100 夕焼けの記憶
あの日、夕焼けの風景の中に、その少女はいた。
心細げな後ろ姿を見せて、黒く沈む稜線の向こうに消えた馬車の影を、いつまでも目で追っていた。
その後ろ姿を眺める彼もまた、やっと幼児期を抜け出したばかりの幼い子どもだった。
少女は彼よりもおよそ2歳年上だったから、そのころは彼よりもやや背が高かった。
ただ背が高いだけの細い棒のような体型だったが、波打つ豊かな栗色の髪はもうすでに腰のあたりまでの長さだった。明るいヘーゼルブラウンの瞳は陽に透けると淡いグリーンにも見えた。
あの日の少女──ジゼル・ブリュー──は、夕焼けの風景の中で不意に振り向いた。そして、いま初めてロメオの存在に気づいたかのように目を見開いた。あるいは本当にその瞬間まで、彼がそこにいたことに気づいていなかったのかもしれない。
ブリュー侯爵城の正門を先刻出発した馬車が、次第に傾いていく夕日の道を遠ざかって行くさまを、ずっとずっと目を凝らして見ていたから。
「お母さまが行ってしまわれたわ」
独り言のようにそう漏らす声も、どこか心細げだ。
「お父さまが新しいお母さまを迎え入れるために、お母さまはここを去らなければならなかったの」
ロメオは黙って頷く。
彼は寡黙な子どもだった。寡黙というよりも、言葉がまだおぼつかなかっただけだったのかもしれない。そのころの彼は歳よりも身体は大きかったものの、精神的には決して早熟な方ではなかったのだ。
「お母さまは男の子を産むことができなかったから、もうお父さまはお母さまとの結婚を終わりになさるのですって。今度いらっしゃる新しいお母さまが、ブリュー侯爵家の跡取りをお産みになるの。その準備の妨げにならないように、お母さまは故郷の北部へ戻られるのですって」
少女の話した内容は当時の彼には少々難しく、半分ぐらいしか理解できなかった。婚姻を終わりにするとか新しい母親が来るとか、なんのことやらよくわからなかったのだ。
なのでやはりただ黙って聞いていた。
彼が何も言わないことに安堵したのか、ジゼルの言葉は続く。
「わたしもお母さまにご一緒してここを出て行きたかったわ。でも、それは駄目なのですって。いまのわたしはお父さまの血をひく唯一のものだからこの城にいなければならないの。だけど、それはいまだけの話なのにね。新しいお母さまが男の子をお産みになれば、わたしはこの城にとって要らないものになるのに。そうなってからお母さまのあとを追っても、きっとお母さまはわたしのことを忘れてしまわれているでしょう」
遠い、遠い日の記憶だ。
なぜいまごろ不意に思い出してしまったのかわからない。
それにしても、ただの記憶とは思えないほど、この目の前の夕焼けの風景が色鮮やかなのはなぜだろう。
「それはね、ロメオ──」
心細げな表情で彼を見下ろしていた少女が不意に微笑んだ。
その後幾度となくロメオが見てきた口元だけの微かな笑み。
「あなたの魂が、過去を浮遊しているからだわ」
大人びた口調と大人びた声。
そう思った途端、目の前の少女はすらりとした長身の大人の女に姿を変える。
それとともに、さっきまで頼りない子どもだった彼自身もいかついスキンヘッドの大男の姿に変わる。
いまの彼は女よりも頭ふたつ分ほども高い。
女はあたりまえのように彼を見上げた。
「ロメオ、あなたはいま、どこにいるの? 身体を置き去りにしてここにきてしまったのはどうして?」
一瞬夢かと思い迷った。自分はいま夢を見ているのだろうか?
が、目の前の女の存在感には夢にはあり得ない生々しさがあった。想像の産物ではない自分の外側にある何かと向き合っているという奇妙な確信のようなもの。
女に促され、ロメオはさっきまでの状況を即座に思い出す。
失踪したジョヴァンニの姉ジュリアとともにアントワーヌ・エルミラーレンの城に乗り込んだところで、ロメオの意識はふっつりと途絶えている。
では、あの男の妖しい術か何かに嵌ったのか。
移身交換の術といっていたか。以前憲兵隊の副長にかけられた術についてそう説明したのは、その同じ日ハマースタインの屋敷に駆けつけたカルロ首相だったか。
身体を乗っ取られたのか。身体から意識だけはじき出されたのか。
意識を失う直前に聞いたエルミラーレンの言葉が耳に残る。
彼はロメオが王家の血を引くものだと言っていた。そして血の盟約は絶対だとも。
そんな途方もない話があるのだろうか?
ロメオの出自は代々ブリュー家に仕える武人の家系だ。貴族ですらない。
だが、エルミラーレンは嘘をつく。その嘘に何の意味があるのかはわからない。意味などないのかもしれない。単純にロメオの心の隙をついて、ロメオを従わせるために暗示をかけてきただけなのかもしれない。
不気味なあの城にジュリアを1人残してきてしまった。
胸を抉る深い苦悩に青ざめた顔で、しかし毅然と唇を引き結んで不気味な領主に対峙していた可憐な少女。
どうにかしてロメオが力になりたい、ほんの少しでも手助けしたいと願った少女。
動揺を誘われたのはジュリアではなく自分の方だったか。心を読まれていたのか、あるいは気配を読まれていたか。さっきの自分はきっと平常心ではなかったのだ。ジュリアのことにばかり心を乱され、己自身を忘れていた。あり得ない失態だ。
どうすればさっきの場所に戻れるのだろうか。
自分は果してさっきの場所に戻れるのだろうか。
そこまで考え、目の前の女についてもふと疑問に思う。
ロメオの雇い主であるジゼル・ハマースタインはカルロ首相の要請で生まれ故郷のブリュー侯爵城に向かったはずだ。
ロメオ自身はエルミラーレンの術に嵌りどうやら得体の知れない場所に意識を飛ばされたらしいが、なぜ彼女が同じ場所にいて自分と向き合っているのだろう。
いつも喪服を着ていた未亡人はいまは暗い緋色のドレスに身を包んでいる。
だが、服装だけではなく、どこかに違和感がある。首のあたりが変だ。変な方向に折れ曲がってはいないか?
いぶかしげなロメオの視線に気づいたのか、ジゼルはもう一度微笑んだ。それから両手で自らの顎を左右から支え、そっと首の向きを直した。
「さっき身体に大きな衝撃を受けたみたいなの。その余波が残っているようだわ」
物憂げな口調のジゼルの背後で、風景が切り替わった。
彼女は振り返りながら手を上げ、そちらを見るようにロメオを促した。
ロメオの目の前に広がるのは、さっきとはまた別の夕焼けだ。
赤い空の下に広がる荒野の、風が揺する秋枯れの草の波の中に黒衣の術師が身を潜めている。
術師は複数で、城を囲む外壁を伺っている。
そのうち1人が声もなく立ち上がり、両手を空に向かって差し伸べた。その仕草に呼応するかのように何かが上空から下りてくる。
そして、荒野から町に向けて死の風が吹いた。
空の一点に黒い禍々しい霧が生まれ、見る見る渦巻いて膨れ上がっていく。見る間にそれは城壁に押し寄せ、暗雲のごとく渦巻きながら広がりながら町全体を押し包んでいく。
城壁の外側を飛んでいた鳥の群れが渦に巻き込まれ、何か大きな手に握りつぶされるかのように地面に叩きつけられる。
その姿はもはや生き物ではない。枯れ枝のように干からびた残骸だ。
鳥の群れを叩きつけた渦は、さらに大きく漆黒の翼を広げながら高い石の壁をやすやすと乗り越え、上空から町を飲み込んでいく。
町はずれの通りを歩いていた人々が、見る見るうちに次々と飲み込まれ、黒ずんだ羊皮紙のようにくちゃくちゃにひからびて崩れ落ちていく。
そこはロメオにとって見覚えのある場所だった。
見覚えのある城壁。見覚えのある通り。見覚えのある数々の建物。
彼自身が幼少期から少年期を過ごした町。
およそ10年前そこをあとにしてのちは、ほんの数えるほどしか訪れていない故郷。ブリュー侯爵城を囲む城下町のくすんだ風景だ。
どこか場所もわからない上の方からロメオはそれを眺めている。
「あの町はこうして眺めていても、ほとんどあなたの子どものころの記憶のままなのではなくて?」
傍らでジゼル・ブリューの声がした。
「これはほんの十数時間前に起こった出来事なのよ。昔とちっとも街並みが変わっていないからわかりにくいでしょうけど」
町の中央には古めかしい佇まいのブリュー侯爵城が物々しい存在感を見せて聳えている。
黒い渦の流れは、城を囲む町全体にどんどん広がっていく。
「そしてあれはかつてわたくしのお父さまであったものよ」
「あれがか?」
「ええ、あれが。あなたがいま見ているあの黒い渦が」
つぶやくように物憂げに、ジゼルは言い加えた。
「お父さまはもう、ブリューの領民が血の通った生きたものでなくなっても構わないとお考えなの」
と、そのとき。
突然涼しげな何かの音色が町に響き渡った。
──いや、歌声か?
声は町の中央にそびえる古びた石の城ブリュー侯爵城の屋上からだった。
渦巻く漆黒の霧に埋もれつつある町のそこが中心部だ。暗い緋色のドレスを着た女が屋上の中央に立ち、両手を空に差し出しながら歌声を張り上げていた。
響く歌声の周囲から、またたく間に透明な渦が巻き上がって次第に広がっていき、押し寄せる黒い渦にぶつかり、押し戻し始めた。
異なる空気がせめぎ合い、その狭間に膜のようなものが出現し、虹色に泡出つ。
歌は赤毛のロビンがいつか歌っていた物悲しい旋律の曲だ。
貴婦人が繰り返し聞きたがっていたその歌は、見世物小屋にいるロクサムという下働きの男に教えてもらったものだとロビンは言っていた。
たくさんの歌を覚えてきたロビンが他の歌を披露することができないぐらい、かつて貴婦人は繰り返し、繰り返しその歌ばかりを聞きたがっていた。
歌に込められた魔力──黒い霧を押し戻すあの透明な力──は恐らく、ジゼル・ブリューが郷里に戻る前日の夜ロビンから奪い取ったものだ。
再び目の前で場面が転換した。
カルナーナ政府お抱えの術師が2人、城の正面の門の前に立ち、両手を掲げ何かの呪文を唱えている。
1人はダークグリーンのラインの2本入ったチャコールグレイの町警察の制服で、もう1人は漆黒の布地に青の縁取りのある近衛兵の制服を着ている。2人とも帯刀している。呪文を唱えているのでなければ、術師には見えないいでたちだった。
「あれは歌声を増幅する呪文よ」
ロメオの傍らでジゼル・ブリューがそうささやいた。
「彼らの術によって、わたくしの歌声は城下じゅうに大きく響き渡った。通りばかりでなく重い石で造られた家々の中にも。大きなお屋敷の屋根裏部屋から地下の酒蔵に至るまで。民は何事かと思ってめいめい外に顔を出したのよ」
さらに場面が転換し、政府の派遣した役人たちが町の至るところで外に出てきた人々を誘導しているところが映った。人々は順に大きな通り真ん中にある広場に集められていく。
広場の中央にカルロ・セルヴィーニがいた。
太った首相はきょうはいつもの粗末な麻の服ではなく、正規の軍服を身につけている。
そのような服装をしていると、疑ぐり深そうに目を細めた険しい表情と相まって、まるでたちの悪い独裁者のような佇まいだ。
集められた人々がこのあと兵によって一斉に粛清されたとしても不思議のないようなものものしい情景だった。
ロメオが頭の中で考えたことが伝わったのだろう。
傍らでハマースタイン夫人がくすりと笑う気配がした。
「大丈夫よ。このあと首相は集めた人々を新都に転移させただけですからね。少々荒っぽい移し方をしたから体調を崩した人もいたでしょうけれども、命に別条はないはずだわ。全員を移動させることは叶わなかったけれども、外壁に近い場所にいた人たち以外はほとんど無事だったのよ。あなたのお兄さまとそのご家族もいらっしゃったわ。お兄さまとはずいぶん長い間会っていないのでしょう? 南部に戻ったら訪ねていってごらんなさいな」
ロメオはいぶかしんだ。
「ここにいるあんたと、城の中央で歌を歌っているあんたのどちらが本物だ?」
「まあ、たったいまわたくしはそれを説明したはずよ。あちらは十数時間ばかり前に起こったことだって。見ていて」
そうジゼルに促されて、ロメオは再び人々の集まる大きな通りに目を向けた。
人々の上空に、ミニチュアの天球のような形の膜ができていた。膜の外側には押し寄せる暗黒。内側には響く歌声。その境界では黒と虹色がくるくる混ざり合いながらパチパチと火花のような小さな音を立てる。
そのせめぎ合いの中、幾つかの黒い影が音もなく町の外壁を飛び越えてきた。草原にいた黒ずくめの術師らは、黒い渦に蝕まれて転がる干からびた残骸を無造作に踏みつけて、入り組んだ路地を抜け、歌声の境界線をもたやすく越え、人々で溢れ始めた大通りに向かって走る。
町中に響いていた歌声が不意に小さくなった。
門の前の術師らが増幅の術を止め、黒ずくめの男たちへの応戦に回ったためだ。
鐘の音ほどにも大きく町中に響き渡るのではなくなったものの、ジゼルはいっそう声を張り上げて歌い続けてはいる。
それでも町を覆う天蓋のような虹色の膜は黒い霧に押され、じわじわと小さくなりはじめていた。
黒衣の術師らは走りながら両手を広げた。両手の先に、ゆらゆらと闇が溜まる。闇は不吉な刃の形に伸び、往来の人々にまで伸びる。夕暮れに伸びる影のように、長く長く不自然に。
あわやというところで間に滑り込んできた2人の灰色の術師らが、刃の影を黒衣の術師らごと跳ね飛ばした。
襲撃者らは大きく飛ばされて広場の建物の壁に重なり合うように激突したが、声もなく起き上がって、再び両手を広げた。
「首相!」
油断なく襲撃者を見据えながら、応戦に回った術師の1人が声を上げた。
「町の人たちを連れて先に跳んでください。守らねばならぬものが大勢いすぎて足手まといです」
「承知した」
太った男はちらりと屋上に目を走らせる。
「だが、どうやらまだ建物の中に逃げ遅れて残っている者がいるようだ。その者たちを頼むぞ。ハマースタインの奥方を連れてあとから来てくれ。できるだけ早く」
太った男が腕をさっと振り上げると、すさまじい轟音がして、通りの中央に突然巨大な竜巻が湧き起こった。
集められていた町の人々も、交通整理を行っていた役人たちも、渦巻く風に次々と飲み込まれ宙に浮いた。
反射的に逃げ出そうと走り出した者らも逃さない。強い風に強引に絡め取られ、後ろ向きのまま空に吸い込まれていく。
竜巻は首相自身をも飲み込み膨れ上がりながら、別の通りに集まる人々に向けて走り始めた。
大きな通りを縦横無尽に走り抜けたあとそれは、壁に叩きつけられた黒衣の術師と灰色の術師らと少し離れたところにいるジゼルのみを残し上空に浮き上がった。
そのままものすごい勢いで空を移動していく。
見ていたロメオは荒っぽいどころの話ではないだろうと呆れた。あれでは転移酔いどころか、怪我人が続出するのではないだろうか?
「ねえロメオ」
傍らで物憂げなジゼルの声がして、ロメオの意識は風景から引き戻される。
「わたくしにわかるのはここまでなの」
傍らでジゼルが歌うように言い添えた。
「さっきから何度も起こったことを反復して確認してみるのだけれど、その先に進めないのよ」
くっきりとしたハシバミ色の目が、静かにロメオを見つめている。
「このあとの記憶が途絶えていて──わかるのは首に大きな衝撃を受けたことだけ。ロメオ、あなたならその先を見ることができるのではなくて?」
「なぜそう思う?」
ロメオの問いかけには貴婦人は答えない。
「あなたにお願いがあるの。わたくしが見ることのできないものを──」
はるか下方から何かの力によって引っ張られるのをロメオは感じた。同時に貴婦人の声が遠ざかり始める。
「その先の時間を、見てきて教えてほしいの」
貴婦人=ジゼル・ブリュー=ハマースタイン夫人=侯爵令嬢=未亡人
いまさらですが同じ人を指しています。