EP 7
手のひら返しの熱狂と、開かれた扉
「……負け、ました」
桐生五段の声は、絞り出すように掠れていた。
盤上に視線を落としたまま、その両手は膝の上で固く握りしめられている。
数百万人が見守る完全オフラインの監視下。ツール介入の余地が1ミリも存在しないこの神聖な対局室で、彼は完全に、そして残酷なまでに読み負けたのだ。
「……私の、完敗です」
桐生はゆっくりと顔を上げ、清麿を見つめた。
その瞳から、対局前の見下すような光は完全に消え去っていた。あるのは、純粋な未知の怪物に対する畏怖だけだ。
「加藤さん。あなたをツール使いだと疑ったこと、深く謝罪します。……あなたの終盤の読みは、人間の、いや、現代のあらゆる将棋AIの到達点すら凌駕している。あなたは本物だ」
桐生が深々と頭を下げる。
若手最強と謳われる天才プロ棋士が、元奨励会の無職に敗北を認め、頭を垂れた瞬間だった。
「……頭を上げてくれ、桐生五段」
清麿は短く答え、手元の扇子を閉じた。
「あんたの序盤の研究、流石だったよ。俺も、泥水すする覚悟で盤面を荒らさなきゃ、即死してた」
「……泥水、ですか」
「ああ。綺麗な将棋じゃ、俺みたいな才能のない人間は生き残れないからな」
清麿は自嘲気味に笑って立ち上がった。
その背中に向けられるカメラのフラッシュと、関係者たちのざわめき。
別室の配信スタジオでは、解説者が半狂乱になりながら清麿の「ノータイム15手詰め」を振り返り、コメント欄は常軌を逸したスピードで流れ続けていた。
【桐生先生が謝罪したぞ!!】
【加藤清麿、ガチの化け物じゃねえか!!】
【俺たち、とんでもない天才をネットリンチしてたのか……】
【将棋ウォリアーズの運営、今すぐ加藤のアカウントBAN解除しろ!!】
【いや、アプリとかどうでもいい! こいつプロになれるだろ!!】
X(旧Twitter)のトレンドは『#加藤清麿』『#神のノータイム』『#プロ編入試験』というワードで独占され、日本中がこの「丸腰の怪物」の誕生に熱狂していた。
◇
数時間後。
喧騒を抜け出し、清麿が1LDKのボロアパートに帰還すると、ドアを開けた瞬間にクラッカーが鳴り響いた。
「パーン! おかえり、我が優秀な猟犬!」
和令が、どこで買ってきたのか分からない三角帽子を被り、満面の笑みで出迎えた。
「……うるせえな。近所迷惑だろ」
「何言ってんのよ! 見たわよ配信! あの桐生の顔、最高だったわね! 『えっ、なんでそこに打つの?』みたいな顔してて、傑作だったわ!」
和令は清麿の肩をバシバシと叩き、手首の端末を見せびらかしてきた。
「ほら、見てみなさい! 今回の歴史的勝利による『タイム・アップデート』よ!」
ホログラムで表示された加藤家の借金残高。
それが、凄まじい勢いでスロットマシンのように回転し――ついに、億の桁が消滅した。
「……減ったな」
「減ったわ! これであんたが植物人間になって私が極貧生活を送るバッドエンドの確率は、限りなくゼロに近づいた! あとはあんたがプロになって、タイトル賞金で残りの借金を完済するだけよ!」
和令がはしゃぎ回る中、清麿のスマートフォンが震えた。
画面には『着信:千代』の文字。
清麿は小さく深呼吸をして、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『……お兄ちゃんっ!』
電話の向こうから、鼻をすする声が聞こえた。
『見たよ、YouTube……! すごかった、お兄ちゃん、本当にすごかった……っ!』
「千代……。心配かけて、悪かったな。ネットで色々、変なこと言われて」
『ううん! 私、信じてたもん! お兄ちゃんが、ズルなんかするわけないって! だって、ずっと……ずっと将棋盤の前で、一人で泣きながら頑張ってたの、私知ってるもん……!』
妹の嗚咽を聞いて、清麿の目頭が熱くなった。
奨励会を退会し、絶望して、ベランダから飛び降りようとしたあの日。
もしあのまま死んでいたら、千代をこの借金地獄と介護地獄に突き落としていたのだ。
(……俺は、もう間違えない。この力で、必ず……)
「千代。今度、美味いもん食いに行こう。……俺の、奢りでな」
『……うんっ! 絶対だよ! 高いお寿司、食べに行くからね!』
電話を切り、清麿は大きく息を吐き出した。
胸の奥につっかえていた重い石が、完全に消え去ったのを感じた。
「……感動の兄妹愛のところ悪いんだけど」
和令が、ニヤニヤしながら清麿のスマホの画面を指差した。
「休んでる暇、なさそうよ」
清麿が画面を見ると、ニュースアプリから一斉に『号外通知』が届いていた。
【特報:日本将棋連盟、異例の声明を発表。加藤清麿氏の実績とネット世論の圧倒的支持を受け、特例措置による『プロ編入試験』の実施を緊急決定】
【試験官は、現役の若手プロ棋士5名。3勝すれば、加藤清麿は史上初の『元三段退会からのプロ入り』を果たす】
「……プロ、編入試験」
清麿は、その文字を食い入るように見つめた。
かつて、年齢制限という絶対の壁に阻まれ、二度と開くことはないと思っていた重い扉。
それが今、数百万人の熱狂と、未来からの力によって、こじ開けられたのだ。
「フフッ。どうする? ビビって逃げ出す?」
和令が意地悪く笑う。
清麿は立ち上がり、部屋の隅にある将棋盤を見下ろした。
そして、力強く、獰猛な笑みを浮かべた。
「逃げるわけないだろ。……全員、俺の『泥沼』に引きずり込んで、未来の答えで処刑してやるよ」
元奨励会三段の逆襲。
本当の戦いは、ここから始まる。




