第12話 「贖罪」
アジトのリビングは、さっきまでの賑やかさが嘘みたいに静まり返っていた。
重い空気の中、千助はテーブルの上を眺め大袈裟に肩を落とす。
「あーあー。誰も片付けねえんだから、もう」
テーブルの上には空のカップ麺とペットボトルが散らかったまま。亜蓮と御之の気配はない。片付けもせず一体どこに行ったのか。
「大丈夫っすよ花緒さん。この手がかかる野郎どもの面倒は、ちゃんと俺が見ますんで」
いつもの調子で笑ってみせながら、手は勝手に動いていた。てきぱきとお盆に空の容器を乗せていく。
ぽたっ。
「……あれ」
手の甲に熱い雫が落ちた。慌てて目を擦ろうとするが、次の一滴が落ちる方が早かった。
「っかしいな……」
ぼろぼろと涙が止まらない。泣きたいのは俺じゃないはずなのに勝手に溢れてくる。
そしてようやく頭が認めた。
――あ、そっか。俺、ショック受けてんのか。
そうだ……。だって、つい数時間前までここには皆いた。ご飯食べて、作戦会議して、くだらねえこと話して。
いつも通りだった。それが今はどうだ。
花緒さんは倒れて、モモちゃんはいなくなって。亜蓮さんは妙に静かで、御之はひでえ顔してる。
なのに自分だけは怪我一つなくて。誰の痛みも本当には分かってやれない。誰にでもできる雑用をやって、何かした気になっている。
「なんで、こうなんだよ……」
もしあの時、モモちゃんを助けなければ、彼女は堕神の生贄になって死んでいた。でももし俺が亜蓮さんにモモちゃんのことを教えなければ、二人が出会うこともなかった。こんな風に傷つけ合うことも、あの人が大事にしてるこの場所を壊すこともなかった。
――ギリ、と奥歯が鳴る。
「……おい。見てんだろ」
喉の奥が怒りで震えた。テーブルに両手をついたまま、薄暗い天井に向かって声を振り絞る。
「全部、分かってたのかよ。こうなることも分かってて、俺にモモちゃん助けさせたのかよ? 全部俺のせいだって言いたいのかよ……!?」
返事はない。静寂だけが情けない背中を嘲笑う。
固く握る拳に、鋭く爪が食い込んだ。
「ああそうか、満足かよ!! 俺が惨めなところ見るのが、そんなに楽しいかよっ!!」
ガンッ!
テーブルを拳で打つ。弾かれたカップ麺の容器が床へ落ち、冷えたスープがフローリングに散った。じわじわと茶色い染みが広がっていくのを、涙で滲む目で呆然と見つめる。
――やがて、ぐしゃぐしゃと乱暴に顔を拭った。
「……俺は諦めねえからな……!」
――数分後、リビングの床は綺麗に片付いていた。
手を洗い、薄暗いアジトの廊下を進んでいく。
目的の扉を開ければ、壁中を埋め尽くす本棚の部屋が目の前に広がった。
神話、オカルト、民話、呪術、郷土資料——崩壊した遠都市中から回収した本が隙間なく並んでいる。
貸し出し禁止のシールが貼られた古書、焼け跡の残る新聞、修復された雑誌……。整理しきれていない手書きのノートやパンフレットは床に積み上げられていた。
「どうか、力を貸してください」
千助は墓前のように両手をぴったりと合わせ、深く頭を下げた。ゆっくりと顔を上げ、屹然と前を見つめる。
足を踏み入れる。思いつく限りの本に手を伸ばし机の上に積み上げる。埃が舞い、煤と紙の匂いが部屋を満たしていく。
――モモちゃんが帰ってくる為に、できることは全部やる!
パチリ、とデスクライトのスイッチを押した。白い光が机を照らし出す。
「――?」
その時、ふっと後ろ髪を引かれたような気がした。
視線が一冊の本へと吸い寄せられる。
棚の真ん中辺り。
恐る恐る歩み寄り、背表紙を見て千助は眉間を歪めた。
『子どもに語る 日本の神話』
静かに本を引き抜く。小口に薄い隙間が浮いていた。不自然に若々しい青紅葉が栞のようにして挟まれている。
「……」
額に冷たい汗が湧いた。
滑り落ちた青紅葉の下から、禍々しい八ツ首の蛇の絵が現れる。
――「八岐大蛇」
千助の喉が、ごくりと音を立てた。
* * *
――あの日を、忘れたことなどない。
指の間をまだ温かい血と冷たい雨が滑り落ちていく。悪い夢なら終わってくれと思ったのに、世界はまだ続いていた。
泥色の水溜りに映る目は、もう人のものではなかった。瞳孔は針のように細く、異様な金色に輝いている。
足元では、白い体がぐったりと倒れてた。踊るように四肢を投げ出し、ケロイドで引きつれた横顔が雨に打たれている。
血と雨と泥の臭いが、強烈な吐き気を押し上げる。
首だけがこちらを向き、もう動かないはずの唇が呟いた。
――だから言ったのに。
はっと息を呑んだ瞬間、幻覚が霧になる。
雨音は耳の痛い静寂へ変わり、背後に別の気配が立った。
……振り返らなくても覚えている。
薄鼠色の着物。翁の面。
少年とも、青年ともつかない小柄な男。
手には、炎のように赤く輝く日本刀。
……その手が握り直す、刀の金属音だけが妙に鮮明だった。
――カチン。
ああ、やっと終わる。
そして――今。
御之は薄暗い縁側の廊下に立ち、ガラケーを空に掲げていた。
辺りは、ただただ静かな藍色の世界だった。夏の虫の軽やかな鳴き声だけが、時折浮かび上がっては消える。
――モモの髪には常に一匹、式神を忍ばせている。無事なら居場所を教えてくれるはずだった。
「どうだ?」
「圏外や」
暗がりから亜蓮が歩み寄った。
御之はガラケーを降ろし、パチンと閉じる。
「式神まで遮断されるとはな……。GPSも魔力探知も効かん。曲がりなりにも神やな」
「このままモモを返さない気なのか?」
「いや。それなら『ブロック』した方が早い」
そのまま亜蓮の横を抜けようとした背中に、声がかかる。
「……思ってること言えよ」
御之の足がぴたりと止まった。
背を向けたまま深く息を吸い――ゆっくりと吐き出す。
「……モモちゃんのこと調べて、色々思い出したわ。」
御之は目をうんざりと細め、息だけでふっと笑った。軽く聞こえるようにしたはずなのに、声は少し震えていた。
「可哀想にな。自分が死んどっただけでも信じられへんのに、仲間の姉ちゃん食うてるなんて思わへんやろ。こんなん漫画でもやりすぎやわ」
胸が詰まる感覚を覚えながらも、御之はぽつりぽつりと言い切った。
ずっと御之の背中を見つめていた亜蓮が、足元に視線を落とす。
「お前は……」
御之の肩が強張る。
「"モモは事故だから仕方ない"。"僕は子供だったから仕方ない"。でも、自分はそうじゃないって思ってるんだろ」
「……」
答えられない。ただ、自分と向き合おうとする度に心を閉ざしたくなる感覚がする。誰かに何か聞いてほしいとも思わないし、理解されたいとも思わない。
「今はそれでもいい。無理してみんなに全部話せとも思ってない。でも、お前だからわかってやれることもあるだろ。モモの気持ちも、立場も……」
胸の奥がずきりと痛んだ。
苦しいからじゃない。この場所に居続けた先に、まだ役に立てることがあると言われた気がした。
「それに……」
背中で、亜蓮が息をつくのが聞こえる。
「お前が必要だって僕の気持ちは、最初から変わってないよ」
あまりにも明け透けな言葉に、御之の口角が緩んだ。
「……ほんま、よお息するみたいにそんなこと言えるな」
張り詰めていた肩から力が抜ける。御之はおかしそうに笑うと、ころっと表情を切り替えて振り返った。
「話逸れたな。今はモモちゃんやろ?」
「ああ。」
亜蓮が頷いた。真っ直ぐで容赦のない視線が御之を射抜く。
「お前は自分を計算に入れない。だから、ここから先は僕が決める。」
その言葉に、御之は嬉しそうに目を細めた。
「了解。リーダー」
「そうだぞっ!」
二人が振り返ると、千助が息を切らして廊下の先に立っていた。脇には本を一冊抱え、威圧感を振り撒きながらずかずかと歩み寄ってくる。
「ったく、ここにいたか! また独断で動こうとするなんて許さねえからな! こっからは全員で足並み揃えて動くぞ、クソ蛇!」
御之が僅かに目を丸くする。
千助の表情は焦りと本気の熱を帯びていた。
「モモちゃんを引き戻すなら、次がラストチャンスなんだからな……!」
* * *
一方、ガラスのドアをくぐった瞬間、モモは目を疑った。暖かい照明の下に、ありふれた台湾料理屋の外観が広がっていたからだ。
『天天楼 各種大皿・宴会賜ります』
……黒字に赤と黄色の看板が、無邪気に輝いている。
本当にただの飯屋だった。
「ボクの隠れ家の一つだよ。」
リンが機嫌良く先を歩き出す。高下駄がアスファルトをカラン、カランと軽やかに鳴らした。
そこは、ネオンに彩られた無人の繁華街だった。
傾いた看板、ひび割れた歩道。青やピンクの光が宝石のように煌めき、溶け合い、濡れた路面に反射している。
退廃と幻想の狭間を、狐耳とおさげの影が歩いていく。川のように足元を流れるはずの瘴気が、何故かここには一切ない。見上げれば、夏の夜空のように澄んだ藍色があった。
(なんなの、ここ……?)
ぼんやり見上げていると、リンが小さく舌打ちした。
「ちょっとゆっくりしすぎたな……。急がないと」
赤い光だけが灯るスクランブル交差点に出る。人も車も無い、白と黒のラインの上をリンはすたすたと渡りだした。
「で、どうだった? ボクの動画」
「……面白かったよ」
モモは歩行者信号の柱の傍らで足を止めた。
「人の感情をエネルギーにしてるって言ってた割には……人を食い物にしてる感じがしなかった。盲信じゃなくて、みんな好きで貴方を応援してるんだなって思ったし、良い神様なんだなって思った」
「あはは、なにそれぇ悪い宗教じゃないんだからさ〜! でも直球嬉しいなー⭐︎」
リンが交差点の中心で振り返る。カラン、と下駄の音が止まった。
「……実はね、君を連れてきたのは知りたいことがあるからなんだ」
モモがびくりと肩を揺らした。
リンの目がゆっくり、悲しそうに細められる。ネオンの光が瞳に映り妖しく揺れる。
「……君が華上 雪乃を喰った鬼っていうのは、本当かい?」
心臓が氷の棘で貫かれた。
青に変わった信号灯が、モモの強張った頰を冷たく照らす。
「……どうしてそれを?」
「ボクは神様だよ? 神様ならだいたいなんでもお見通しなもんだろ?」
リンは得意げに背を向けた。
モモは俯き、唇を震わせる。
「……それを聞くなら、貴方が何をしたいかもわかった気がする」
――ベキンッ!
モモの右手が信号機のポールを鷲掴みにした。金属が悲鳴を上げて歪む。引き抜かれるコンクリートの基部が、バキバキと音を立てて砕け落ちる。
「あ、勘違いしないで欲しいんだけど、別に君を退治する動画を撮ろうって訳じゃないからね? ほら、ボクって人間の味方だけど神様でもあるでしょ? 迷える妖怪に手を差し伸べるのもボクの役目っていうか――」
ふっ、とリンの上に長い影が落ちた。
振り返る。モモが片手で歩行者信号を高々と振りかぶっている。唸りを上げて迫る巨大な赤緑灯に、リンの脳がフリーズした。
「え?」
ドガァァン!!




