68、 試合を観に来てよ
「花名〜! 虎太朗くんが上がってったからね〜! 」
階下から母の声がして、 ベッドに腹這いになって漫画を読んでいた私は、 ガバッと飛び起きた。
ーー うそっ、 どうしてコタローが?!
3月最後の日曜日。
今日はコタローは、 剣道の試合があったはず。
今朝、 母と買い物に行こうと外に出た時、 ちょうど応援に出掛ける風子さんたちに会った。
車の窓を開けて顔を出した風子さんは、 今日の県大会は、 夏の全国大会の代表を決める試合だと言っていた。
ーー その大切な選考試合の後で、 どうしてここへ?
スマホの画面を見ると、 時刻は午後6時2分。
たぶん試合が終わってから家で着替えて来たんだろう。
以前は試合の後になると必ず会いに来て、 私に試合結果を知らせてからしばらく休んでいくのがお約束になっていた。
試合に勝った時には『褒めてよ』、 負けた時には『慰めてよ』。
そう言って私の膝に頭を乗せると、 私が髪を撫でるに任せてゆっくりと目を閉じるのだ。
ーー 今となっては、 よく平気であんなこと出来てたなって感じだけど……。
クリスマス会で多少はぎこちなさが緩和されたものの、 それで気まずさが完全に払拭された訳ではなかった。
最近は2人きりで会うことはほぼ無くなって、 ごくごく普通のお隣さんという体で、 会えばちょっと立ち話をする程度の微妙な関係性を保っている。
トントン……。
「はい」
私の返事を待って薄くドアが開くと、 その隙間からコタローの顔がひょっこり覗いた。
「入っていい? 」
「入る気満々なくせに」
「ハハッ、 そうだな。 お邪魔します」
そう言うと、 手に持ったドラッグストアの袋をガサガサ言わせながら中に入り、 ドアを閉めた。
今日のコタローはロールアップしたベージュのチノパンに白Tシャツとネイビーのカットソーの組み合わせ。
ーー おっ、 なんだ、 今日は爽やかコーデか、 素敵だろっ!
この服でも何でもカッコいいけど、 どうせなら道着姿で来てくれれば良かったのに…… なんて内心思いながら、 努めて平静を装う。
「なに? 何か用だった? 」
ベッドに腰掛けた私がそう言うと、
「何か用…… か。 前は用事なんか無くても当たり前みたいに一緒にいたのにな」
コタローは寂しそうにちょっと口を歪めて目を伏せた。
「まっ、 今日はちゃんと用事があって来たんだけどな」
コタローは「よっこいしょ」と大仰な声を出しながらカーペットの上に胡座をかき、 チョイチョイと手招きする。
「えっ、 何? 」
「そんな警戒すんなよ。 何もしないからこっちに来いって」
「別に…… 警戒なんて…… 」
ブツブツ言いながらコタローの向かい側に正座すると、 コタローは持参してきたドラッグストアの袋の中身をバラバラとひっくり返す。
出てきたのは薬局の湿布コーナーの辺りでよく見るテープ各種。
「一言にテーピングって言ってもさ、 使う部位や目的によって種類がいろいろあるんだよ」
テープの1つを手に取ると、 ラッピングをペリペリ剥がす。
「剣道で良く必要になるのは足。 踏み込む時に強い衝撃を受けるから、 足の裏の皮が破れたり、 足の甲が痛くなったりとかさ。 それで、俺がよく痛めるのは足首だから、お前にはまず足首の固定を覚えて欲しいんだ」
「ちょっ…… ちょっと待って! なんで急に…… 前にコタローが必要ないって言ったんじゃん! 」
「…… 言った。 俺が馬鹿だった。 あれは……テーピングが嫌だったんじゃなくて、 ハナに試合に来て欲しくなかったんだ」
「なんで…… だったらどうして今頃…… 」
「ハナの前で惨めに負けたらどうしようって思った。 カッコ悪いところを見せて、 幻滅されたくなかった」
「そんな、 幻滅だなんて…… 」
「うん、 全部俺の勝手な思い込み。 自意識過剰のカッコつけ。 俺が勝とうが負けようが、 ハナは隣にいてくれたのに…… 俺がグズグズしてる間に、 拗れて拗れまくって、 とうとう隣にもいられなくなった」
「……。」
「ほんと馬鹿だよな…… 勝てる自信がついたら試合を観に来てもらおうだなんて……俺の最高にカッコいい雄姿を見せたいだなんて…… 一体いつまで掛かってんだって話だよ」
「……。」
「俺はさ…… いつだって、 お前のヒーローでいたかったんだ。 だけどさ、 そうやってビビってる時点でヒーロー失格だっつーのな。 ハハッ」
「…… だからさ、 ハナ…… 試合を観に来てよ」
真っ直ぐに目を見てそう言うと、 コタローは急に目を泳がせて、 顔を赤くしながら自分の右膝を立てた。
チノパンの裾をグイッと捲り上げ、 床に転がっているテープの1つを手に取る。
「えっと……そんじゃ足首の固定。 人によって違うと思うんだけど、 俺が使ってんのはこの茶色い伸縮性の3インチと非伸縮の2インチの白で…… 」
「貸して、 私がやる」
「えっ? 」
私がコタローの手からパッとテープを奪い取ると、 コタローはテープを持っていた手の形そのままで固まって、 私の顔をじっと見た。