23 悲しき流行3
「……なに、これ」
翌朝、ハンスの医院の前には開院前だというのに長蛇の列が出来ていた。
「やばいっ、出遅れた!」
遥香は慌てて医院の中へ入る。
そこにはもう診察を始めているハンスの姿があった。
「遅くなって、ごめんなさい!」
「いや、大分前からこの状態なんだ。」
いつもよりさらにボサボサの頭を掻きながらハンスは言った。
昨日より確実に患者が増えている。今日も、忙しい一日になりそうだ。
遥香は、すぐに薬の調合準備に取りかかった。
「次の人、どうぞ」
ハンスの声に応じて現れたのは、昨日診たあの夫婦だった。
夫は、もはや自分の足で立つのもやっとの様子で、妻に身体を預けている。
「先生! どうか、夫を助けてください!」
泣きながら懇願する妻。
ハンスは険しい顔で男性をベッドに横たえ、診察を始める。
遥香は、嗚咽を堪える妻にそっとハンカチを差し出した。
「大丈夫ですか?」
「あ、ありがとうございます……」
顔を上げた彼女の目には、はっきりと疲労の色が浮かんでいた。まとめた赤茶色の髪は乱れ、唇は乾ききっている。
「夫は、治るでしょうか……」
再び涙をこぼす彼女の背を、遥香はそっと撫でた。
その視線が、ふと待合の列へ向く。
(……あ、れ?)
遥香はある"違和感"に気付いた。
だが、それを確かめる間もなく――
診察を終えたハンスが険しい顔で言った。
「旦那さんはかなり衰弱しています。食事はパンをお湯で溶いて、少量ずつ。それと……ここまで来るのも大変でしょう。こちらから往診します」
妻は、絞り出すように礼を言った。
「ありがとうございます。どうか、夫を……っ」
遥香は、男性を一人で運ぶのは無理だと判断し、家まで同行することにした。
(重っ!)
体格のいい男性は、二人がかりで支えても息が上がる。
(この人、一人でここまで……)
その献身に、胸が苦しくなった。
家に着き、なんとか男性をベッドに寝かせる。
家は小さいながらも整っており、窓辺では黄色い花が一輪、静かに咲いていた。
「助かりました。お疲れでしょう? お茶を淹れてきますね」
そう言い残すと、女性はパタパタと台所へ向かった。正直、遥香もかなり疲れていたので、その申し出をありがたく受けることにした。
室内はこじんまりとしているが、隅々まできちんと整えられていて、不思議と落ち着く空間だった。
(綺麗にしてる。私の部屋とは大違い……)
そんなことを考えていると、
「お待たせしました」
柔らかな声とともに、女性が戻ってきた。お盆の上には、湯気の立つカップが二つ載っている。
「ありがとうございます」
遥香は軽く頭を下げ、カップを受け取った。
「一人で旦那さんを支えて、医院まで来られたんですよね? 大変だったでしょう」
「ええ。でも、一刻も早く先生に診ていただきたくて……」
そう言って、女性は胸の前で両手をぎゅっと組む。その仕草から、必死さと不安が痛いほど伝わってきた。
「……旦那さんのこと、本当に大事に思われているんですね」
思わず零れた遥香の言葉に、女性は迷いなく、深く頷いた。
「えっと、お名前、伺ってもいいですか?」
女性がちらり、と遥香の目を見て尋ねた。
「あ、遥香です」
「遥香さん……私は、リズといいます」
それから自然と話が弾んだ。
どうやら年齢も同じくらいらしい。
リズは、夫との出会いを少し照れたように語ってくれた。
「夫は、腕っぷしが強くて……その時は、本当に格好よく見えたんです」
どうやら、七年前。
街の中心で開かれた豊穣祭で酔った男に絡まれていたところを、大工をしている今の夫が助けてくれたのだという。
「私、一目で好きになってしまって……」
照れくさそうにそう語るリズの表情は、今も夫を誇らしく思っているのが分かるほど、優しかった。
気がつけば、日差しはすっかり傾き、影が長く伸びていた。
「っ……いけない!」
遥香は慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「すみません、長居してしまって……ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。本当に、助かりました」
家を出た瞬間、遥香は青くなった。
(やばい! こんなに遅くなって……ハンス先生に怒られる!)
遥香は急いで医院に戻った。
そこにはまだ患者の列が続いていた。
「戻りました! 遅くなってごめんなさい!」
そう声をかけると、ハンスは疲れ切った顔で振り返り、小さく頷いた。
もう声を出す気力も残ってないらしい。
(が、頑張ろう)
遥香は気持ちを切り替え、再び診察と調剤に戻るのだった。
気付けば、待合室に残る患者はあと一人だけになっていた。
(……やっぱり、変だ)
今日一日だけで、患者はおよそ八十人。
その全員が――成人男性だった。
子供はいない。女性もいない。
日に日に増え続ける“インフルエンザ”。しかも、感染するのは成人男性のみという異常性。
(これ、本当に病気……?)
感染症であれば、ここまで年齢や性別に偏りが出るはずがない。あまりにも不自然だった。
「何かが、違う気がする」
遥香は、胸の奥に小さな棘のような不安を抱えたまま、その日の仕事を終えた。
******
帰り道。
広場でレオニスを待っていると、ふと視界の端に見覚えのある後ろ姿が映った。
(あ、リズさんだ)
例の、女性で溢れかえる化粧品店。その店先で、リズは若い女店主と話しているようだった。
「その後、いかがです?」
「おかげさまで、順調です」
「また、いつでもいらしてくださいね」
店主は満足そうに頷いている。
(へぇ、リズさんもここの化粧品を使ってるんだ)
そう思い声を掛けようとした時、甲高い歓声が背後から上がった。
「きゃあああっ!」
振り向くと、広場の街灯にもたれかかるように立つレオニスの姿があった。
そして、女性たちの視線は一斉に彼へと集まっていた。
(……やばい! これは騒ぎになるっ)
遥香は即座に判断し、店から飛び出した。
レオニス本人は、自分の美しさがどれほど周囲を混乱させているのか、まるで理解していない。
「レオニスさん!」
駆け寄ると、彼はその美しい顔を上げた。
「ああ、もう来ていたのか。遅くなってすまない」
「い、いえ、早く行きましょう」
女性たちの突き刺すような視線を背中に受けながら、遥香はため息をつく。
(どうして、これで気付かないんだろう……)
歩きながら、レオニスが尋ねた。
「今日はどうだった?」
「昨日より患者さんが増えて……それはもう大変でしたよ。あ、そうだ」
遥香は、リズのことを話した。一人で夫を支え、必死に医院まで連れてきたこと。自分を顧みず、献身的に看病していること。
「ああいうのを“愛”って言うんでしょうね」
レオニスは、何も言わなかった。




