「好きな人がほかにいるの」
「え?」
「だから……」
モリオンは少しもどかしげな顔で、やや口早に説明する。
「わたしの好きな人は、あなたが考えているのとは全然別の人だって言いたかったの」
なぜかモリオンは、少し怒ったような表情をしていた。その横顔を見ながらルビーは、あの南の島での出来事を再び思い出した。
好きな人がほかにいる。その言葉を口にしたモリオンの表情を見て、なぜだかルビーは、若きアララーク王の精悍な顔を思い出したのだった。たくさんの兵を引き連れて上陸してきた、浅黒い肌の色をしたすらりと背の高い男の人。
あの人を「大っ嫌い」と言って撥ねつけたときに見せた、モリオンの固い表情。一瞬彼女が同じ表情を見せた気がしたのだ。
ルビーの視線に気づいたモリオンはちらりとこちらを見たが、すぐに視線をそらせてしまう。どこか不機嫌な表情のままだ。
「え……あっ!」
やっとジュリアにも、モリオンの言葉の意味が通じたらしい。彼女はあたふたと手を振った。
「ごっ、ごめんなさい。でもわたし……あのときアートさんとのこと、聞きましたっけ?」
「聞かなくてもわかるわよ。だって、特に悩みや相談事もなくて占いの店にやってきて、好奇心いっぱいで話しかけてきて……。ゴシップ紙に取り上げられてからそういう人、あなたのほかにも何人かいたみたいだけど、わたし、不定期でしかお店にいないから、あんまり会わずに済んでたの。あなたのことは、よく覚えてる。だって、あんな店に来る理由の特にない、幸せそうな女の子だったから……」
最後の言葉を口にするとき、モリオンの口調は少し柔らかなトーンに変わる。その表情も少し緩めながら、モリオンはジュリアを覗き込んだ。
「でもいまは違うのね。あなたにはいま、大きな悩みがあるんだわ」
「マリアさん……」
丸い目をいっぱいに見開いたまま、ジュリアはそうつぶやいたきり言葉を失った様子で、その場に固まった。
「ジュリア」
こわばった表情の少女に、モリオンは優しく声をかけた。
「その話は、あとで必ず聞くわ。いまはカナリーを連れ出してから、あなたたちに合流する。先に脱出してて」
それからモリオンはルビーに向き直った。
「ロビン、でいいのよね、いまは。あなただけだったら連れて一緒に"飛ぶ"ことができるけど、ジュリアを抱えて飛ぶのはリスクがあるからできない。この子は普通の人間だから、転移酔いを起こすかもしれないの。一緒に来た道を戻って待っていて。また、あとでね」
それだけ言うと、次の瞬間、モリオンはその場から消えていた。
あの夏の日の、無人島での出来事と同じように。




