EP 6
旧式と未来
プロ編入試験、第4局。
これを勝てば、加藤清麿のプロ入り(四段昇段)が決定する。
東京・将棋会館の特別対局室は、異様な静寂に包まれていた。
フラッシュの光も、記者の衣擦れの音すらも、空気を凍らせるような重圧の前に完全に死に絶えている。
「……私の脳内には、最新の将棋AI『水無月』が弾き出した一億局分の評価値がインストールされています」
上座に座る水上四段が、銀縁の眼鏡を押し上げながら無表情に言った。
「私は将棋を指しません。盤面に感情は不要です。ただ、最も高い勝率を示す『水無月』の最適解を、物理的に盤上に反映させるだけ。……世間はあなたを『感情を失った怪物』と呼んでいますが、人間が機械のフリをしているだけの紛い物など、私の前ではバグを起こして終わる」
現代将棋における「AI研究の最高傑作」と呼ばれる水上の、冷徹な宣戦布告。
だが、下座に座る清麿は、瞬き一つしなかった。
「…………」
視線は水上を見ていない。
ただ盤面という64マスの座標空間だけを、ガラス玉のように濁った網膜に映し出しているだけだ。
「……時間です。両対局者、礼」
記録係の震える声。
「お願いします」と水上が頭を下げる。
清麿も、まるでプログラムされた動作のように、音もなく頭を下げた。
対局が始まった。
それは、人間同士の戦いというよりも、二つのサーバー同士による「データの同期」に近い光景だった。
パチリ。
パチリ。
パチリ。
互いに考慮時間はゼロ。
水上が「現代のAI」が導き出した最善手を指す。
すると0.0秒で、清麿が「未来のチャート」に基づく最善手を返す。
プロの公式戦ではあり得ないスピードで、手数が進んでいく。
開始からわずか15分で、盤面は中盤の最も難解な局面に突入していた。
(……早すぎる。なんだこの処理速度は)
水上の眼鏡の奥で、わずかに焦りの色が浮かんだ。
自分は、自宅のハイスペックPCで何千時間もかけてこの局面を事前研究し、丸暗記してきたからこそノータイムで指せている。
しかし、目の前の男は、自分が研究の末にひねり出した「マイナーな変化球(新手の罠)」に対しても、一切の思考を挟まずに最適解を叩き返してくるのだ。
(まるで……私の『水無月』よりも深い階層の答えを、最初から知っているような……)
いや、あり得ない。
水上は内心で首を振った。現代の将棋AIはすでに神の領域に達している。それを超える答えなど、人間の脳で弾き出せるはずがない。
54手目。
水上は、密かに温めていた「絶対の必勝手」を放った。
『7四桂打ち』。
現代のAIに一週間計算させ続け、ようやく見つけ出した「評価値がプラス2000(勝率99%)」に跳ね上がる、神の一手。
これを受けた瞬間、相手の陣形は論理的に必ず崩壊する。
(……終わったな、紛い物)
水上が冷ややかに勝利を確信した、その時だった。
パチリ。
清麿の手が、全く同じ0.0秒の速度で、自陣の『金』を、水上の桂馬の前にポツンと置いた。
「……は?」
水上の手が止まった。
意味がわからない。それは、現代のAI「水無月」が【最悪手(評価値マイナス3000)】と判定した、ただのタダ捨てのバカげた手だ。
この金を取れば、清麿の玉の守りは完全に消滅する。
(バグったか……? コンピュータのフリをして、脳に限界が来たんだな。やはり所詮は人間だ)
水上は容赦なく、その『金』を自らの駒で食いちぎった。
これで決定的な致命傷だ。誰もがそう思った。
だが。
金を取られた清麿の表情は、1ミリも動かなかった。
パチリ。
ノータイムで、清麿が反撃の角を打つ。
(無駄だ。そんな角、ここに逃げれば……)
水上が玉を逃がす。
パチリ。
清麿の飛車が、無機質に盤を走る。
(……ん?)
水上の背筋に、微かな悪寒が走った。
清麿が「最悪手」を指して自陣を崩壊させたはずなのに。
なぜか、清麿の玉を捕まえることができない。それどころか、自分が駒を動かすたびに、自玉の周りの空間が幾何学的な模様を描きながら、完全に封鎖されていくのだ。
(な、なんだ……これは……!?)
水上の脳内で、必死に「水無月」のデータと照合が行われる。
だが、該当するデータが存在しない。
現代のAIが「清麿の負け」と判定したあのタダ捨ての『金』は。
現代の計算能力(数億手先)では見えない、さらにその先の深淵(数兆手先)においてのみ成立する、**『未来の絶対的真理』**だったのだ。
「あっ……あ……」
水上の額から、滝のような汗が吹き出した。
彼が信奉していた「現代の神(AI)」が、清麿の脳内に存在する「未来の神」の前に、旧式のオモチャとして完全に否定された瞬間だった。
(読めない……! どこに逃げても、どう受けても……死ぬルートしか見えない……!)
水上の指が、痙攣したように宙をさまよう。
彼の武器であった「無機質なロジック」は完全に破壊され、残されたのは、理解不能な上位存在に対する、一人の人間としての原始的な恐怖だけだった。
「ひっ……! い、いやだ……!」
水上は息を荒らげ、盤面から逃げるように体をのけぞらせた。
だが、清麿のガラス玉のような瞳は、そんな水上のパニックすら意に介さず、ただ冷酷に、次の「出力」を行おうとしていた。
「……システム、終了」
清麿の、感情の一切存在しない、平坦な声が響いた。
彼の手が、盤上に最後の一枚を、音もなく叩きつける。
「……21手詰め」
それは、現代のAIすら辿り着けなかった、完璧で残酷な終焉の宣告だった。
「あ、あああ……っ……!!」
水上は両手で頭を抱え、畳の上に泣き崩れた。
現代AIの代行者が、未来のシステムの出力装置に、知能も、プライドも、すべてを物理的にすり潰されたのだ。
「……負け、ました……!!」
対局室に、悲痛な投了の声が響き渡った。
フラッシュが、嵐のように瞬き始める。
どよめきと、畏怖の混じった歓声が、ドアの向こうから押し寄せてくる。
3勝1敗。
規定到達。
プロ編入試験、合格。
ついに。
26歳で奨励会を追放され、泥水をすすり、死の淵をさまよい、そして人間としての感情すら切り捨てた男が。
史上初の特例による「プロ棋士」の座を、実力で、力ずくで毟り取った瞬間だった。
だが、フラッシュの光を全身に浴びながらも。
新四段・加藤清麿の顔には、歓喜の笑みも、安堵の涙も、一切存在しなかった。
ただ、漆黒の空洞のような瞳で、宙を見つめているだけだった。




