EP 1
「――負けました」
その言葉を吐き出すのに、どれだけの勇気が必要だっただろうか。
あるいは、それは勇気などではなく、単なる魂の嘔吐だったのかもしれない。
「26歳、年齢制限。規定により、加藤清麿三段の退会が決まりました」
奨励会幹事の事務的な声が、鼓膜を震わせる。
将棋会館の冷たい畳の匂い。
盤上に散らばる、意味を失った駒たち。
「残念だったね。君には、才能がなかったんだよ」
誰かの嘲笑う声が聞こえた気がした。
10年。青春の全てを捧げた10年間が、音を立てて崩れ落ちていく。
ガバリ、と跳ね起きた。
「……ハァ、ハァ、ハァ……」
全身に嫌な汗をかいている。
安っぽいカーテンの隙間から、2月の冷たい朝日が差し込んでいた。
そこは、築40年の木造アパート、1LDKの一室。
万年床の布団の周りには、飲み干したストロング系の空き缶と、コンビニ弁当の殻が散乱している。
「……また、あの夢か」
加藤清麿。30歳。無職。
元奨励会三段。
かつて「神童」と呼ばれた男の、これが成れの果てだった。
◇
午後2時。
清麿は、ヨレヨレのスーツを着て、近所のスーパーマーケットの事務所にいた。
面接だ。
「えーと、加藤さん……でしたっけ?」
店長とおぼしき中年男性が、履歴書をペラペラとめくりながら鼻で笑った。
「履歴書、スカスカですねえ。最終学歴は中卒。で、26歳まで『家事手伝い』?」
「いえ、その……将棋のプロを目指していまして、奨励会という所に……」
「あー、将棋ね。ゲームでしょ? 遊びだよね?」
店長はボールペンを回しながら、侮蔑の視線を向けてくる。
「いや、あの……遊びではなく、職業としての……」
「結果が出なかったなら、遊んでたのと一緒でしょ?」
言葉が詰まる。
反論したかった。死ぬ気で努力した日々を、遊びと断じられたくなかった。
だが、今の自分には何の肩書きもない。
ただの、30歳の職歴なしのおっさんだ。
「うちはねえ、即戦力が欲しいのよ。若い高校生とか、主婦のパートさんとかね。君みたいに、いい年して社会常識のないプライドだけ高い人は、ちょっとねえ」
「……失礼しました」
逃げるように席を立った。
背後から「いい年してゲームかよ、プッ」という笑い声が聞こえた気がした。
◇
アパートに帰ると、日はすっかり落ちていた。
部屋の電気をつける気力もない。
暗闇の中で、スマートフォンの通知ランプだけが点滅している。
『兄さん、生きてる? 就職活動、どう? お金、足りてる?』
妹の千代からのLINEだった。
既読をつけることができない。
指が震える。
千代は優しい。
親から「恥さらし」「穀潰し」と絶縁を言い渡された時も、彼女だけは味方をしてくれた。
わずかな給料から、仕送りをしてくれようとさえした。
(……俺は、千代の人生まで食い潰すのか?)
ふと、限界を感じた。
奨励会を追われて4年。
何をやってもダメだった。
将棋以外の生き方を知らない。社会のルールが分からない。
自分は、生きていてはいけない人間なんじゃないか。
「……楽に、なりたいな」
ふらりと立ち上がり、ベランダの窓を開けた。
2月の夜風が、頬を刺すように冷たい。
ここは5階。
手すりの向こうには、冷たいアスファルトが見える。
「ごめんな、千代」
清麿は、手すりに足をかけた。
身体が宙に浮く感覚。
これで、全てが終わる。
思考のノイズも、敗北の記憶も、将来への不安も、すべて消える――。
その時だった。
上空の空間が、バリィッ! と音を立てて裂けた。
「は?」
清麿が空を見上げた瞬間。
裂け目から、何かが飛び出してきた。
人影だ。
セーラー服のような、しかし所々が発光する奇妙なスーツを着た少女が、重力に従って落下してくる。
そして。
「死ぬんじゃねええええええっ!!」
ドゴォッ!!
「ぐえっ!?」
少女の両足が、清麿の顔面にクリティカルヒットした。
強烈なドロップキック。
清麿の身体は手すりから弾き返され、室内の畳の上に見事に転がり込んだ。
「い、ってぇ……!! な、なんだ!?」
鼻血を押さえながら、清麿は身を起こす。
目の前には、見知らぬ少女が仁王立ちしていた。
年齢は20歳くらいか。
奇抜なファッションだが、その耳には「王将」の形をしたイヤリングが揺れている。
「……危ないところだったわ」
少女は乱れた前髪を払うと、ゴミを見るような目で清麿を見下ろした。
「おい、そこの負け犬」
「は、はい!?」
「あんた、今自殺しようとしたでしょ」
「い、いや、それは……」
少女はズカズカと歩み寄ると、清麿の胸倉を掴み上げた。
「いい? よく聞きなさい。あんたがここで死ぬとねえ……」
少女の瞳が、怒りで燃え上がっている。
「あんたは植物人間になって、妹の千代おばあちゃんが介護地獄に落ちて、莫大な借金が残って、300年後の子孫である私が、その借金返済のために極貧生活を送ることになるのよ!!」
「……は?」
「私がわざわざ未来から来た理由はただ一つ! あんたのその腐った人生を叩き直して、私の借金をチャラにするためよ!」
「え、えええええええっ!?」
30歳、無職、元奨励会三段。
人生詰んだと思っていた男の部屋に、とんでもない嵐が舞い込んだ瞬間だった。




