21 悲しき流行1
(急がなければ……)
その女は酷く焦っていた。その手は小刻みに震え、口元には薄く青い痕が残っている。
(もうじき、あの人が帰ってくる)
ご飯は作ったし、掃除もした、部屋の中を周り抜かりがないか確かめる。
ーーガチャ
玄関のドアが開く音がした。
ギイィと嫌な音を立ててドアがゆっくり開き、男が入ってくる。
男はドカッと椅子に座ると、酒臭い息を吐きながら怒鳴った。
「おい! 飯はまだか!」
女は慌てて料理を男性の元へ運ぶ。
「ふん……っ」
男は鼻を鳴らして、家の中を見渡す。
ふと鏡台の方で目がとまった。
そこには今朝までなかった小さな美しい瓶があった。
ラベルには微笑む天使の絵が描かれている。
「なんだこれは! 俺の許可なしに化粧品を買ったのか!」
男はそう言い大股で鏡台まで行くと、その瓶を掴み女に投げつけた。
ーーゴン
鈍い音がしてそれは床に転がった。
女の額から、じわりと血が滲む。
(……どうして、こんなことに)
女は震える手で瓶を拾い上げると、ぎゅっと握りしめた。
******
「ダメだ……」
遥香は大きくため息をつき、石造りの医院の扉に手をかけた。
抗菌薬の開発は行き詰まり、頭の中は完全に煮詰まっている。
(ハンス先生に、相談してみよう)
そう思って扉を開けかけた瞬間、違和感に気づいた。
「……あれ?」
医院の中が、やけに騒がしい。
普段は閑散としているはずのハンスの医院が、今日は人で溢れかえっていた。
診察室に置かれた古びたソファはすでに満員で、床に座り込んで順番を待っている患者もいる。
(今日は、忙しそうだな……出直そう)
そっと引き返そうとした、その時。
「遥香くん、ちょうど良かった! 手伝ってくれ!」
切羽詰まったハンスの声に、呼び止められた。
「……はぁ」
遥香はため息をつき、ドアノブから手を離した。
昼もとうに過ぎた頃、患者はやっとはけた。
「いや〜本当に助かったよ」
ハンスは伸びをしながら言う。
「ここ数日で急に患者が増えてね、どうやら流行病らしいんだ」
「流行病?」
「巷では、流行を文字って“インフルエンザ”なんて呼ばれてるよ」
遥香は思わず目を丸くした。
(えっ……インフルエンザ?)
「ど、どういう症状なんですか!?」
「ああ、吐き気や目眩から始まり、悪くなると衰弱して死ぬ」
「はあ」
どうやら、現代のインフルエンザとは違うようだ。
「なんでも、星の仕業らしいけど」
ハンスはカルテを書きながら、バカ真面目な顔でそう言った。
「ほ、星ぃ!?」
(今回はまた、えらく飛躍したな)
遥香は小さくため息をついた。
ここには、感染や病気といった概念がないのだ。
故に、突拍子もない原因が作り出される。
「お茶でも飲むか」
ハンスがふいに立ち上がり、やかんを火にかけようとした。
「あっ! ハンス先生、手を洗わないとうつりますよ!」
遥香が慌てて止める。
「手を?」
ハンスは不思議そうに手を眺める。
「もし、手に病気の源が付いていたら、それが体に入ってしまって病気になるんです」
他の人であれば「意味のわからない事を」と怒鳴られるのがオチだが、ハンスはこの時代には珍しく柔軟な考え方の持ち主だった。
「なるほど、面白い考えだ! これからは手を洗うようにしよう」
そう言うと、ハンスは肘までゴシゴシと洗った。
ーーバタンッ
突然、扉が勢いよく開き、青ざめた女性が飛び込んできた。
「夫がっ! 夫が目を覚さないんです!」
「目を? 家に案内して下さいっ!」
そう言うと、ハンスは鞄を持ち医院を飛び出した。
遥香もその後を着いて行く。
医院から10分程走ると、患者の家に着いた。
「ここです!」
女性が玄関のドアを慌てて開け、ハンスを招き入れる。
家の奥、寝室に入ると――
ベッドの上には一人の男性が横たわっていた。
顔色は土気色で、唇は黒ずんでいる。
男性はピクリとも動かず、ただ目を瞑っていた。
「大丈夫ですか!?」
ハンスは男性の肩を叩いて呼びかける。
しかし、返事はない。
「これは……」
ハンスは男性の手を取り、脈を確かめた。
そして、目を閉じると、静かに告げた。
「……お亡くなりです」
「嘘っ! 嘘でしょ!?」
女性は声を上げると、旦那の遺体に縋り付いた。
「あなたぁぁ……っ!」
悲痛な叫び声が室内にこだました。
医院に戻ると、ハンスは無言で死亡診断書を書いていた。
院内には重苦しい空気が漂っている。
(さっきの奥さん……大丈夫かな)
遥香は、旦那に縋り泣き崩れていた女性の姿を思い浮かべた。
――バタンッ
沈黙を破るように、再び扉が開いた。
体格のいい男性が、女性に支えられるようにして中へ入ってくる。
「先生、昨日の夜から夫の具合が悪くて……」
戸口で、女性は肩で息をしながら訴えた。
赤茶色の髪は乱れ、額には汗が浮かんでいる。
ハンスは男性をソファに座らせると、すぐに診察を始めた。
「昨日の夜はどんな症状でしたか?」
ハンスが男性に問いかける。
「あぁ、昨夜から酷い眩暈がして、ベッドに行こうとしたら、吐いちまって……」
言うと男性は「うえっ」とえづいた。
その手は、小刻みに震えている。
(……あれ?)
遥香の視線が男の顔で止まった。
(この人も……?)
遥香はソレを凝視した。
「流行病だと思います。薬を出すので、飲んで安静にして下さい」
ハンスはインフルエンザと診断し、妻に薬を渡した。
妻は丁寧に頭を下げると、また男性を支えるようにして帰って行った。
「またインフルエンザか、一体どうなっているんだ」
背中をボリボリ掻きながら、ハンスがぼやいた。
「おかしいですね……」
遥香は二人が去ったドアを見つめて言った。
男性の唇は、黒ずんでいた。
それは、亡くなったあの男と同じ色だった。
ーー偶然だと片付けるには、少しだけ不自然だった。




