12 悪魔の回転椅子3
青年の部屋に戻ると、ヨレヨレの白衣を着たハンスの後ろ姿が見えた。
患者の診察が終わり、わざわざ来てくれたようだった。
(逃げた、なんて思ってごめんなさい)
遥香は心の中で小さく謝り、ハンスの元へ駆け寄る。
「ハンス先生」
「ああ、遥香くん、遅くなってごめんね」
今日もボサボサの髪を掻きながら、彼は笑顔で言った。
「どうだい? 何かわかったかい?」
「いいえ、何も。トマトが大好物ってことくらいですかね、収穫なしです。はは……」
冗談めかして言うと、ハンスは首をかしげる。
「トマトって、なんだい?」
(……え、トマトを知らない? この時代にはない? いや、さっき厨房で見た)
発音の問題かと思い、今度は外国人風に「トゥーメイトォ」と言い直してみる。
それでも、ハンスの頭には大きなクエスチョンマークが浮かんでいる。
(ふむ。発音の問題ではない)
「あの、赤とか黄色で、丸い。食べたら、ちょっと酸っぱくて……」
トマトの説明をしたのは人生で初めてだった。
身振り手振りで必死に説明する。
「……もしかして、それ、悪魔の果実かい?」
ハンスの声が少し震える。
聞き間違いだろうか。あのハンスの口から、非現実的な単語が出るなんて。
実際に見せた方が早いと判断した遥香は、ハンスを連れ再び厨房へ戻る。
白銀色の皿の上に載った黄色いそれを指さして言った。
「これです」
「これっ!悪魔の果実じゃないかっ!」
ハンスの目が見開かれる。
「……あ、悪魔の果実?」
「ああ、これを食べた者は病気になるんだ」
「い、いや〜、私の国では、好き嫌いはあれど、みんな日常的に食べてましたけど」
遥香がそう言うと、今度はハンスが驚く。
2人の間には、妙な空気が流れた。
(どういうこと? 見た目は同じだけど、ここのトマトと現代のトマトでは、違うの?)
確かめてみるしかない。
遥香が料理人にトマトを一つ分けてもらうよう頼むと、水で軽く洗って手の上に一粒載せてくれた。
口に運ぶと、あたり前の味。
(やっぱり普通だ。いつも食べていたトマトと、何も変わらない)
トマトを咀嚼する遥香を、ハンスと料理人は信じられないといった表情で凝視している。
「だ、大丈夫かい? 遥香くん」
ハンスが心配そうに遥香に声を掛ける。
「はい、大丈夫です」
遥香はあっけらかんと答える。だって、ただのトマトなのだから。
「えっと、その病気というのは、どういう症状が出るんですか?」
「頭が痛んだり、まっすぐ歩けなくなる。攻撃的になったりする者もいる」
(え、それ、息子さんの症状に似てるような)
「もしかして、商人の息子は悪魔の果実を食べているのか?」
ハンスもピンときたようだ。
恐らく息子がこうなった原因には、トマトが関係しているのだろう。
遥香は考える。
この時代ではトマトを食べた人が病気になる。
だが、トマト自体は現代と変わらない。
(トマトに、というより、他に原因があるのでは?)
「と、とりあえず、悪魔の果実を食べるのを止めないと」
ハンスはそう言うと、お皿からトマトをひょいと除けた。
ーーー皿
白銀色に光る、それ。
(そうだ! 原因は、果実じゃない)
「このお皿って……」
遥香が白銀色に輝く皿を指差し、料理人に"ある事"を尋ねた。
そして、確認するように続ける。
「息子さんがトマト……いや、悪魔の果実を食べ始めたのはいつからですか?」
「2年前に旦那様が異国から持ち帰ってからだ。みんな止めたんだが、坊ちゃんが気に入ってしまってな……それ以来毎日出している」
(多分、あれだ!)
原因は判明した。
「ハンス先生、一つお願いが……」
遥香はハンスにある頼み事をした。
*******
ーーコンコン
遥香は、ヨハンソンの書斎をノックする。
「はて、原因が判明したと……?」
ソファに腰掛け、紅茶を啜りながらヨハンソンが言った。
「息子さんは、恐らく“金属”が原因の中毒だと思います」
遥香は真っ直ぐに答える。
「……中毒?」
ヨハンソンは目を瞬かせる。
「息子さんはトマト……悪魔の果実を好んで食べていますよね?」
「ああ、そうだ」
ヨハンソンは忌々しげに答える。
「そして、ここのお屋敷では、貴族と同じこのお皿を使っている」
遥香は厨房から拝借した白銀色の皿を掲げる。
「ふっ、いかにも」
ヨハンソンは誇らしげに微笑み、頷いた。
「この果実と、このお皿は一緒に使うことが、危険なんです」
「なんだと……!」
ガタンっ、と音を立ててヨハンソンは立ち上がった。
その時。
ーーガチャ。
ハンスが入ってきた。
「遥香くんの言う通りだったよ」
ハンスはちらりと、遥香を見た。
そして、ヨハンソンに向き直ると告げた。
「息子さんの歯茎は青緑色になっていました。このことからも、中毒で間違いないかと」
ハンスは軸が曲がったメガネを、クイっと押し上げて、続ける。
「それも、重度の……」
遥香は薬剤師であり、患者の身体を診察したことはない。口の中に青緑色が見えたことをハンスに伝え、診察を依頼したのだ。
遥香はヨハンソンを真っ直ぐ見て、口を開いた。
「恐らく、息子さんが蜘蛛のように這って歩くのも、歩行障害のせい」
「……」
ヨハンソンは手を震わせ、下を向いている。
「唾を吐くのも、口の中に異常が出ている証拠です」
遥香は、言い切った。
ヨハンソンは無言で聞いていたが、執事の方を向くと怒鳴りつけた。
「早く! 悪魔の果実を食べるのをやめさせろ!!」
「いいえ――問題は果実ではありません」
遥香は、白銀の皿から目を離さなかった。
「それを“毎日使っている”ことです」
その皿は、今日も何事もなかったように、白く、そして美しく光っていた。
――まるで、自分は無罪だと言わんばかりに。




