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AGAPE  作者: 銀の鍵
第一章『怠惰』
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第五話『この世でいちばん怠けたヤツ』-3

 みんなの声が聞こえてこくなると共に、踏みしめる地面の様相がだんだんと変わる。

 腰に負担を与えやすかったあのごつごつとした波打つ地面と打って変わり、定期的に研磨されているかのように、地面──というより、床は平らであった。空気も澄んでいる。自覚は無かったがやはり息が苦しくなっていたらしい……道を歩いている内に、先ほどまでと比べて視界と意識が明瞭になっていく。


 壁と壁の間がゆっくりと広くなっていく。

 青い光が揺れる。まるで湖の中を歩いているかのように、いつの間にか道の中は深い青の柔らかい光で満ち溢れていた。


「落ち着く光だね」


 フルフルが言う。

 沈黙に耐えかねたような声ではなかった。ただただ感じた心地よさを分かち合おうとするような、そんな声。だからわたしも感じたままを言葉にして返す。


「うん。懐かしい感じで、気持ちいいかも」

「そうか、懐かしいか──大罪の悪魔の光が懐かしいと、天国育ちの君がそう言うなんて……ふふ、すまない、なんだかおもしろくってね」


 そう言われてみれば妙だし、何だか不安になってくる。

 それでも……感じた。

 わたしはこの光を、きっと知っている。


「だが、この光はいずれ、この地獄を天国へ導く力になるかもしれないんだ。そう考えてみれば、きみが懐かしいと思うのは意外とおかしくはないのかもしれないね」

「そう、だよね。うん──絶対、がんばろう!」


 そう、覚悟を決めて声を上げたと共に、わたしたちは辿り着く。

 一段とひらけた空間。その中央にはこの光を放つ──ひとつの、翼。


 フルフルの顔を見上げると、向こうは既にわたしを見つめていた。

 わたしは頷く、フルフルも頷き返して、共に、進む。

 近付くほど光は眩しく、熱くなる。だというのに何故だろう? 目は眩まず、肌は焦げやしない。


 目の前に辿り着き、フルフルが翼に手を伸ばした。

 そして──掴み取る。

 光はゆっくりと弱まり、怠惰の翼はその全容を明らかにする。

 羽ではなく、まさしく翼であった。布団のようにふわりと……それで身を覆えば、気が付いた時には日が暮れていそうな、そんな翼である。

 それでも、これは紛れもなく怠惰の翼。


 怠惰の悪魔──ベルフェゴールの翼であると、そう、わたしには確信があった。


「それじゃあ、戻ろっか」


 達成感と高揚感がやっと引いてきたと共に、わたしは言い、来た道を戻ろうと歩き出す。

 けれど、フルフルの足音が聞こえてこない。

 フルフル? ──そう、名を呼び振り返る。



 ──フルフルの腕が、わたしの首を絞め上げた。



「あっ──ぐ、ぅ!?」


 そのままフルフルはその手をふるってわたしを投げる。

 床に手をつきながら、困惑のままに顔を上げると、視界にはフルフルの歪んだ……おぞましい程の笑みが映る。


「ハ」

「ハハ」

「ハハハ」

「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ──!」


 耳を痛ませるほどの高笑いが空間の中で響き渡る。

 フルフルはわたしに見せつけるようにしてその翼を掲げ、そして──


「アズマ、本当に感謝しているよ」


 そう、心から言うと共に、翼を自らの背に当てる。翼は再び青い光を放ち、そしてその光でフルフルを呑み込む。心地よかった光が、恐ろしく見えた。

 光が晴れ、現れるのは当然フルフル。だけれどその姿は、まるであの翼を王座にしているよう──翼に座るフルフルは足を組み、頬杖を突いて、本当……気分を良さそうにしてふんぞり返っている。


 分からない。分かり──たくなかった。


「フルフル……?」


 困惑の色に溢れたわたしの声を聴いて、フルフルはひとつ、あざけるように笑い声を零して、そしてわたしを翼の王座から見下ろして言う。


「結局、お前は利用されるだけの——まさしく、()()だった」

「なに……言ってるの?」


 何を、言っているんだ。本当に──何を。


 立ち上がり、歩み寄ろうとする。けれど、一枚の羽毛がはためき、わたしはまた吹き飛ばされて、そのまま壁にぶち当たる。

 フルフルは王座に歩かせて、わたしに迫り語り始める。


「初めからあんな愛だの善だの、そんなプランなんぞは実現する気なんて、さらさら無かったさ」


 それは懺悔(ざんげ)とは程遠い、誇るような言葉であった。


「本当は支援を貰って翼にたどり着くだけのつもりだったが──」


 フルフルはわたしの手首をつかみ、引きずり寄せて、眼と眼が触れ合うような距離で囁く。


「お前という、最高に都合の良い羅針盤がこの手に転がり落ちてきてた」


 もう、信じるとか、疑わないとか──そんな話ではなかった。

 むしろフルフルの語る言葉そのものを信じるというのなら──


「……どうして?」


 手首を掴む彼の手に、まだ自由な方の手を重ねようとする。けれど、フルフルはその手も、縛るように掴んだ。

 ──どうして。


「なんで、あんな、本当に善に近い……みんなが救われるかもしれないような方法を考えつけたのに、あと少しだったのに、なんで、どうして──そんな!」


 叫ぶわたしに、フルフルはなんの悪びれもなく言葉を返す。


「あんなもので統治者にならずとも、この翼があればわたしは最強だ。マモンは元々ゴエティア……そして翼を手に入れて今の地位にいる。なら当然、ゴエティアのわたしが翼を手にしたなら……なぁ?」


 フルフルはわたしを押して突き放して、両手を広げる。


「マモンに並ぶ支配者になれるわけだ。こんなに簡単にな、ただ腰を任せるだけでだ!」 


 広げた両手を掲げ、牙を根元まで見せて語る。


「没落した家名のなんぞのためにそれらしい振る舞いをする必要などもう無いんだよ!  人や悪魔共を積み重ねた肉のベッドのうえで惰眠を取っても構わない、何もせずとも金が舞い降りる。何もせずとも生きてける! 気が向いたなら能動的に悪を成していい! 悪を成しても、誰もわたしを罰せはしない!」


 その叫びを聞いて、湧き上がるのは動揺でもなく、悲しみでもない。

 絶望とも……また違う。

 言葉に出来ない、わたし自身の想いをそのまま言葉にする。


「あなたの語る未来はきっと……善だった。苦しみの少ない、喜びの多い……誰かを切り捨てないような理屈もあった。人に救いを与え、悪魔に利益を与えた。誰も見捨てようとしない言葉を頑張って並べる……そんな、出来る限りの最善。だからわたしは、そしてみんなは──! あなたに、ついて行った」


 フルフルはわたしを指さし、「その通り」と言ってから。


「あの書庫にね、中々良い本があってだね。それによれば他者を説得するにはパトスとエトスとロゴス、というものが必要らしい」


 フルフルは三本の指を伸ばして見せる。


「だから私は語った。感情的な救済(パトス)を、信頼に足る力と行い(エトス)を、論理性に溢れる利益(ロゴス)をだ」


 今度はすべての指を開いて、それをすべて自身に向けて見せる。


「そしてみんな、わたしについてきた。君という羅針盤の力もあって、無事、わたしはこの地獄の支配者になるのだよ!」


 心の中に渦巻く熱さ。身を焦がすような、激しい何かと共にわたしは叫ぶ。


「善への道を理解し、そしてそこから目を逸らし、自らの欲の実現のみに走るというのなら、それは、……それはっ——!」


It’s SLOTH(怠惰だ)


 フルフルはわたしの言葉を塗りつぶすように呟いた。


「怠惰の翼を手にしたわたしが、その罪を拒むわけがないだろう。ハハハハハ! 教えの下僕なお前が言うんなら間違いない! わたしは、わたしこそが怠惰の悪魔!」


 フルフルは王座から放つ無数の鋭い刃のような羽毛……その先を一斉にわたしに向ける。

 わたしの全身をその翼の断片が貫く──直前、フルフルは高らかに名乗り声を上げる。



「Call me──Belphegor」



 けれどわたしは、死ななかった。


「フルフル──!」


 その身を挺して刃を防いだふたつの人影。

 そのうちの、獣のように大きな影──バルバトスが怒りを叫びにして唸る。

 もう一方……カボチャの頭をわたしの方に振り向かせて、イシュマエルは言う


「アズマ。きみは、わたしとネフェリムの呪いの契約によって生きている。きみを生かすことこそが、契約の内容だ。ならば当然、死に瀕したのなら分かる」


 だからわたしはここにいる──そう言ってイシュマエルはベルフェゴールの方へ、その目の光を向けた。


「やはり、お前はアズマを裏切った。あまつさえ、殺そうとしていたな、いま、まさにだ」


 ベルフェゴールが何かを答えるよりもまえに、バルバトスは無数の視線全てでベルフェゴールを射貫く。


「ゆるさん──!」


 大きく踏み込み、そして王座の上であくびをするベルフェゴールに飛び掛かる。

 けれど──


「きみはもう粗大ゴミだよ。ハハ、わたしより弱い用心棒なぞいりゃせんからね?」


 顔面を、ベルフェゴールが突き出した足裏に押しつぶされるように蹴り飛ばされる。坂道を転がっているかのような勢いで平な床の上を滑っていくバルバトス。


「バルバトス、お前はアズマの身を守っていろ」


 そう言われる前にバルバトスは身を起こし、わたしを抱き上げ壁に背を当てていた。イシュマエルはそんな様子を一度だけ見て、そして、頭に被ったジャックオーランタンを両手で掴む。


「いまのわたしが、どこまでやれるか——分からないが」


 そう言いながら、その重たそうなカボチャをゆっくりと持ち上げる。


「堕ちても、わたしはやはり──そばにいることにした人間を、守ろうとしてしまうらしいな」


 カボチャが床に転がる。ひかりが、あふれる。

 コートとシャツを脱ぎ去る。ひかりが、あふれる。背には大きなふたつの傷が見えた。

 手袋を外す。そうするとやはり、ひかりがあふれる。

 あふれ出すひかりは真っ暗いヘイローに呑まれる。ヘイローはあたたかな、そう──わたしにとっては()()()()()()()()、そう言えるひかりを放つ。


 揺れる白銀の柔らかな髪。放つ光は反射光なのか、それともそのものが放つ光か、分からない。

 けれども、分かる。

 これだけは、分かる。

 わたしはその姿を知っている。

 そしてわたしは、零すように呟いた。


「──天使」

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