EP 9
薄氷の1勝と、忍び寄る足音
プロ編入試験、第1局。
東京・将棋会館の特別対局室には、桐生戦の時以上の報道陣が詰めかけていた。
対局相手は、昨年四段に昇段したばかりの川端四段。22歳。
居飛車党で、手堅く崩れない将棋を指す秀才タイプの若手だ。
「……よろしくお願いします」
川端が深々と頭を下げる。
清麿は余裕の笑みを浮かべて頷き、初手を指した。
(……さあ、俺の泥沼に付き合ってもらうぜ)
清麿の作戦は、桐生五段の時と同じだった。
相手の得意な定跡を外し、無理やり盤面を複雑化させる。論理の通じない泥仕合へと引きずり込み、自分の脳内に焼き付けた『未来チャート』の入り口へと誘導する。
序盤から中盤。
清麿は自陣を顧みず、ゴツゴツとした不格好な手を連発した。
(……よし。順調だ)
川端の顔には明らかな戸惑いがあった。
セオリーから外れた清麿の指し手に、時間を削られ、額には汗が滲んでいる。
清麿の脳内では、予定通りの『誘導ルート』が構築されつつあった。あと数手で、盤面は未来の解答へと接続される。
だが――48手目。
「……っ!?」
川端が、長考の末に指した一手。
それを見た瞬間、清麿の背筋にゾクリと冷たいものが走った。
『5五角』。
それは、清麿が想定していた「手堅い受け」ではなく、泥沼のど真ん中へ自ら飛び込んでくるような、強烈な勝負手だった。
(な、なんだこの手は……!? 俺の『誘導ルート』から外れてるぞ!?)
清麿の呼吸が荒くなる。
この角を放置すれば陣形が崩壊する。しかし、対応を間違えれば、二度と未来チャートの基本図には戻れなくなる。
盤面が、清麿のコントロールを離れようと暴れ出していた。
(落ち着け……! 泥仕合なら、俺の土俵だ!)
清麿は必死に頭を回転させた。
和令のサポートはない。自分の力だけで、この暴れる盤面を再び『未来の水路』へとねじ伏せなければならない。
ギリギリの攻防が続いた。
川端は若手プロとしての底力を発揮し、清麿の罠を紙一重で躱していく。
清麿は奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばりながら、自分の駒を犠牲にして、必死に盤面を歪め続けた。
そして、62手目。
川端が「安全策」を選び、自陣に金を打った瞬間。
盤面が、ようやくカチリと音を立てた。
(……っ、繋がった……!)
脳内に赤いラインが発光する。
『未来チャート第42番・基本図』。
そこからの清麿は、感情を殺した機械だった。
ノータイムで急所を突き、川端の希望を徹底的に粉砕していく。
「……負け、ました」
川端が頭を下げた。
対局室にフラッシュが瞬き、勝利を称える記者の声が響く。
プロ編入試験、まずは1勝。
快挙だ。世間は「やはり加藤はバケモノだった」と騒ぎ立てるだろう。
だが。
感想戦を終え、対局室を出た清麿の背中のシャツは、冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
(……危なかった。あの『5五角』のあと、川端がもし安全策に逃げずにもう一歩踏み込んできていたら……俺のチャートは完全に消滅していた)
薄氷を踏むような勝利だった。
プロの底力。若手とはいえ、彼らは将棋の神に選ばれたエリートなのだ。自分の「誘導」など、いつ破綻してもおかしくない綱渡りであることを、清麿は肌で感じていた。
◇
アパートに帰ると、和令が腕組みをして待っていた。
祝勝会の準備など、一切されていない。
「……勝ったぞ。これで1勝だ」
清麿が虚勢を張って言うと、和令は冷たい目で鼻で笑った。
「見苦しい将棋だったわね。途中で誘導が外れかけて、泣きそうな顔してたじゃない」
「うるさい。結果的にチャートに繋いだし、勝ったんだから文句ないだろ」
清麿はスーツの上着を乱暴に脱ぎ捨てた。
強がりとは裏腹に、手はまだ微かに震えている。
「あのね、清麿。川端四段は『秀才』だから、最後はセオリー通りの安全策を選んでくれた。だからあんたの罠にハマったのよ」
和令は手首の端末を操作し、空中に一枚の顔写真を浮かび上がらせた。
「でも、次はそうはいかない。次の相手は、セオリーなんて最初から持ち合わせていないバケモノよ」
空中に浮かんだのは、まだあどけなさの残る、中学生の少年の写真だった。
「第2局の試験官。星野四段。15歳」
和令の声が、薄暗い部屋に響く。
「史上最年少でプロ入りを果たした『才能の塊』。……あんたが一番憎んで、一番恐れているタイプの人種よ」
写真の中の少年は、将棋盤の前で、ただ無邪気に、ゲームを楽しむ子供のように笑っていた。
清麿は、その笑顔から目を逸らすことができなかった。
泥沼の底から見上げるような、圧倒的な「光」。
次なる刺客の足音が、清麿のすぐ背後まで迫っていた。




