第1話 「華炎の退魔師と贄の姫」
――2030年 春。
逢魔時から、一年後。
この日、私は二度人を信じた。
私は白いワンピース一枚しか着てなくて、窓のない暗い部屋のベッドに寝転んでいた。
壁に並ぶ鉛筆の正の字、アナログ時計の音。長く伸びた髪が枕に絡まっていたが、それすらもうどうでも良い。
ギィ、と扉が開く。
「……出なさい」
叔母さんの冷たい声がした。何故だろう、いつもと違う時間に扉が開いた。
言われるままふらふらと外へ出る。久しぶりに吸った外の冷たい空気と自然光にくらりとした。
そして――見上げる向こうに、あった。
町々の彼方に、霧のように浮かびあがる巨大なドーム。灰色に濁った空に、ぼんやりと覆いかぶさるようなそれを、私は初めて見た。
「……あれ、なに?」
「千年京。あなたの嫁ぎ先よ」
叔母さんは振り向きもせず言う。少し離れたところに、ミニバンの横に立つ無言の作業員達がいる。
「あなたをここから解放してあげる」
叔母さんの目がいつになく冷たくて背筋が凍る。嫌な予感に、胸をギュッと握りしめる。それなのに、少しだけ信じてしまった自分がいた。
これでいいはずがない。
それでも、行こうと思った。
なんでもよかったんだ。
この場所から出られるのなら、私は、それだけで――
* * *
モモは白無垢姿で、震えながら石畳に座り込んでいた。
篝火がぽつぽつと置かれた薄暗い洞窟。壁には苔が生え、不気味な湿った空気が漂う。
「なんで……? どうしてこうなったの……?」
隣には”それ”……神様らしき異形が座っていた。
土気色をした痩せ細った人型に、雅だが禍々しい袴。腕の数は6本もあってどれもが歪に折れ曲がっている。顔には目の模様が描かれた札が貼られていて顔面は見えない。
モモの視線ががたがたと前に向く。少し下がった地べたに、数人の見知らぬ人間が正座させられていた。
「頼む……家に帰してくれ……」
「お母さん……助けて……」
誰もが顔面蒼白で、無力に助けを呟くしかできない。そして、体からオーラのような紫色の謎のモヤが立ち上っていた。鬼火の様に揺めきながら、モヤは神様に吸い込まれていく。
モモが花嫁なら、まるで彼らは参列者。間違いなく、これは祝言だ。それも、異形の神との。だが、これではまるで花嫁というより生贄だ。
(どうして……? 叔母さんはこのこと知ってたの?)
惨めさと後悔で視界がにじむ。
その時、それ――《堕神》が動いた。
異様に大きな手がくすんだ徳利を手に取り、盃に澱み光る液体が注がれる。堕神はそれを札越しに飲もうとするが、液体は顎を通り過ぎ地面に音を立てて滴り落ちる。
ゾッとした顔で見ていたモモに、盃が差し出された。中には、堕神から抜けた黒い毛髪がどっさり沈んでいる。
「ぎゃーーっ!!」
反射的に弾き飛ばすと、堕神が動きを止めた。
「やば……!」
札に書かれている目が自分を見た気がして、モモの背筋が凍った。
ゴクリとモモの喉が鳴る。
堕神は無言で立ち上がると、異様に大きな手でモモの後頭部を掴んで押し倒した。
「うっ!」
動けない。視界の端で、堕神がどこからともなく鋭い短刀を取り出す。
「ちょっと待って!? 何するの!?」
堕神は淡々と、刃物をモモの腕に向ける。刃先が近づくたびに、モモの頭の中が真っ白になる。切る、つもりなのか。
「ウソ、ウソウソウソ……!! 」
モモの目に涙が滲む。
お願い、誰か、助けて……!!
「誰かぁーーーーーっ!!!」
――その時。
地面に鋭い鈴の音が響いた。
目の前に光が突き刺さる。黄金色に輝く、錫杖だ。瞬間、眩い光が迸り堕神を弾き飛ばす。
「――っ? ……なに、これ……?」
モモが目を凝らすと、淡い光がモモの周囲を囲んでいる。
堕神はその光に怖気付いて後ずさった。
そしてモモが呆然とへたり込む中、視線の先に降り立ったのは……一人の青年だった。
歩みに合わせて揺れる細い黒髪。赤い炎のような瞳。少し長い前髪の下に見える、どこか少年めいた表情。
小柄で細身の体躯に、少しオーバーサイズな黒と赤の着物袴の戦闘服。両耳に銀のピアスをしており、足元は動きやすいブーツ。
まるで、別世界から来たかのような美しさと威圧感を纏って、静止した時の中に青年は立っていた。
「……お、お寺の人?」
逆光の中、青年がその鋭い瞳で悪神を見据え、静かに真っ赤な日本刀を構える。
「じゃなくて、侍……?」
ポツリと漏らすモモの声に答えるように、青年――華上 亜蓮が鋭く飛び出した。
堕神が大きく膨れ上がり蜘蛛のような姿勢をとる。6本の腕の触手が飛んだ。
亜蓮の剣閃が赤い閃光となる。小柄な身体全身を使った剣撃。空間を縦横無尽に飛び回りながら、亜蓮は敵の腕を切り落とし、堕神を圧倒していく。
「おーおー、今日もうちのリーダーは張り切っとるなぁ!」
不意に頭上から響く軽い声。
振り返ると、ホスト風の佇まいをした金髪ポニーテールにスーツの男――紫月 御之が瓦礫の山の上でポケットに手を突っ込んで立っていた。
「よし、生贄ちゃん確保。しっかし悪趣味な祝言やなぁ。暗いわ臭いわアクセス悪いわ、センスがないねん。センスが」
御之に向かってきた瓦礫の破片が小さな黒い影に弾かれ、跳ね返った破片が隠れていた男の方に飛んでいく。
「イヤアアアッッ!!?」
破片は、可憐な悲鳴を上げる茶髪の男――羽峯休 千助の横スレスレで跳ね返った。
「バカ!! なにすんだよ!」
「なんや、おったんかいな」
「しらばっくれてんじゃねーよ! 絶対気づいてやっただろクソ野郎! 俺は善意の情報提供者なんだぞ!? 民間人なんだぞっ!?」
口論の最中、千助がはっと目を見開く。琥珀色に輝くその瞳が未来視の力を宿していた。
「花緒さん危ない!! 下だっ!!」
その叫びに、細身の女が素早く跳び上がった。
「全く、便利な力ですね」
凛としたワイシャツ姿にショートハーフアップの女――鮎川 花緒は淡々としながらも軽やかに着地した。
その間も、彼女の目は鮮やかな翠色に光っている。この空間が破壊され、被害が拡大しないように結界を張り続けているのだ。
「戦えないなら民間人の避難誘導くらいしてください」
「わかってるよっ!!」
子犬のように叫びながらも、千助が捕まっていた人達に逃げ道を指示する。千助に誘導され、怯える人達の姿が見えなくなった直後、空間中に無数の参列者を模したかのような手下が現れた。
「おーおー、賑やかしいことで」
御之が胸ポケットから黒いガラケーを取り出すと、黒いトカゲのストラップが鈍い光を放った。軽快な電子音と共に画面に紫色の式神文字が瞬くと、空気が揺らぎ始める。
視界を埋め尽くすように黒い影が集まり、渦を巻いて膨れ上がる。黄色い点の目を持つ愛嬌ある顔、4本の太い足、そして三つ首をもつ大蛇――式神『クロチ』が姿を現した。
「けど悪いなぁ、そろそろお開きや!」
御之の声に応じ、クロチが咆哮を上げながら嵐のように暴れ回る。手下の群れを薙ぎ払いながら巨大な爪が地面を抉るが、主人は飄々としたままだ。
「――ッ御之! 無駄に場を荒らさないでください!」
「はは〜さすが花ちゃんの結界やなぁ〜! 壊れん壊れん!」
クロチが手下の群れをまとめて吹き飛ばし、戦場は一瞬の静寂に包まれる。
「……っ、すごい!」
モモの目が興奮で輝く。声は震えていたが、高揚していた。
風を切る音と共に、花緒がモモのそばに降り立った。靴音も静かに、冷静に防御結界を展開する。
花緒の右手の薬指――銀色の指輪が、モモの目に煌めいて映る。
柔らかい光がモモを包み込んだ。不思議な安堵感が広がり、身体の強張りがほどける。
「動けますか?」
「は、はい……!」
花緒は短く頷くと、視線を戦場に戻した。
(すごい。この人達……あんなの相手でも逃げないんだ。)
後ろから静かに、亜蓮がモモへ近づく。
――すれ違い、モモと亜蓮の姿が交錯した。亜蓮は歩みを止めないまま、突き刺さった錫杖を握り、堕神を見据えながら一気に引き抜いた。
気のせいか、通り過ぎた横顔はどこか幼く臆病な少年のような表情をしている。だが、次にモモが瞬きをした時には、亜蓮の両目は冷たく熱い光を宿していた。
金属が擦れるような高い音が響き、錫杖が眩い光を放つ。その光は亜蓮の手の中で変化し、凛とした日本刀へと形を変えた。
「あいつを、倒せるんですか……!?」
「……この千年京には国家退魔師隊を含め大小様々な堕神の対抗勢力がありますが、堕神を真に浄化できる力を持つのは、亜蓮様だけ。そして、亜蓮様が率いる、我々暁月だけです」
花緒の言葉に、モモが再び亜蓮を見つめる。その背中はどこか孤独で、強烈な信念に満ちている。
亜蓮がゆっくりと刀を抜き放つ。鏡のような刀身に、亜蓮の横顔と、戦う決意に満ちた鋭い視線が映った。
強烈な殺意。亜蓮の見開いた目が刹那、憎悪と復讐の火の色に染まり、修羅の如き気配を纏う。
その重圧に周囲の空間が震撼した。堕神は一瞬たじろぐも再び亜蓮目掛け触手を放つ。
刹那、亜蓮は迷いなく飛び出した。刃が赤い炎を纏い、炎は華のように舞い上がる。
目にも止まらぬ一閃が悪神の本体を真っ二つに断ち切った。炎はそのまま悪神の本体を飲み込むように燃え広がり、消えていくかに思われた。
だが。
「――?」
振り返る亜蓮の表情が険しくなる。堕神は消えるどころか、周囲から禍々しい瘴気を吸収し巨大化し始めた。
「なんや、二次会か?」
「これまでの堕神と何か違う」
能天気に仰ぎ見ながら御之が軽口を叩く。亜蓮もこの場で初めて口を開いた。
今確かに、決定打になる一撃を与えたはずだった。




