第2話 6月8日 月曜日②
僕はその理髪店を横目に歩きはじめた。
窓越しからでも店主が誰かの髪を切っているのがわかった。
店のガラス窓には営業時間と定休日、それに「HAIR SALON」という斜めに傾いているステッカーが縦に七列で貼ってある。
ステッカーが壁になっていて店のなかはあまり見えない。
あのステッカーは客のプライバシーを考えてなのかもしれない。
あるいはむかしああいうふうにステッカーを斜めに貼るのが流行っていたのかも。
客用玄関の左横には「赤」がトレードマークの有名飲料メーカーの自動販売機が置いてある。
店の手伝いをしている店主の奥さんがその自動販売機でコーヒーを一本買って店内に戻っていった。
店主は壁掛に掛けてある薄型の液晶テレビを観ながら、客と会話をしつつ髪を切っている。
これもあくまで僕がステッカーのあいだから見た光景であって僕が通っていたころの思い出と重ねた結果だ。
今、じっさいに店主が薄型の液晶テレビを観ながらお客と会話しながら髪を切っているのかはわからない。
僕が小学生のころも髪を切り終えたあとにあの奥さんから自販で買ったジュースをもらっていたっけ。
髪を切ったお客は大人、子ども関係なくジュースがもらえる。
よくできたサービスで子どもの僕は完全に虜になってしまっていた。
夏場は冷たい炭酸飲料で冬は温かい飲み物を選んでくれた。
冬場は髪を切ってスースーしているうなじにホットのミルクコーヒーを押し当てて首筋を暖めたりもした。
そうやって母さんが車で店まで迎えにきてくれるのを店のなかで待った。
今じゃ自動販売機でジュースを買うこともめっきりなくなった。
なにせ小銭を用意するのも面倒だし自動販売機の飲み物は定価だから高い。
支払い方法だってコンビニならキャッシュレスを選ぶから「ピッ」で終わる。
このS町でもそんな電子マネーが使える最新の自動販売機は道の駅のところにしかない。
寂れたアパートから十メートルほど離れた場所では新旧対決のように新しいアパートの建設工事の真っ最中。
工事が始まって間もないというのに完成したときの設備一覧が金網フェンスに仰々しく載っていた。
光回線、乾燥機、シャワートイレそれにクーラーまで完備してるらしい。
S町にしてはらしくないアパート設備だ。
僕の住むS町は数年前に珍しい化石の発見で脚光を浴びることになったけど、それまではとくにこれといった特徴のない町だった。
ほんとにここ数年でガラリと変わった印象だ。
過疎化が進んでいるのは間違いないけど他の市町村からの転入者も多い。
家族単位で引っ越してしてくる人も多いらしい。
S町のWebを見れば月ごとの「人口」と「世帯数」の増減がわかる。
当たり前だけれど三月は「人口」と「世帯数」のマイナスが多い。
かくゆう僕も来年、正確には来年度このS町をでていく予定だった。
でも、それは今、現在未定になっている。
だから最近はS町の人口の増減も調べていない。
校舎を囲んでいる植木壁の横を歩いていると今度は何年か前に夜逃げしたという個人経営の居酒屋の空き店舗が見えてきた。
夜逃げした店舗はなぜか窓ガラスがなくなっていて、壁もところどころ剥がれ落ちている。
僕の夜逃げのイメージといえば町の人がみんなが寝ているときに、誰にも見つからないように荷物をまとめて家族全員で町をでて行くことだ。
それがなぜ数年で窓ガラスがなくなるのだろう? 窓の端のほうのガラスも細かくギザギザに割れていて、割れたというより割られたに近い気がする。
それでも人が住んでいないから一度割れた窓はそのままだ。
風見鶏の矢印のようなアンテナと丸いBSアンテナもぽっきりと折れていて屋根からぶら下がっている。
最近は台風も多いし強風の日も多いからこんなこともあるか。
自然災害ならしょうがない。
でもボコボコと壁に穴が開いているのはどうしてだろう? バットのさきかなんかが外壁に当たればこんなふうな跡になりそうだ。
復旧する人がいるから直る。
止まった電気もガスも水道も、それぞれ電気屋、ガス屋、水道屋が修復しにいくから元通りになるんだ。
勝手に直るわけじゃない。
そんなことにあらためて気づく。
誰もいない非日常的な居酒屋の空き店舗を通り過ぎるとまた日常の風景が戻ってきた。
あんなふうに食べ物を提供できなくなった店がある一方、ここ最近S町では中華料理、寿司屋、まさかのイタリア料理の新規出店まであった。
この場には似つかわしくない「家賃7万5000円~」という最新アパートの案内看板が廃墟の居酒屋の斜め向かいの角に立っている。
工事がはじまったばかりだというのにもう入居者募集の案内だ。
こういうことはなんでも早いほうがいいのかもしれない。
S町でこの値段は場違いに思えるけどそうでもないのかな? 僕は見慣れたその風景の中で左の道路の一区画に向き直した。
そこにも時代錯誤な教員住宅がある。
この集合住宅たちもホラー看板のアパートと同世代だろう。
毎度ながらS町に赴任してくる先生たちはツイてないと思う。
いつだったか担任の水木先生は家の風呂をガスで沸かすと言っていた。
だから家で浴槽に入ることはなく車を十分ほどの走らせた隣町のM町のスーパー銭湯にいくらしい。
そうS町から車で十分も走ればスーパー銭湯がある。
スーパー銭湯が人気なのはもちろんだけれど、そこの駐車場にはいつもキャンピングカーが停まっている。
広大な北海道を周っている人なのかな?
スーパー銭湯とキャンピングカーなら相性はいいだろう。
スーパー銭湯にはコインランドリーもあるそうだし、数日間の滞在ならなんの問題もない。
S町でも四月のはじめに町の中央にコインランドリーがオープンした。
そのコインランドリーは町外れで建設会社をやっている人が経営しているらしかった。
S町でコインランドリーを使う人なんているのかな?と疑問に思ったけれど洗濯機を持たないひとり暮らしの人が意外と利用しているみたいだ。
今は自宅外の風呂と自宅外の洗濯に需要があるのかもしれない。
僕もときどきそのコインランドリーの前を通ることがある。
中には大きな洗濯機が七、八台くらい置いてあって消毒や両替機なんかが置いてある。
コインランドリーはさすがにキャシュレスには対応していない。
壁際の台座には緑色の公衆電話もあったはずだ。
待合室ではいつも誰かが長イスに座っていて漫画を読んだりスマホをいじったりしている。
スマホがあれば時間なんていくらでも潰せる。
まあ、ないならないでどうにかなるけれど……。
僕は教員住宅のある一画を横目にそのまま直進して一般住宅だけの道を一、二分ほど歩いた。
やがて十字の交差点が見えてきた。