69 鉢合わせ
「何をしているの?」
突然うしろから話しかけられて、ルビーは飛び上がった。夜陰に紛れて忍び込んだ、四角い通風口の中だった。
周囲は真の暗闇だ。
さっきまでは、手元の小さな灯りを頼りに、事前に頭に入れた建物の構造図を描きながら進んでいた。けれども、通風口に響いてきた大きな話し声から、カナリーのいる3階の部屋を案外簡単に特定できたのだった。あとは皆が寝静まるのを待つだけだと判断して、火を吹き消したばかりだった。
燭台はもう一つあって、通路の後方で待機しているジュリアが持っている。来た道なので、暗がりの中でも迷うことなく引き返すことができる。
とっくに日づけは変わっている。むしろ夜明けが近い。見世物小屋では下働きの人たちも含め、全員が寝静まっているような時刻だ。それにも関わらず、この館では多くの人たちがまだ眠っていない。
振り向いたルビーの目の前で不意に、ぽう、と灯りがともる。
一人の少女の姿が暗闇から浮かび上がる。
『モリオン……』
そこにいたのは、ルビーがまだ人魚だったころ、南の島で出会った少女だった。狭い通路に身をかがめ、透き通るような白い手に不思議な丸い光の塊を乗せて、こちらを見ていた。光る球体は炎よりも白っぽくて、太陽を切り取った欠片みたいなまばゆい明るさだ。
あの日、アララーク王アルベルトとやらに連れ去られて別の国に行ってしまった女の子。
手で触れるだけで大砲をぐにゃりと曲げ、崩れ落ちた塔の無数のがれきを宙に浮かび上がらせた不思議な力の持ち主。
突然彼女がここに現れた理由がさっぱりわからなくて茫然と見返すルビーに、少女は少し首を傾げた。真っ直ぐな長い黒髪が、少女の肩でさらりと揺れる。
重ねて少女が問いかけてくる。
「どうしてこんなところにいるの? 捜し物? それとも人を捜しているの?」
むしろそれは、ルビーの方こそ聞き返したかった。
だが、問われたルビーはともかくも、こっくり頷いた。
「あら、あなた、声が出せないの?」
黒曜石の瞳に覗き込まれ、確認するかのようにそう問われた。
「そう、"声の素"を人間に持ち去られてしまったのね。ひどいことをするのね、そのジゼルという人間は」
少女の言葉に、ルビーは大慌てで首を横に振った。
歌をと所望され歌い続けることがどういう結果を引き起こすかを、ルビーが事前に知っていたわけではない。だが、ルビーとしては奥さまにひどいことをされた、という認識ではなかったからだ。
「でも、ひどく痛むのでしょう。待ってね。痛みだけでも、取ってあげられると思うわ」
少女は手を伸ばし、ルビーの喉に軽く触れた。途端にずきずきと重く鈍い痛みを訴え続けていた喉の奥が、すっと軽くなる。
びっくりしたルビーは、思わず自分の喉もとに手をやった。
「どうかしら?」
痛くない。
表情でわかったのか、ルビーの考えを読みとったのか、モリオンは、よかったといって顔をほころばせた。
痛みがやわらいだことで、改めてルビーは思う。
痛いというのは、やはり辛いものなのだ。
ルビーの喉は身体を動かすことには直接関係がなかったから、動くことで気を紛らわせられる面もあった。でも、ロクサムの背中は、動くことがそのまま痛みにつながってしまう。だから動けなくて寝込んでしまうことになる。
寝込んで動けないとなれば、痛みは余計に辛いものになる気がする。
船の上で別れを告げてきたときよりも、ロクサムの状態は少しでもよくなっているのだろうか。
それとともにルビーは、ロクサムの背中の痛みを取ってくれた船医のジグムントのことも思い出した。いまモリオンがしてくれたことも、あれと同じ"術"と呼ばれているものの一種なのだろうか。
「人間が"術"と呼んでいるものとは、力の流れや成り立ちは厳密には違うものよ。でも、いまわたしがしたことと同じことができる人間がいるのなら、その人は幾分わたしたちに近い──中間に位置するような存在ってことになるわ」
そう説明しながら、少女は考え込むような顔になる。
「カルナーナの建設大臣は、本当の意味での先祖返りなのね。貴族どもが強大な魔力の持ち主に対して比喩的に使っている意味ではなくて」
少女の口から建設大臣という言葉が出たのは意外だった。
モリオンはジグムンド・デュメニア大臣を知っている?
その人の姿をルビーは改めて思い浮かべる。赤みがかった髪と、野生動物のような雰囲気のオレンジの瞳が印象的な、全然いばってなくて気さくな感じのする政府の要人。
ロクサムの薬を預かってくれて、ちょくちょく様子を見てくれると約束してくれた。
レイラににせ医者とかひどいことを言われていたのに、腹を立てた様子もなく、会えて嬉しいなどといって喜んでいた。
「ええ。会ったことがあるわ」
少女は微笑んだ。
「わたしも彼は、政治家にはめずらしく威圧的なところがなくて感じのいい人だと思う」
でも、先祖返りって? 力の成り立ちが違う? "声の素"って?
「"声の素"はね。わたしたちを構成するエネルギーの一種よ。わたしたちは人間を構成する物質とは違う形のエネルギーでできているの。先祖返りはそのままの意味。祖先に精霊がいたという話よ。建設大臣ならばきっと、わたしたちと同じく精霊界に無理なく足を踏み入れることだってできるはず」
言いながら少女はルビーの目を、近々と覗きこんでくる。
「そうね。あなたは精霊界にはまだ行ったことがなかったのだわね。今度わたしが連れて行ってあげる」
精霊界? 精霊界ってなんだろう。
「精霊界はわたしたちを構成するエネルギーの根源につながる世界よ。この世界と重なり合うように存在していて、位相が少しズレているの。大抵の精霊はこうして人の世界に降り立つことができるけれども、反対に精霊界を旅することのできる人間はごくわずかなのよ」
ルビーの反応を見ながら、少女はゆっくりと、深いため息をつく。
「人魚の長老は、あなたに何も教えていないのね。人魚の歴史も、あの島に封じ込められていたものが、もとはあなたの同族のものだったものだということも」
一瞬、少女の言葉の意味がわからなくて、ルビーは目を見開いた。
口元にかすかな笑みを浮かべ、少女はルビーにさらに近づいてきて、ほとんど額がくっつきそうなぐらい近くから覗き込んできた。
「最初あの島であなたを見かけたとき、封印されていたものを同族のあなたが救い出しに来たのかと思ったのよ。だって、縄とかつくっていたし、てっきり塔に忍び込むのだとばかり──。
だけどルビー、あなたは何も知らなかったのね。あのものの犯した咎によって、人魚の一族は、先代の精霊王の手で精霊界から追放されたの。そして、この世界において人の領域が広がってきたせいで、精霊界とのつながりがどんどん遮断されていって、もう何年もの間、精霊としての力を持つ人魚が生まれてこなくなってしまっていたのよ。北の海にも穢れが浸食してきて、力を失っていくばかりの人魚の一族は、そこでただ滅びを待つしかないと思われていた。でも、最近になってあなたが生まれてきた。だから、長老にも、他の人魚たちにとっても、あなたは希望の象徴であるはずなの」
たくさんの疑問が一気に噴き出してきた。
南の島に閉じ込められていた、あのまがまがしい黒い塊は、ルビーの知る限りでは断じて人魚などではなかった。もっと得体のしれない、恐ろしく強大な力を持つ、とてつもなく邪悪な何かだった。
でも、モリオンと名乗る目の前の少女は、あれをもと人魚だという。
わけもなく気になっていた、南のあの島。吸い寄せられるように上陸したのは、自分では白い花を摘むつもりだったけれども、意識もしていなかったどこかでルビーは"それ"に呼ばれていたのだろうか?
滅びを待つ? 一族のものの犯した罪科によって、精霊界を追放?
精霊界──そんな世界が存在していることなどルビーは知らない。これまで見たことも聞いたこともない。
一族の希望?
北の海の底で、人魚のお姉さまたちは、外の世界に出て行きたがるルビーの心配ばかりしていた。波の上は危ない。陸の上は危ない。人間に見つかると危ない。危ないから。だから気をつけて。
でも決して行くなとは言わなかった。好きにさせてくれていた。
理由を考えたことなどなかったけれども、理由があったのだろうか。
長老。長老は元気だろうか。色の分からない昏い瞳とアッシュグレイの髪の人魚は、いまも深い海の底で、深い物思いにふけっているのだろうか。
あのときもし人間に捕まらなければ、あの日北の海に戻って、ルビーは長老に尋ねるつもりだったのだ。
目の前の、この少女はいったい何者なのか。人間たちの呼ぶ"緑樹の王"とはどういった意味なのか。
白い花の咲く南の島と、冷たい氷山の下に隠れたほのぐらい海底にぐるりと思いを馳せたあと、しかし、ルビーははっと我に返る。
たったいまここにいる目的を、ゆるがせにするわけにはいかない。ここは娼館で、だまされて売られてきたカナリーを追って自分は通風口から忍び込んできたのだ。
確かめるまでもなかった。通風口から話を聞いていた限りでは、ここに来たのは彼女の自由意思などではない。さっきからカナリーは泣きながら、これまでの経緯を同じ部屋の女たちに説明していた。
そう思う一方で、親方が言っていたのと違って、カナリーがいわゆる"隠し部屋"に閉じ込められていなかったことは、かえってルビーを不安にさせていた。
カナリーは契約書に自分でサインを書いたと言っていた。それって書類上は、売られてここにきたわけではなくて、ここで働くことを自分で決めたってことになるんだろうか?
いまカナリーをこの場所から連れ出すことは、"人の世の理"から外れてしまうことになるのだろうか?
仮にそうでも、自分はそれでいい。けれどもジュリアは? ロメオは? ロメオの雇用主であるジゼルさまの責任は?
これは自分で判断できる局面なのだろうか? 一旦屋敷の外に出て、往来からこちらの様子を窺っているはずのロメオや親方に相談してからの方がいいのだろうか?
ただ、一度戻ったとして、どうやってルビーはいまの状況を彼らに伝えればいいのだろう。
この建物は、色町街のはずれに位置している。親方たちが待機しているのは裏手の鍛冶屋街だ。明け方に近いこの時間は、鍛冶屋街の街灯の灯は、すでに燃え尽き消えている。
雲が重く垂れ込めた闇夜の中では、筆談もロメオの読唇術も、恐らく役に立たない。
「そう。いまあなたは人間の仲間を得て行動しているのね」
思い惑うルビーに、今度はモリオンはにっこりと笑った。
「偶然だわ。わたしもそうなのよ。そして、あなたが捜しているのはその金髪の女の子──カナリーというのね。それも偶然。実はわたしもその子に用があるの。その子をここから連れ出せばいいのね。ルビー、あなたは一度外に戻って待っていて!」
少女は片手を伸ばし、ルビーの手を取ろうとした。
その瞬間、モリオンがルビーを連れて、どこか別の場所に向けて"消え"ようとしていることを、ルビーは悟る。
あのお天気のよい夏の日、ルビーに声をかけたあと目の前で突然、煙のように一瞬で消えうせたように。あるいはたったいま、ルビーの目の前に突如として出現したように。
待って待って!
ルビーの制止を受けて、少女は手を止め頷いた。
声に出さなくても、唇を動かさなくとも、目を覗き込むだけで、少女はルビーの意思を読み取るのだ。
「通風口の角を曲がって煙突に近いところにもう1人女の子が忍び込んでて、あなたを待ってるのね。そこまで引き返してその女の子を一緒に連れて、鍛冶屋街で待っている2人の仲間のところに戻るのね」
それだけじゃなくて──。
「書類があるから、カナリーをこの館から連れ出したら、あなたの仲間の人が訴えられる心配があるって考えているのね。大丈夫。書類の署名そのものを消すから。難しいことじゃないわ。紙もインクもわたしの眷族となるものたちだから」
"眷族"という言葉をモリオンが使ったので、ルビーはちょっとどきりとした。ハマースタイン邸に襲撃をした王家の末裔の男も、あのときその言葉を使っていたからだ。
それにしても、とつぶやきながら、モリオンはもう一度わずかに首を傾げる。少女の白いなめらかな頬を包むサラサラの黒髪がかすかに踊った。
「あなたがずっと見世物小屋にいたなんて、全然気づかなかったわ。ずっと捜していたのに。カルナーナの街に住むたくさんの人の心を覗いて、記憶を辿って。唯一、彼の心を覗かなかったのが、失策だったわ」
彼?
「空中ブランコ師のアート。知っているのでしょう?」




