第9章 天空の境界線
◆◆◆
シーン1
児島港から瀬戸大橋へと向かう早朝の路線バスは、天空から降り注ぐ峻烈な朝の陽光をその車体に浴びながら、低いエンジン音を響かせてゆっくりと坂道を這い登っていた。
車窓の外には、朝光を受けて白銀の鏡のように眩く明滅する広大な瀬戸内海と、その穏やかな海面の上にどこまでも長く、重厚に伸びていく、あの巨大な橋梁の幾何学的な影が、冷徹なコントラストを描きながら重なり合っている。
ミオさんはすぐ隣の座席で、お父さんから魂のバトンとして託されたあの布張りのノートを、自らの愛おしい膝の上に置いたまま、時折何かを確かめるように、静かに、厳かにページをめくっていた。
私は、ただ硝子窓の向こうの景色を見つめ続けることしかできない。……私の左胸の奥底は、島を離れた瞬間から、引き裂かれるような激しいざわめきに支配されていた。
──瀬戸大橋。
かつて、一人の完成された編集者として誇り高く生きていた僕が、あの決定的な事件によってすべての言葉を失ったあの日。……僕という人間の魂が、二度と元の場所へと“戻れなくなってしまった、呪われた精神の境界線”。
ミオさんは、私のその硝子窓に映るプロフィールの尋常ではない強張りに気づいたのか、小さな、しかし極めて通る聲音でそっと問いかけてきた。
「……青井さん、顔色がすごく悪いです。……大丈夫ですか」
私は、彼女を安心させるためのありきたりな活字を、自らの脳内で必死に編み上げようとした。……けれど、その瞬間に、僕の喉の奥で冷徹な鉄の鎖がギリギリと音を立てて巻き付き、意味のある音声が完全に停止してしまった。
ミオさんは、僕のそのあまりにも深い、拒絶のような沈黙の本質を鋭く察知し、それ以上追及することなく、そっと長い睫毛の奥の視線を落とした。
「無理に今、すべてを話そうとしなくていいんです、青井さん。……でもね、あなたがその完璧な編集者の仮面の裏で、一体どんなに深い暗闇を抱えて沈黙しているのか……その本当の理由を、いつか、私にだけは聞かせてほしい」
左胸の最深部が、ナイフで抉られたように鋭く痛んだ。
──聞かせたい。他の誰でもない、僕の言葉をずっと聴いていてくれたミオさんにだけは、僕の薄汚い過去のすべてを打ち明けたい。
──けれど、あの日の恐怖が、言葉の呪いが、どうしても僕の口唇を歪ませて、声にすることを許さないんだ。
その激しい文学的な葛藤が、僕の体内で満ち潮の濁流のように幾重にも押し寄せては、僕の精神の防波堤を激しく削り取っていく。
バスが本格的に橋の導入路へと差し掛かったその瞬間、車窓の視界いっぱいに、天を突くほどに巨大な鋼鉄のトラス骨組みが、圧倒的な威容を持って迫り上がってきた。
等間隔に配置された巨大な鉄骨の影が、走るバスの車内へと交互に差し込み、僕たちの身体の上に、鋭利な光と影のストライプを規則正しく描き出す。その冷徹な建造物の姿は、僕にとっては、自らの過去を監禁し続けている“巨大な牢獄の檻”そのもののようにも見えた。
ミオさんは、その窓外の鉄の巨塔を見つめながら、どこか遠い追憶に耽るように言った。
「……私のお父さんは、この巨大な橋の上を、毎日、毎日自分の足で歩いていたんですよね」
「……うん」
私は、喉の奥の鎖を必死に軋ませながら、かすれた声を絞り出した。
「……線路や、ボルトの……点検のためにね」
「本当に、すごいことですよね」
ミオさんは、窓硝子に指先を添えた。
「こんなにも圧倒的で、世界を繋ぐための巨大なインフラを……たった一人の人間の、泥臭い手作業の言葉で守り続けていたなんて」
私は無言で深く頷き返した。……けれど、僕の胸の奥底では、ミオさんのお父さんの誇り高い記憶とは全く別の、ドス黒い凄惨な記憶の傷口が、生々しい血の匂いを伴って静かに疼き狂っていた。
──あの日。
僕が全精力を傾けて伴走していた、あの将来を嘱望されていたはずの担当作家が、突然、世界の果てへと姿を消した日。
冷房の効きすぎた編集部の会議室で、上層部やメディアの人間たちからの容赦のない罵声の弾丸を浴びせられながら、僕は……一文字の反論の活字すら紡げず、完全に自らの言葉を失ったのだ。
ミオさんは、僕のその眼鏡の奥の、激しく恐怖に歪んだ表情の文脈を完璧に読み解き、そっと、僕の座席の袖へと手を伸ばした。
「……青井さん。……ここに来るのが、本当は、狂おしいほどに怖いのですか」
私は、思わず小さく息を呑んだ。
怖い。生きたまま自らの皮膚を剥がされるよりも、この場所に留まることが恐ろしい。
けれど──それでもなお、ここで引き返して、あの他者の原稿を整えるだけの抜け殻の人生に逆戻りすることだけは、もう絶対に嫌だった。逃げたくは、ない。
ミオさんは、僕のその瞳の奥の小さな覚悟を見逃さず、力強い聲音で続けた。
「大丈夫です、青井さん。……今のあなたには、もう、孤独な沈黙に怯える必要なんてどこにもありません。……私が、ここにいますから」
その彼女の放った能動的な赦しのレトリックは、僕の胸の奥底の、最も頑強だった沈黙の防波堤へと、音もなく優しく触れてきた。
バスが瀬戸大橋のちょうど中央、海上の最も高いトラスを駆け抜けた瞬間、車窓の視界は一気に開け、遮るもののない広大な瀬戸内海が、世界のすべてを塗り替えるように広がった。
天空からの直射日光が波頭に乱反射し、それはまるで、二人の未来の航路を祝福する「白銀の道」のように美しく発光している。
ミオさんはそのまばゆい光の帯を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……あの嵐の夜の湊も、死ぬ間際に、この光と同じものを見たのでしょうか」
私は、彼女のその問いに対して、今度は迷わずに、自らの本物の声を滑らかに響かせることができた。
「……見たと思うよ。湊は、暗黒の海の向こうに澪の流したあの灯籠の火を見つけたとき、この白銀の道と同じように、それこそが自分たちの“本当の帰り道”だって、魂の底から信じたんだ」
ミオさんは、眼鏡の奥の大きな瞳を嬉しそうに細め、小さく頷いた。
「……青井さん。……あなたの人生のなかに隠されている、あの失われた言葉の“帰り道”も、この広大な海のどこかに、きっと、絶対にあります」
私の左胸の最深部が、かつてないほどの巨大な波動に打たれて、激しく、狂おしく打ち震えた。
──僕の本当の帰り道。僕が他者の編集者ではなく、僕自身の本当の言葉を取り戻して、人間として帰るべき場所。
ミオさんは、その華奢な身体を完全に僕の方へと向け直し、まっすぐに僕の瞳を射抜いた。
「一緒に探しましょう、青井さん。……他のみんながあなたを責めても、私は絶対に諦めない。あなたの言葉が、本当にあるべき場所へと帰るその瞬間を、私が隣で、ずっと一緒に作り出すから」
その瞬間、僕の胸の奥底を何年もの間支配し続けていた、あの冷酷な「最後の沈黙」の氷壁が、ピキリと音を立てて、ほんの少しだけ揺れ動いたのを感じた。
バスは巨大な橋を完全に渡り切り、急カーブを描きながら、瀬戸内の洋上に浮かぶ孤島・与島の展望台へと向かって速度を落としていく。
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように深く、深く息を吸い込んだ。
──ここで。このお父さんの聖域であった与島の大地で、僕は、自らの人生を呪い続けてきた“最後の沈黙”と、真っ向から対峙する。
激しさを増していく満ち潮の重厚な波音が、僕の覚悟を急かすように、胸の奥底でいつまでも静かに、熱く響き渡り続けていた。
◆◆◆
シーン2
古びた路線バスの降車口を降りると、与島の展望台には、初夏の張り詰めた朝の陽光が世界のすべてを祝福するように満ちあふれていた。
頭上には、瀬戸大橋の圧倒的な鋼鉄のアーチが、まるで天空を支える巨人の背骨のように巨大な放物線を描いて広がっており、その真下に広がる内海は、目が眩むほどに白い銀色の輝きを放ちながら波打っている。
ミオさんは、展望台の吹きさらしの潮風に自らの長い髪を激しく揺らされながら、その眼鏡の奥の大きな瞳で、天を突く鋼鉄のトラスを見上げた。
「……間近で見ると、やっぱり、言葉を失うほどに凄い建造物ですね。……私を置いていってしまったあのお父さんが、毎日この過酷な場所を歩いて世界を守っていたなんて、未だにちょっと、信じられない気持ちです」
私は、彼女のすぐ隣で無言のまま深く頷き返した。……けれど、僕の左胸の最深部では、そのインクのような潮の匂いに誘発されるようにして、あの忌まわしい過去の記憶の傷口が、生々しく疼き狂っていたのだ。
──あの日。
冷房の効きすぎた編集部の、あの窓のない無機質な会議室。
僕が我が子のように大切に育て、共に文学の頂点を目指していたはずの担当作家の突然の失踪。
机を激しく叩きつけながら、僕の顔面に書類を投げつけてきた上司たちの、あの「お前の傲慢なレトリックが、あいつを追い詰めて殺したんだ」「お前の責任だ」という、魂を呪い殺すための冷酷な罵声の残響──。
ミオさんは、僕のその完全に呼吸を忘れたかのような、強張った沈黙の異常性にすぐさま気づいたようだった。
「青井さん……? また、あの会議室の幽霊が、あなたを苛んでいるの?」
私は、自らのドス黒い内面を誤魔化すようにして、慌てて眼鏡のブリッジを指先で直しながら、視線を白銀に輝く海原のほうへと逸らした。
峻烈な潮風が僕たちの白い頬を優しく撫で通り、満ち満ちた朝の波頭が、淡い黄金色の輝きを放ちながらドラマチックに寄せては返している。……けれど、僕の左胸の奥底にこびりついた、あの鉄の錆びたような痛みだけは、どれだけ風に晒しても、一ミリも消え去ってはくれなかった。
ミオさんは、そんな僕の怯えを置き去りにすることなく、そっと自らの歩みを進め、僕の身体が触れ合うほどのすぐ隣の境界線へと立ってくれた。
「……青井さん。……ここに来るの、やっぱり、身体が引き裂かれるくらいに苦しいですか」
私は、自らの喉の奥で暴れる活字の奔流を、全身の肋骨を軋ませながら必死に制御し、生まれて初めて、元編集者としての完璧な防波堤の裏に隠れることなく、かすれた本物の声を彼女へと絞り出した。
「……うん、ほんの……少しだけ、ね。……苦しいよ、ミオさん」
口唇から漏れ出たのは、わずかそれだけの一言だった。掠れていて、今にも与島の強烈な潮風にかき消されそうな、情けないほどにか弱い響き。
けれど、その一言は、他ならぬ僕という人間の魂の最深部から、元編集者としてのプライドをすべて投げ捨てて滑り出てきた、驚くほどに素直な“僕自身の本物の言葉”だった。
ミオさんは、僕のその小さな決壊を全身で受け止めると、世界で最も美しい、最高の伴走者としての微笑みを浮かべてみせた。
「少しだけ、でいいんです、青井さん。……今すぐ、あなたの過去のすべてを綺麗に言語化してくれなんて、私はこれっぽっちも望んでいません」
彼女は、まっすぐに僕の瞳を見つめ直した。
「全部じゃなくていい。一度にたくさんじゃなくていいの。……少しずつ、あなたの心が窒息しない速度でいいから……あなたのなかに眠っている、本当の言葉を、私に聴かせてください」
胸の奥底の暗闇が、彼女の圧倒的な優しさによって、まるで氷解していくように激しく揺れ動いた。
──聴かせたい。僕の言葉を失った本当の醜悪な理由を、すべて彼女に打ち明けて、この長い沈黙の刑期を終わらせたい。
──けれど、まだ、あの日の罵声の恐怖が、僕の喉元で冷たいブレーキをかけるんだ。
その表現者としての激しい葛藤が、与島の岸壁を激しく叩きながらどこまでも高く満ち満ちていく、あの重厚な満潮の抱擁のように、僕の空っぽだった胸の最深部へと押し寄せてくる。
私は、自らの身体の震えを支えるようにして、展望台の古びた手すりの上へと両手を置いた。塩害でところどころ塗装の剥げかけた、冷たい金属の無機質な感触が、指先を通じて僕の脳髄へとダイレクトに伝わってくる。
ミオさんは、その僕の手の上に、自らの温かい掌を重ねることはせず、ただ同じように手すりに手をかけながら、雄大な橋のシルエットを見上げて言った。
「私のお父さんはね……かつてこの橋の上で、よく私に向かって自慢げに言っていたの。……“ミオ、よく耳を澄ましてごらん。この鋼鉄をすり抜けていく激しい風の音はね、この巨大な橋が、世界を繋ぎ止めるために必死に繰り返している、本当の呼吸の音なんだよ”って」
私は、そのミオさんのお父さんが遺したという、圧倒的な文学的情緒を孕んだレトリックを耳にした瞬間、自らの左胸の最深部が、言葉にならないほどの感動で静かに、激しく震えるのを感じていた。
──呼吸。……鋼鉄の橋でさえ、世界を繋ぐために必死に息をしているというのに。
──僕は一体、いつから、自らの言葉を使って本当の呼吸をすることを、忘れてしまっていたのだろう。
ミオさんは、僕のその眼鏡の奥の覚醒を見届けるようにして、さらに言葉を繋いだ。
「青井さん。……あなたが何年もの間、あの完璧な沈黙のなかに自らを閉じ込めてきたのも……私はね、きっと、あなたの魂がこれ以上壊れないために必死に繰り返してきた、大切な“深呼吸”の時間だったんだと思います」
私は、彼女の放ったあまりにも想定外の、能動的な救済の解釈に、思わず弾かれたようにミオさんの顔を見た。
ミオさんは、少しも怯むことなく、まっすぐに僕の瞳を見つめ返した。
「言葉が出なくなってしまったのはね、青井さん。あなたが人間として壊れてしまったからなんかじゃ、決してありません。……あなたが、自分の言葉の持つ本当の重さを知っていて、それでもなお、この残酷な世界のなかで、誰かを傷つけずに、ちゃんと誠実に生きようとしてきた、何よりの美しい証拠なのよ」
左胸の奥底が、今までにないほどの熱量で激しく燃え上がり、僕の眼鏡の奥の視界は、大粒の涙によってみるみるうちに歪み、激しく滲んでいった。
──生きようとしてきた、誠実な証拠。
他者から「お前のせいで作家が死んだ」と呪われ続け、自分自身を世界で最も醜悪な犯罪者のように蔑んできた僕の沈黙を、そんなふうに、完璧な優しさで全肯定してくれた人間は、これまでの人生で、彼女ただ一人しかいなかった。
ミオさんは、再び手すりの向こうに広がる、白銀に光り輝く瀬戸内の海原へと視線を戻した。
「青井さん。……だから、もう自分を責めるのはおしまいにしましょう。あなたがその長い深呼吸を終えて、自らの沈黙の理由をすべて語り合えるときを……私は、ここでいつまでも、ずっと信じて待っていますから」
私は自らの肺腑のすべてを入れ替えるように冷たい大気を深く吸い込んだ。喉の奥で暴れる活字の奔流が、肋骨を内側から突き破らんばかりの熱量を持って一気にせり上がってくる。
言葉が、あとほんの少しのレトリックがあれば、今度こそすべて、声となって溢れ出してきそうだった。
けれど──それでもなお、過去の凄惨な挫折の恐怖が最後のブレーキをかけ、この場所ではまだ、完全な声にはならなかった。
ミオさんは、そんな僕の口唇の細かな震えをすべて見届けると、世界で最も美しい、最高の理解者としての微笑みを浮かべた。その彼女の笑みは、激しい涙のあとにひっそりと咲いた、世界で唯一の、僕のためだけの小さな光の灯台のようだった。
「大丈夫です、青井さん。……無理に今じゃなくていいの。……言葉はね、あの沙弥島の満ち潮と同じように、正しいときが来れば、自然とあなたの元へ戻ってくるものですから」
その彼女の放った能動的な始まりの活字は、僕の胸の奥底に未だ冷酷に居座り続けていた“最後の沈黙”の牙城へと、静かに、しかし決定的な亀裂を穿つようにして染み渡っていった。
天空からの直射日光を浴びて、瀬戸内の海面が一面に白銀の光を放って激しく明滅し、巨大な鋼鉄の橋の影が、満ち潮の波頭に揺られてゆっくりと、ドラマチックに形を変えていく。
私は、自らの涙を拭うことも忘れたまま、深く、深く息を吸い込んだ。
──もうすぐだ。……彼女が隣にいてくれるなら、僕はもうすぐ、あの暗黒の会議室のすべてを、僕自身の言葉で言える。
沙弥島の岸壁を激しく叩きながらどこまでも高く満ち満ちていく、あの重厚な満潮の抱擁のように、僕の失われた本当の言葉が帰るための潮の音が、胸の最深部で静かに、しかし圧倒的な音を立てて響き渡り続けていたのだった。
◆◆◆
シーン3
与島の展望台のコンクリートをあとにした僕たちは、あの天空を跨ぐ巨大な鉄骨の胎内──瀬戸大橋の管理用歩道へと、一歩一歩導かれるようにして足を踏み入れていた。
初夏の鮮烈な朝の陽光が、頭上を縦横に走る鋼鉄のトラスに反射して、まるで見渡す限りの白い幾何学的な光の線となって、僕たちの視界を眩く射抜いている。
眼下には、瀬戸内の広大な海原がどこまでも残酷なまでの青さを湛えて広がっており、遮るもののない洋上からは、狂おしいほどの質量を持った峻烈な潮風が、絶え間なく僕たちの身体を吹き抜けていった。
ミオさんは、あのお父さんの魂のノートを自らの胸元へと愛おしそうに抱きしめたまま、巨大な懸垂曲線の描く橋の中央へ向かって、迷いのない足取りでまっすぐに歩みを進めていく。
その光のなかを毅然と進む彼女の背中は、お父さんの失踪の幻影に怯えていたあの丸亀港のときよりも、ずっと、ずっと強く、気高く見えた。
私は、そんな彼女のほんの数歩「後ろ」を、まるで光に引き寄せられる影のように追うことしかできない。
他者の原稿を整えるだけの“安全な一歩下がった編集者”へと逆戻りしていくかのような、その自らの身体のスタンスに対して、私の左胸の奥底は、引き裂かれるような激しいざわめきを上げ始めていた。
──ここだ。この巨大なインフラの頂点こそが、僕の言葉を完璧に奪い去り、何年もの間、生殺しの沈黙のなかに僕を監禁し続けている、呪われた精神の境界線。
トラスの支柱が描く巨大な影が、歩を進めるごとに僕の身体を冷徹に通り過ぎ、そのたびに胸の奥底の沈黙の石碑が、耐え難いほどの重量を増して僕の肺を圧迫していく。
そのとき、前を歩いていたミオさんが、ふと導線の上で足を止め、長い髪を風になびかせながら、僕の方へとその身体を優しく振り返った。
「青井さん」
彼女の放った声音は、トラスをきしませる轟々たる潮風の唸りのなかでも、驚くほどクリアな輪郭を持って、僕の鼓膜へと真っ直ぐに届いた。
「ここまで……私の勝手な旅の我が儘に付き合って、この過酷な場所まで一緒に来てくれて……本当に、本当にありがとうございます」
私は、その彼女のあまりにも純粋な感謝の質量を前にして、ハッと息を呑んだ。
ミオさんは、眼鏡の奥の大きな瞳を柔らかく細めながら言葉を繋いだ。
「お父さんが毎日、命を懸けて守り続けていたこの広大な場所をね……いま、他の誰でもない、あなたという最高の伴走者と一緒に歩けていることが……私、今、魂の底から嬉しいの」
左胸の最深部が、まるで強烈な波動に打たれたかのように、激しく、狂おしく打ち震えた。
──嬉しい。この他者の言葉を盗むことしかできない抜け殻のような僕と、この美しい世界を共有できていることが、嬉しいと言ってくれたんだ。
その彼女の紡いだ究極の肯定の統語法が、僕の頑なだった沈黙の氷壁の最深部へと、音もなく、優しく染み込んでいく。
ミオさんは、遥か彼方に位置する橋の最中央部──水平線と天空が交わるその青い境界線を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「青井さん。……私ね、この沙弥島からの旅路の間、本当は、心の底からずっと強く願っていたことがあるのよ」
私は、喉の奥の鉄の鎖をギリギリと軋ませながら、自らの呼吸を止めて彼女の次の言葉を待った。ミオさんは、一文字一文字を僕の魂に刻み込むように、ゆっくりと続けた。
「あなたに……あの丸亀港で出会ったときからずっと、あなた自身の本当の『言葉』を取り戻してほしいって……ずっと、そう願っていたの」
私の胸の最深部が、抑えきれないほどの体温で激しく熱くなった。
ミオさんは、僕のその強張った表情を見ると、ふと申し訳なさそうに視線を足元のグレーチングへと落とし、布張りのノートを抱える自らの白い指先を、ぎゅっと、痛いほどに握りしめた。
「でもね……それは私の勝手なエゴの押し付けで、過去の挫折に苦しんでいるあなたを、もっと酷く追い詰めてしまうかもしれないって思ったら……怖くて、今の今まで、どうしても言葉にできなかったの」
私は、その彼女のあまりにも健気な、表現者としての葛藤のレトリックを前にして、気づけば自らの意志で、一歩、彼女のいる光の境界線のなかへと足を踏み出していた。
ミオさんが、ハッとしたように顔を上げた。
その眼鏡の奥の大きな瞳は、朝の直射日光を浴びていまにも溢れ出しそうな涙の気配を含んでいたけれど、そこにある意志の輝きは、どこまでも真っ直ぐに僕を射抜いていた。
「青井さん。……あなたの本当の言葉が……あなたの、あの優しくて力強い声が、私、もう一度どうしても聴きたいのよ」
胸の奥底を何年もの間縛り付け、心を窒息させていた冷たい鉄の鎖が、その彼女の剥き出しのレトリックによって、劇的に、音を立てて激しく揺れ動いた。
──聴きたい。僕の、あの薄汚い過去の沈黙ではなく、僕自身の本当の活字を聴きたいと、彼女が叫んでいる。
ミオさんは、さらに僕との距離を詰めるようにして言葉を繋いだ。
「あなたが何年もの間、その完璧な沈黙のなかに隠し続けている本当の理由も、あなたの左胸の奥底で燻り続けているその生々しい痛みも……。今すぐ、その全部を綺麗に言語化してくれなんて言わない。……ほんの少しでいいの。ほんの一文字、一筋の吐息だけでいいから……あなたのその重すぎる言葉のバトンを、私という器に、どうか預けてはくれないかしら」
強い潮風がヒュウと吹き抜け、瀬戸大橋の巨大な鋼鉄のトラスが、まるで巨大な弦楽器の地鳴りのように、低く、重厚に唸り声を上げた。
私は、自らの喉の奥に、かつてないほどの激しいマグマのような熱量がせり上がってくるのを肉体的に感じていた。
言葉が、元編集者としての仮面を剥ぎ取られた、僕自身の本物の活字が、もうすぐ、そこまで、口唇の裏側まで溢れ出してきそうだった。
けれど──それでもなお、過去の凄惨な呪いのブレーキが、あと一歩のところで僕の音声を拒絶し、まだ完全な声にはならなかった。
しかし、ミオさんは、僕のその見苦しい沈黙を決して責めるようなことはしなかった。
ただ、すべてを包み込むように、あの一筋の満ち潮の夜の「灯籠の火」のように、そっと優しく、慈しむように微笑みかけてくれたのだ。
「大丈夫よ、青井さん。……焦る必要なんて、どこにもないわ。……あなたの本当の言葉は……もうすぐ、必ず私たちの元へと戻ってきますから」
その瞬間、僕の胸の奥底に冷酷に居座り続けていた“最後の沈黙”の城壁が、劇的な音を立てて大きく、激しく、崩壊を始めていた。
天空からの直射日光を浴びて、瀬戸内の広大な海面が一面に白銀の光を放って激しく明滅し、巨大な橋のシルエットが、満ち潮の波頭に揺られてゆっくりと形を変えていく。
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように深く、深く息を吸い込んだ。
──もうすぐだ。……彼女が隣にいてくれるなら、僕はもうすぐ、あの暗黒の会議室のすべてを、僕自身の言葉で言える。
防波堤を叩くように激しさを増していく満ち潮の重厚な波音が、僕のなかに残された最後の沈黙を押し流すように、胸の最深部でいつまでも静かに、熱く響き渡り続けていたのだった。
◆◆◆
シーン4
瀬戸大橋の最も海抜の高い中央部を越えた瞬間、僕たちの身体を襲う洋上からの強風は、それまでとは比較にならないほどに一段と激しさを増していった。
巨大な鋼鉄のトラスの幾何学的な隙間を吹き抜ける峻烈な風が、まるで巨大なインフラが世界を繋ぎ止めるために吐き出す、低く重厚な唸り声(呼吸)となって轟いており、潮の生々しい匂いをたっぷりと孕みながら、僕たちの白い頬を容赦なく叩きつけていく。
ミオさんは、錆びた潮風にさらされた古い手の手すりの上へと両手を置き、その眼鏡の奥の大きな瞳で、どこまでも広がる遥かなる水平線の彼方を見つめ続けていた。
「……ここがね、青井さん。私のお父さんが、この旅のなかで一番、狂おしいほどに愛していた場所なのよ」
私は、そんな彼女のすぐ隣へと並び立ち、彼女と同じように、白銀の陽光が一面に乱反射する広大な海原のほうへと視線を向けた。
海は、どこまでも、世界の果てまで青く広がっており、反射した朝の光が、まるで二人の未来の航路を祝福する「白い光の道」のように真っ直ぐに伸びている。
ミオさんは、自らの長い髪を風になびかせながら、どこか遠い追憶を語るようにして言葉を繋いだ。
「お父さんはね、私によく言っていたわ。……“ミオ、この巨大な橋の上というのはね、人間が勝手に作り出した『過去』という名の重い記憶と、これから私たちが刻むべき『未来』という名の白紙の、ちょうど決定的な境目なんだよ”って」
私の左胸の最深部が、そのミオさんのお父さんが遺したという、あまりにも強靭な文学的レトリックを前にして、静かに、激しく揺れ動いた。
──過去と未来の、境目。
その言葉の放つ驚異的な活字の質量は、まさに、何年もの間過去の幽霊に監禁され続けていた僕の、この失語症の「核心」を、正確に射抜く響きを持っていたからだ。
ミオさんが、ゆっくりとその華奢な身体を僕の方へと向け直した。
「青井さん。……あなたという表現者のなかにも……今、まさに越えようとしている、決定的な『境目』が存在しているのよね」
私は、その彼女のあまりにも鋭い精神の解読を前にして、思わずハッと息を呑んだ。
──ある。確かにある。僕のなかには、あの日の事件を境にして、世界が完全に暗黒へと塗り潰されてしまった、残酷な境界線が厳然と存在している。
けれど、その境界線の向こう側に隠されている薄汚い挫折の真実を、いざ自らの口唇を使って言葉にすることは、元編集者としてのプライドが邪魔をして、どうしても、狂おしいほどに怖かったのだ。
ミオさんは、僕のその眼鏡の奥の怯えをすべて見透かしながらも、決して僕を責めるようなことはせず、優しく言葉を繋いだ。
「今すぐ無理に言わなくていいんです、青井さん。……でもね、あなたがその長い深呼吸を終えて、自らの言葉を“言おうとするその決定的な瞬間”を……私は、一人の対等なバディとして、あなたの隣でちゃんと、完璧に受け止めたいの」
私の空っぽだった左胸の奥底が、まるで人間の生々しい体温を注がれたかのように、じわじわと、圧倒的な熱量を持って熱くなっていった。
ミオさんは、冷たい手すりに指先を触れさせたまま、どこまでも静かに、しかし決意に満ちた聲音で言った。
「青井さん。……あなたが、あの丸亀港で完璧な沈黙の防波堤を築いて失語してしまったその本当の理由……。私ね、この島々を巡る旅の間、ずっと、狂おしいほどに気になっていたのよ」
私は、思わず自らの視線を足元のグレーチングの上へと落とした。喉の奥の鉄の鎖が、まるで見えない力でギリギリと締め付けられるようにして、呼吸を苦しくさせていく。
──あの日。
冷房の効きすぎた、あの無機質な編集部の会議室。
僕が全精力を傾けて伴走していたはずの、あの担当作家の突然の失踪事件。
そして、机を激しく叩きつけながら、僕の顔面に書類を投げつけてきた上司たちの、あの「お前の傲慢なレトリックが、あいつを追い詰めて殺したんだ」「お前の責任だ」という、魂を呪い殺すための冷酷な罵声の残響──。
けれど、ミオさんは僕のその拒絶のような沈黙に対しても、ただの一度も声を荒げることはしなかった。
彼女は、そっと僕との物理的な距離を詰めるようにして隣に近づくと、囁くような優しいトーンで僕に告げたのだ。
「怖いですよね、青井さん。……あの過去の惨めな記憶を、自らの本当の言葉にして世界に解き放ってしまったら……あの日のすべての恐怖と痛みが、もう一度肉体を持って、あなたの元へと戻ってきてしまう気がして……だから、怖いんですよね」
私は、その彼女のあまりにも完璧な「痛みの同調」に対して、驚愕して弾かれたようにミオさんの顔を見つめた。
ミオさんは、私のその眼鏡の奥の涙を見つめながら、今日一番の、柔らかい微笑みを浮かべてみせた。
「私もね、まったく同じだったから、あなたのその窒息しそうな痛みが痛いほどよくわかるの。……お父さんのノートを抱えて、あの澪という悲劇のヒロインの絶望を言葉にすることが、本当は狂おしいほどに怖かった。……でもね、青井さんが隣にいてくれて、あの暗闇から本物の真実のレトリックを言葉にしてくれたとき、私の魂は、驚くほどに少しだけ軽くなったのよ。言葉にすることは、過去に負けることなんかじゃないの」
私の左胸の最深部が、今までにないほどの巨大な波動に打たれて、劇的に、音を立てて大きく揺れ動いた。
──言葉にすれば、この何年もの間僕を監禁し続けてきた呪いの刑期が、少しだけ、軽くなる。
ミオさんは、自らの瞳の奥の光をいっそう強めながら、僕に向かって最後のトーンを差し出してきた。
「青井さん。……あなたの本当の言葉が……いま、この過去と未来の境目の上で、もうすぐ、完璧に出てくる気がするわ」
強い潮風がヒュウと吹き抜け、瀬戸大橋の巨大な鋼鉄のトラスが、まるで二人の覚悟を祝福するように、低く、重厚に唸り声を上げた。
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように深く、深く息を吸い込んだ。
喉の奥が、千切れそうなほどに熱い。胸の奥の、あの担当作家の失踪という名の傷口が、狂おしいほどに痛い。
けれど──それでもなお、僕の失われたはずの本当の言葉(活字)が、確かに、僕の口唇のすぐ裏側まで、圧倒的な津波となって押し寄せて来ている。
ミオさんは、その激しく舞い上がる長い髪の隙間から、まっすぐに僕の瞳を見つめ続けた。
「大丈夫です、青井さん。……恐れる必要なんて、どこにもありません。……私は、どんなにあなたが醜い過去を曝け出しても、絶対にここを動かない。私は、ここにいますから」
その瞬間、僕の胸の奥底を何年もの間支配し続けていた、あの冷酷な「最後の沈黙」の氷壁が、劇的な音を立てて完全に崩壊を始めていた。
──言える。ミオさんが、僕という人間のすべてを受け止めてくれるバディとしてここにいてくれるなら……僕はもうすぐ、あの暗黒の会議室のすべてを、僕自身の本物の言葉で言えるんだ。
潮流はついに最高潮を迎え、瀬戸大橋の下から響き渡るあの重厚な満ち潮の地鳴りのような音が、自らの本当の言葉を獲得して歩み出そうとする二人の背中を力強く祝福するように、いつまでも、いつまでも沙弥島と与島の全土へと響き渡り続けていたのだった。
◆◆◆
シーン5
瀬戸大橋の最中央部を吹き抜ける洋上からの強風は、僕たちの覚悟を試すかのように、さっきよりもいっそうその獰猛な質量を増していた。
縦横に交差する鋼鉄のトラスの隙間をすり抜ける風が、低く、重厚な地鳴りのような唸り声を上げてインフラ全体を震わせ、瀬戸内の生々しい潮の匂いをたっぷりと孕みながら、僕たちの強張った頬を容赦なく叩きつけていく。
ミオさんは、私のすぐ隣の境界線に立ち、その眼鏡の奥の大きな瞳で、真っ直ぐに僕の瞳の奥を見つめ続けていた。
「青井さん。……あなたの本当の言葉は、いま、もうすぐそこまで来ています」
その彼女の放った声音は、足元で激しく渦巻く潮の満ちる轟音よりもずっと静かで、けれど、だからこそ冷徹なまでに正確に、僕の凍りついていた胸の最深部へと届いた。
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように、冷たい潮風を深く吸い込んだ。
喉の奥が、千切れそうなほどに熱い。左胸の奥底の、あの何年も放置されてきた暗黒の傷口が、狂おしいほどに痛む。
けれど──それでもなお、かつてないほどの圧倒的な活字の質量が、確かに僕の口唇のすぐ裏側まで押し寄せてきているのを、私は肉体的に確信していた。
ミオさんは、僕のその全身の細かな震えをすべて包み込むように、言葉を繋いだ。
「怖くてもいい。……声がどんなに惨めに震えていたっていいの。……全部を綺麗に話そうとしなくていいから、ほんの少しだけでいい、あなたのその重すぎる言葉のバトンを、私に聴かせて」
私は、彼女の無垢な信頼の視線から逃げるように、思わず足元のグレーチングの隙間から、遥か階下の海へと視線を落とした。橋の巨大なコンクリートケーソンにぶつかって砕ける波が、白銀の眩い飛沫となって、一瞬だけ激しく発光している。
──あの日。
僕の胸の奥底、もっともドス黒い深海の底に沈められていたあの日の記憶の破片が、満ち潮の引力に逆らえず、ゆっくりと、しかし圧倒的な質量を伴って脳裏へと浮かび上がってくる。
ミオさんは、私のその長い、拒絶のような沈黙を決して責めることはしなかった。ただ、吹きさらしの強風のなか、一歩も退かずに僕のすぐ隣に立ち続けてくれた。
「青井さん。……あなたが、あの輝かしい編集者のキャリアの頂点で、完璧な沈黙の防波堤を築いてしまった本当の理由。……私、ずっと、ずっとあなたの口から聞きたかったのよ」
私は、自らの口唇を激しく震わせた。
「……僕は……っ」
まだ、意味のある音声にはならない。喉の奥の鉄の鎖がギリギリと音を立てて肺を締め付ける。けれど、私のなかの表現者としての魂は、確かに、今度こそこの暗黒の呪縛を破って“世界に言葉を言おうとしている”のを、私自身が自覚していた。
ミオさんは、僕のその乾いた吐息を受け止め、優しく、深く首を縦に振った。
「大丈夫です、青井さん。……その不器用な震えのままでいい。……あなたの言葉は、いま、あの沙弥島の潮みたいに、必ずあなたの元へと戻ってきますから」
左胸の最深部が、彼女の放った「潮みたいに」という最高のレトリックによって、劇的に、音を立てて揺れ動いた。
私はもう一度、自らの肋骨が千切れるほどに深く息を吸い込んだ。
そして──何年もの間、僕の喉の奥に冷酷に引っかかり続けていたあの暗黒の活字が、僕の体温によって融解し、ゆっくりと、確かな形を持ち始めた。
「……僕は……っ、あの日……」
声は、情けないほどに細かく震えていた。けれど、それは確かに、僕自身の声帯を震わせて世界に解き放たれた、僕自身の本物の声だった。
ミオさんは、ハッとしたように小さく息を呑み、静かに、次の活字を待ってくれた。急かさない。否定もしない。ただ、僕の過去の醜悪なすべてを受け止めるためだけに、その華奢な身体を波止場の灯台のように佇ませている。
私は、人生で初めて、この人にだけは自らのすべてを“言える”と、魂の底から確信した。
「……あの日、僕が全精力を傾けて伴走していた、あの僕の最愛の担当作家が……僕の前から、突然、いなくなったんだ」
その瞬間、僕の胸の奥底を何年もの間支配し続けていた、あの冷酷な“最後の沈黙”の城壁が、劇的な音を立てて、内側から一気に崩壊を始めた。
ミオさんは、眼鏡の奥の大きな瞳を潤ませながら、そっと囁くように言った。
「……ええ。……続けて、青井さん」
強い潮風が再びトラスを吹き抜け、鋼鉄の鉄骨が低く、重厚に唸り声を上げる。私は一度きつく目を閉じ、脳裏にこびりついたあの無機質な会議室の光景から、もう一度、真実の言葉を掴み取った。
「……僕の傲慢なレトリックが、あいつを追いつめて殺したんだって……。全部、お前の責任だって……周囲の人間たちから、そう言われたんだ」
その僕の口唇から漏れ出た言葉は、僕の左胸の最深部に何年もの間、生々しい血を流したまま沈み込んでいた、あの挫折の痛みそのものだった。
ミオさんは、そのあまりにも重すぎる告白の文脈を受け止め、小さく息を呑んだ。
「青井さん……」
私は、自らの涙で歪んでいく視線のなか、堰を切ったように言葉を繋ぎ続けた。
「その罵声を浴びせられた瞬間……僕の頭のなかで、何かが完全に壊れて……僕の持っていた言葉が……世界を繋ぐための活字が……全部、一瞬で消え去ってしまったんだ」
その瞬間、それまで轟々と吹き荒れていた瀬戸内の強風が、奇跡のようにふっと凪ぎ、世界からはすべての雑音が消え去って、ただただ静謐な、満ち潮の海の音だけが遥か階下から響き渡った。
ミオさんは、涙に濡れる僕の横顔を見つめながら、ゆっくりと、確固たる能動性を持って僕の方へと歩み寄り、灯籠の火のように柔らかく揺れる聲音で、そっと告げた。
「……やっと、言えましたね、青井さん」
私は、自らの肺腑に溜まっていた重い炭酸ガスを、すべて吐き出すように深く息を吐いた。
その瞬間、何年もの間、僕の心を監禁し続けていたあの暗黒の牢獄の重量が、ほんの少しだけ、確かに軽くなっていたのだった。
◆◆◆
シーン6
僕の何年もの沈黙を引き裂いた告白の活字が途切れたあと、天空を跨ぐ瀬戸大橋の上には、しばらくの間、世界の始まりのような静寂と、ただただ通り過ぎていく冷徹な風の音だけが虚しく響き渡り続けていた。
ミオさんは、僕の放ったその醜悪な過去の告白を、途中で遮ることも、決して否定することもしなかった。
ただ、一人の最高の編集者であり、表現者であるかのような気高いスタンスで、僕の放った痛みのレトリックのすべてを、その魂の器で静かに、厳かに受け止めきってくれたのだ。
「……青井さん」
ミオさんの口唇から紡がれた聲音は、再び勢いを増してきた激しい潮風の唸りのなかでも、驚くほど確かな質量を持って、僕の耳の奥へと真っ直ぐに届いた。
「やっと……自分の本当の言葉で、言えましたね」
その彼女の放った能動的な赦しの一言が、僕の左胸の、最も柔らかく痛む傷口の最深部へと、あたたかいインクのように深く、深く染み込んでいく。
私は、自らの喉の奥の熱量を逃がすように、何度も深く息を吐き出した。何年もの間、僕を縛り付けていたあの暗黒の失語という名の刑期が、彼女のその一言によって、ほんの少しだけ、確かに軽くなっていくのを肉体的に実感していた。
ミオさんは、僕たちの間にあった見えない境界線を越えるように、一歩、僕のいる場所へと近づいた。
「青井さん。……あなたがその完璧な編集者の仮面の裏で、どれほど孤独に、どれほど気が狂いそうなほどの苦しみを抱えて生きてきたのか……。今、あなたの生の声を聴いて、ほんの少しだけれど、本当の意味で分かった気がします」
私は、自らの涙を隠すようにして、思わず白銀の海面の上へと視線を落とした。
──苦しかった。自分の言葉が人を殺したかもしれないという恐怖のなかで、一文字の活字も紡げないまま生きることは、生きたまま地獄の底を這い回るよりも苦しかった。
けれど、その沈黙のあまりにも重すぎる重量の澱は、すべてを吐き出したはずの僕の胸の奥底で、未だに生々しい傷口として疼き続けている。
ミオさんは、僕のその内面の痛みをすべて見透かすように、そっと優しいトーンで言った。
「あなたは……あの丸亀港で私と出会うまでの長い時間、ずっと、たった一人でその地獄の文脈を抱え続けていたのね」
その彼女の放った圧倒的な同調のレトリックに、僕の左胸の最深部が、今までにないほどの巨大な波動で強く、激しく揺さぶられた。
そのときだった。
ミオさんは、その華奢な右手をゆっくりと僕の方へと伸ばすと、塗装の剥げかけた冷たい手すりの上で強張っていた、僕の剥き出しの腕へと、そっと触れてきた。
その僕の皮膚へと伝わってきた彼女の指先の体温は、吹きさらしの強風のなかにいたとは思えないほど、驚くほどに、狂おしいほどにあたたかかった。
「青井さん。……もう、いいのよ。もうこれからは、たった一人でその残酷な物語の重荷を抱え込まなくていいんです」
私は、その彼女の放った究極の救済の活字を前にして、ハッと息を呑んだ。
ミオさんは、僕たちの物理的な境界線を完全に消し去るように、さらにもう一歩踏み込むと、自らの両腕を僕の背中へと回し、朝の直射日光のなかで、そっと、僕の身体を強く抱きしめてくれたのだ。
轟々たる潮風が僕たちの衣服を激しくなびかせ、瀬戸大橋の巨大な鋼鉄のトラスが、まるで二人の魂の融和を祝福するように低く、重厚に唸り声を上げる。
ミオさんの、お父さんの布張りのノートを抱え込んだままの小さな温もりが、僕の胸のすぐ近くで、細かく、けれど確かに震えていた。
「あなたが何年もの間、あの完璧な沈黙のなかに自らを監禁してきたのはね、青井さん。……あなたの心が弱かったからなんかじゃ、決してないわ。人間として壊れてしまったからでもない」
彼女は、僕の胸元に自らの顔を寄せたまま、一文字一文字を僕の心臓に叩き込むように続けた。
「あなたが……自分の担当していたその作家のことを、誰よりも深く、誰よりも誠実に想っていたからよ。言葉の持つ本当の恐ろしさを知っているあなただからこそ、これ以上誰も傷つけないために、必死にその沈黙を守ってきたの。それは、あなたの美しさの証拠よ」
私の左胸の奥底が、抑えきれないほどの激しい熱量で爆発するように熱くなった。
──誰かを誠実に想っていたから、だから僕は沈黙したんだ。
これまで自分自身を世界で最も醜悪な加害者として蔑み、言葉を奪われた罰を受けていると思い込めていた僕の失語を、そんなふうに、完璧な文学的レトリックで全肯定してくれた人間は、生まれて初めてだった。
ミオさんは、僕の背中に回したその指先にいっそうの力を込めながら、静かに、しかし世界の真実を告げるかのように言葉を続けた。
「青井さん。……あなたはね……」
その彼女の口唇から放たれようとしている次の活字は、僕という表現者の魂を縛り付けている、最も残酷な“物語の核心”へと、まっすぐに手を伸ばそうとしていた。
私は、自らの心臓の鼓動が爆発しそうになるのを感じながら、思わず肺の呼吸を止めた。
ミオさんは、僕の胸にそのあたたかい額を寄せたまま、瀬戸内の全土を揺るがすような、決定的なレトリックを僕へと提示したのだ。
「……あなたは、あの海の彼方へ消えてしまった、湊なんかじゃないわ」
その瞬間、僕の胸の最深部で何年もの間、冷酷に、頑強に世界を拒絶し続けていたすべての呪縛の鎖が、はっきりと音を立てて木っ端微塵に崩壊した。
──僕は、湊じゃない。
僕は、他者の悲劇の文脈に殉じて、このまま言葉を失ったまま死んでいくべき幽霊なんかじゃないんだ。僕は、今この場所で、彼女の温もりを感じながら生きている、一人の独立した人間なんだ。
潮流はついに完全なる最高潮を迎え、瀬戸大橋の遥か階下から響き渡るあの重厚な満ち潮の地鳴りのような音が、自らの本当の人生を取り戻して未来へと歩み出そうとする二人の身体を力強く抱きしめるように、いつまでも、いつまでも与島の全土へと静かに、しかし圧倒的な響きを持って鳴り渡り続けていたのだった。
◆◆◆
シーン7
ミオさんの小さな、けれど驚くほどの体温に満ちた両腕の中に抱きしめられたまま、私は、自らの身体を一ミリも動かすことができずにいた。
「……あなたは、あの海の彼方へ消えてしまった、湊なんかじゃないわ」
彼女の放ったその能動的な始まりの活字は、私の左胸の最深部に何年もの間、冷酷に居座り続けていたあの「最後の沈黙(自己処罰の物語)」の核心へと、残酷なまでに深く、鋭く突き刺さっていた。
洋上からの錆びた潮風がヒュウと吹き抜け、頭上を縦横に走る鋼鉄のトラスが、まるで二人の魂の融和を祝福するように低く、重厚に唸り声を上げる。ミオさんは、お父さんのあの布張りのノートを僕の胸へと押し当てたまま、静かに、しかし確固たる聲音で言葉を続けた。
「青井さん。……あなたは他のみんなが作り出した悲劇の登場人物でも、誰かの代わりに罪を背負うべき犯罪者でもない。……あなたは、他ならぬあなた自身なのよ」
左胸の奥底が、抑えきれないほどの激しい熱量で爆発するように熱くなった。
──僕自身。他者から原稿を奪うだけの抜け殻ではなく、過去の幽霊に殉じる道連れでもない、青井三幸という、今ここで息をしている一人の独立した人間。そんなふうに、完璧な優しさで自らの輪郭を肯定されたのは、一体、いつ以来のことだっただろうか。
ミオさんは、僕の背中に回していたその腕をゆっくりと緩めると、長い髪を風になびかせながら、眼鏡の奥の大きな瞳で、僕の涙に濡れた顔を真っ直ぐに見上げてきた。
「海の向こうに消えた湊の代わりでもない。……私を置いていってしまった、あのお父さんの代わりでもないわ。……誰かの哀しい過去の影を演じるのは、もうおしまいにしましょう。あなたは……私の大切な、ただ一人の『青井さん』なんだから」
その彼女の放った剥き出しの統語法は、僕の胸の奥底の、最も頑強だった沈黙の氷壁を一気に、激しく揺さぶった。
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように、冷たい潮風を深く、深く吸い込んだ。喉の奥が、千切れそうなほどに熱い。胸の奥の、あの担当作家の失踪という名の傷口が、狂おしいほどに痛む。
けれど──それでもなお、僕の失われたはずの本当の言葉(活字)が、確かにそこまで、口唇のすぐ裏側まで押し寄せてきている。
ミオさんは、僕のその表情の文脈を完璧に読み解きながら、さらに言葉を繋いだ。
「あなたが、あの冷房の効きすぎた編集部の会議室で完璧に言葉を閉ざしてしまったのはね……あなたが弱かったからなんかじゃ、決してないのよ。……誰よりも深くその作家を想っていて、これ以上自らの言葉で誰も傷つけたくないと、そう強く願ったからこそ、あなたは自らの言葉の扉を、自分の手で閉じたのよ」
私は、その彼女のあまりにも完璧な救済の解釈に対し、激しく首を横に振りながら、震える声を絞り出した。
「……違うっ、違うんだ、ミオさん……! 僕は、そんな美しい人間なんかじゃない……! 僕はただ、あの罵声の弾丸から……自分のプライドが傷つくことから、惨めに逃げ出しただけの卑怯者なんだ……!」
しかし、ミオさんは、僕のその泥臭い自己否定に対しても、決して首を縦には振らなかった。
「違います、青井さん。あなたは逃げたんじゃない」
彼女は、一歩、僕たちの間の境界線を完全に消し去るように近づいた。
「あなたはね……あのまま言葉を紡ぎ続ければ、他者を呪い、自分自身も完全に破滅させてしまうほどの極限状態のなかで……これ以上壊れてしまわないように、自分の大切な魂を、必死に守り抜いたのよ」
左胸の最深部が、今までにないほどの巨大な波動に打たれて、劇的に、音を立てて大きく揺れ動いた。
──逃げたのではない。僕は、これ以上誰も傷つけないために、壊れそうな自分自身を、あの完璧な沈黙(深呼吸)によって守っていたのだ。元編集者・元表現者として、そんなふうに自らの失語の年月を定義づけたことなど、これまでの人生でただの一度もありはしなかった。
ミオさんは、さらに僕のすぐ目の前まで歩み寄ると、塩害で塗装の剥げかけた冷たい手すりの上で強張っていた僕の右手を、自らの温かい掌で、そっと包み込むように握りしめた。
「青井さん。……あなたの本当の言葉は……もう、すぐそこまで、あなたの口唇の裏側まで戻ってきています」
私は、激しく唇を震わせながら、自らの喉の奥で暴れる活字の奔流を、もう止めることができなかった。
「……僕は……っ、あの日、僕の大切な作家がいなくなって……。編集部のあの窓のない会議室で、お前の傲慢なレトリックがあいつを殺したんだって、お前のせいだって、何度も何度も言われて……」
声は情けないほどに掠れ、強風にかき消されそうになっていた。けれど、私の本物の言葉は、もう誰にも止められなかった。
「あの瞬間、自分が何を言っても、どんな言い訳を紡いでも、全部が他者を傷つける間違いになる気がして……だから、僕は……自らの言葉を、失ってしまったんだ……!」
そのすべての真実を吐き出した瞬間、僕の胸の奥底を何年もの間支配し続けていた、あの冷酷な“最後の沈黙”の城壁が、音を立てて完璧に、木っ端微塵に崩壊を遂げた。
ミオさんは、その眼鏡の奥の大きな瞳から、大粒の涙をぽろぽろと溢れさせながら、世界で最も美しい微笑みを浮かべた。
「……やっと、自分の本当の言葉で、全部言えましたね、青井さん」
私は、何年ぶりか分からないほどの、本当の、深い息を吐き出した。
その瞬間、私の左胸の奥底を満たしていたあの暗黒の牢獄の重量が、驚くほどに、信じられないほどに軽くなっているのを、私は肉体的に実感していた。
ミオさんは、涙を拭うことも忘れたまま、さらに強く僕の手を握り返してくれた。
「青井さん。あなたは湊じゃない。……あなたは、あなただけの誠実な言葉を、最初からちゃんと持っているんです」
洋上からの強い潮風が再びトラスを吹き抜け、白銀の陽光を受けて眩く明滅する広大な瀬戸内海が、世界のすべてを塗り替えるように輝いた。
その波頭に乱反射する無数の光の帯は、あの嵐の夜、沙弥島の暗黒の海の向こうで僕たちの未来を静かに指し示してくれた、あの「灯籠の火」の優しい揺らめきと、完全に、美しく同期していたのだった。
◆◆◆
シーン8
「あなたは、海の彼方に消えてしまった湊なんかじゃないわ」
ミオさんが放ったその決定的な文学的救済のレトリックが、僕の左胸の奥底にこびりついていたあの暗黒の失語の城壁を、完璧に粉砕し去ったあと──。
僕たちはしばらくの間、世界の始まりのような静寂のなか、瀬戸大橋の管理用歩道のうえで、ただただ通り過ぎていく激しい潮風に、その身体を委ね続けていた。
洋上からの風はますますその獰猛な質量を増し、巨大な鋼鉄のトラスが低く、重厚に唸り声を上げる。ミオさんは、僕の右手をそのあたたかい掌でしっかりと握りしめたまま、ゆっくりと、愛おしそうにその顔を上げた。
彼女の眼鏡の奥の大きな瞳には、朝の直射日光を反射してきらきらと輝く、大粒の涙がたっぷりと溜まっていた。
「青井さん……。あなたが、あの冷酷な沈黙の防波堤を自ら取り払って、あの日の本当の痛みを話してくれたこと……。その重すぎる過去の文脈を、私という不器用な器に、完璧に『預けて』くれたこと……。私、今、魂の底から、狂おしいほどに嬉しかったのよ」
彼女の長い睫毛の端から、大粒の涙が一粒、きらりと光る軌跡を描きながら、潮風に煽られて彼女の白い頬を伝い落ちていった。
そのミオさんの流した涙の純度を見た瞬間、私は直感的に理解した。それは、悲しみや絶望の澱などでは決してない。僕という表現者の決壊によって、彼女自身の孤独な魂もまた、完璧に救われたのだという、最高に美しい“相互救済の涙”だったのだ。
私は、左胸の最深部が、かつてないほどの圧倒的な体温で激しく熱くなっていくのを肉体的に感じていた。
──ミオさんは、他の誰でもない僕自身の本当の活字を、ずっと、この長い旅路の間、信じて待ち続けていてくれたんだ。
──僕のあの醜悪な過去の告白を、ただの一度も責めることなく、すべてを受け止めてくれた。
──元高慢な編集者という肩書きの殻ではなく、青井三幸という、情けない一人の人間のありのままを、彼女だけは見つめ続けてくれていたんだ。
ミオさんは、自らの声を細かく震わせながら、僕に向かって最後の能動的なトーンを差し出してきた。
「青井さん。……あなたの失われていた本当の言葉は、いま、このお父さんの愛した境目の上で、完璧にあなたの元へと帰ってきたのね」
私は、その彼女の問いかけに応じるように、視線を足元のグレーチングから、遥か彼方に広がる白銀の水平線へと向けた。
遥か階下から響き渡る、あの重厚な満ち潮の地鳴りのような音が、僕のなかに残されていた最後の空白のすべてを、完璧な優しさで静かに、豊かに満たしていく。
「……うん、そうかもしれないね、ミオさん」
私の口唇から漏れ出たその一言は、元編集者としての過剰なレトリックによる装飾など一切ない、自分でも驚くほどに自然で、滑らかな、僕自身の本物の声だった。
ミオさんは、自らの細い指先でそっと目元の涙を拭うと、この旅路のなかで一番の、ひっそりと咲いた灯籠の火のような、小さな、けれど最高の笑顔を浮かべてみせた。
「ええ、戻ってきています。……あの沙弥島の満ち潮と同じように……静かに、でも圧倒的な質量を持って、確かにあなたの元へ還流しているわ」
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように、冷たい潮風を深く、深く吸い込んだ。
そして──他者の原稿を整えるためではなく、僕自身の本当の人生を、僕自身の意志で前に進めるために、生まれて初めて、自分自身の魂の底から本当の言葉を探し求めた。
「ミオさん」
私がその名前を呼ぶと、ミオさんはハッとしたように、眼鏡の奥の瞳を大きく見開いて僕の顔を見上げた。
「……僕は、もう二度と、あの暗黒の会議室の幽霊からも、自ら築いた完璧な沈黙の防波堤の裏からも、逃げ出したくはないんだ」
その言葉は、何年もの間僕を監禁し続けていた呪いの刑期を終わらせるための、僕自身の本物の活字となって、内側から自然に溢れ出していた。
「ただ言葉を失った抜け殻として沈黙に隠れるんじゃなくて……。これからは、僕の醜い過去も、痛みのすべてを曝け出して、あなたにちゃんと話したい。……他のみんなが僕を否定しても、ミオさん、あなたと一緒に、この先の本当の未来へ向かって、真っ直ぐに前に進みたいんだ」
ミオさんは、私の放ったそのプロポーズにも似た究極の能動性のレトリックを前にして、驚愕にその大きな瞳を見開き、そして──今度は堪えきれずに、激しい歓喜の涙をボロボロと自らの頬へとこぼし始めた。
「……青井さん……っ」
私は、彼女の手を強く握り返しながら、自らの魂のすべてを込めて、最後の決定的な一文を紡ぎ出した。
「あなたが……ミオさん、あなたという存在のすべてが、僕の失われていた言葉の、本当の“帰る場所”なんだと思う」
ミオさんは、溢れ出す涙を必死に抑えるようにして自らの白い口元を小さな手で押さえながら、激しい涙の雨の中で、世界で最も美しい、最高の伴走者としての笑みを浮かべた。
「……そんな風に、誰かの生きる理由そのものみたいに言われたの……私、これまでの人生で、本当に初めてです……っ」
洋上からの峻烈な潮風が僕たちの身体を激しく通り抜け、瀬戸内の広大な海面が一面に白銀の光を放ってドラマチックに激しく明滅した。
その波頭に乱反射する無数の光の帯は、あの嵐の夜に見た「灯籠の火」のように優しく揺らめきながら、過去の呪縛を完全に脱却し、自らの本当の言葉を獲得して歩み出そうとする二人の、その遥かなる未来の航路を、どこまでも真っ直ぐに、完璧な優しさで照らし出し続けていたのだった。
◆◆◆
シーン9
それまで僕たちの身体を獰猛に苛んでいた洋上からの強風が、奇跡のようにふっとその勢いを弱め、瀬戸内の広大な海原は、朝の峻烈な光から、どこか優しく穏やかな白銀の輝きへとその表情を変え始めていた。
ミオさんは、自らの長い睫毛に溜まった涙を白い指先でそっと拭うと、僕の右手をそのあたたかい掌でしっかりと握りしめたまま、ゆっくりと、愛おしそうに顔を上げた。
「青井さん。……あなたの本当の言葉、あなたの、あの優しくて力強い声が……本当に、本当の意味で私たちの元へと戻ってきたのね」
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように深く息を吸い込んだ。
私の左胸の最深部に何年もの間こびりついていたあの暗黒の傷口は、不思議なことに、もう僕を窒息させるための“痛み”としては機能していなかった。それはまるで、激しい嵐が去ったあとの大地が太陽の熱を吸い込んでいくような、ただそこに存在することを静かに確かめ合える、圧倒的な温かさの澱へと変化していたのだ。
「……僕の言葉が戻ってきたんじゃないよ、ミオさん。……他の誰でもない、あなたが、僕の醜い沈黙のすべてを逃げずに聴き続けてくれたから……だから、僕は僕自身の活字を取り戻せたんだ」
私の口唇から漏れ出たその一言は、元編集者としての過剰なレトリックによる装飾など一切ない、自分でも驚くほどに自然で、滑らかな、僕自身の本物の声だった。
ミオさんは、その私の放った本物の活字の質量を前にして、ハッとしたように大きな瞳を見開き、そして──この旅路のなかで最も美しい、最高の微笑みを浮かべてみせた。
「私、ずっとあなたの声が聴きたかったの。……あの丸亀港で、完璧な沈黙の防波堤を築いていたあなたと出会ったその瞬間から、ずっと、あなたのなかに眠る本当の物語を、私は信じて待っていたのよ」
胸の奥底が、彼女の放った「ずっと」という時間の質量によって、激しく、狂おしく打ち震えた。
その彼女の紡いだ究極の肯定の聲音は、足元で豊かに満ち満ちていくあの瀬戸内の潮の満ちる音よりも深く、僕の魂の最深部へと染み渡っていく。
ミオさんは、繋いだ手の手すりの向こう──巨大な懸垂曲線が描き出す、坂出側の遥かなる水平線の彼方を見つめながら、静かに言葉を繋いだ。
「青井さん。……私ね、この過去と未来の境目の上で、これからの私たちの本当の『未来』のことを、ちゃんと人間の言葉で考えたいの」
私は、その彼女の放った「未来」という能動的な活字を前にして、思わず小さく息を呑んだ。
「お父さんが遺してくれた、この布張りのノートの空白に……。私はね、あの海の彼方へ消えてしまった湊と澪の、誰も知らなかった“本当の救済の物語”を、私のレトリックで書き終えたい。……でもね、青井さん。私の旅は、それだけじゃ終わらないの」
ミオさんは、長い髪を穏やかな風になびかせながら、力強く言った。
「湊と澪の悲劇を書き終えたその先に……私自身の、ミオという一人の人間としての新しい物語を、これからちゃんと、この白紙の上に刻みつけていきたいのよ」
その彼女の放った、一人の自立した表現者としての圧倒的な覚悟のレトリックは、遮るもののない潮風のなかでも、完璧な存在感を持って僕の鼓膜へと響き渡った。
私は、彼女のその気高いプロフィールを見つめながら、静かに、確信を込めて答えた。
「……今のミオさんなら、どんなに過酷な白紙の未来であっても、必ず自分の本当の言葉で書ききれるよ」
しかし、ミオさんは、私のその言葉に対して、優しく、けれど断固とした拒絶を込めて小さく首を横に振った。
「いいえ、青井さん。私一人きりじゃ、そんな美しい物語は絶対に書けないわ」
彼女は、僕の手を握る自らの指先に、きゅっと愛おしそうな力を込めた。
「だって……これから私が紡ぐべき新しい人生の物語のなかには、他のみんなが私を否定しても、私の隣で一緒に伴走してくれる……青井さん、あなたという存在が、どうしても必要不可欠なんだから」
私の左胸の最深部が、今までにないほどの巨大な波動に打たれて、劇的に、音を立てて大きく揺れ動いた。
──必要。他者の言葉を盗むことしかできない抜け殻だと思い込んでいたこの僕を、彼女は自らの物語の主人公として、完璧な必要性をもって指名してくれたのだ。その彼女の放った始まりの活字は、僕の心を監禁し続けていたあの冷酷な沈黙の、最後の最後の一片までも、跡形もなく綺麗に溶かし去っていった。
ミオさんは、潤んだ瞳で僕を真っ直ぐに見つめ直すと、その華奢な手をもう一度握り直し、核心を突くトーンで僕へと告げた。
「青井さん。……これからも私の隣で、一緒に瀬戸内の島々を巡る、終わらない旅を続けてくれますか? お父さんが命を懸けて集め、残してくれたあの尊い言葉たちの本当の意味を……今度は、身代わりなんかじゃない私たち自身の足で、一つずつ確かめに行きたいの」
私は、もう一ミリの迷いも、元編集者としての仮面も必要としなかった。
「……行こう、ミオさん。どこまでも、世界の果てまで、あなたと一緒に」
ミオさんは、その僕の完璧な能動性の返答を聴くと、眼鏡の奥の大きな瞳から、ぽろぽろと歓喜の涙を溢れさせながら、子供のように無邪気に笑ってみせた。
「……ありがとうございます、青井さん……っ」
潮流はついに完全なる満潮を迎え、白銀の朝光を浴びた瀬戸内の海面が、二人の未来を祝福するように一面に激しく明滅した。その波頭の美しい乱反射は、あの嵐の夜に見た「灯籠の火」のように優しく揺らめきながら、これから二人が歩むべき、遥かなる未来の航路を、どこまでも真っ直ぐに、完璧な優しさで照らし出し始めているようだった。
ミオさんは、そのまばゆい光の海を見つめながら、ぽつりと愛おしそうに呟いた。
「……未来って、人間の生きる意味って……本当は、こんなにも美しくて、こんなにも眩しい光の形をしていたんですね」
私は、彼女のその美しいレトリックに対して、深く、深く頷き返した。
「うん。……たった一人で暗闇の会議室にこもっていたときには、こんな光、逆立ちしたって見えなかった。……自分の大切な誰かと一緒に、同じ境界線の上で見る未来が、こんなにも世界を優しく変えてしまうなんてね」
ミオさんは、僕の右手を両手で包み込むように強く握りしめ、世界で最も美しい、最高の伴走者としての笑みを浮かべた。
「青井さん。……あなたと一緒に……私は、この先のすべての未来を見つめ続けたいです」
洋上からの穏やかな潮風が僕たちの身体を優しく吹き抜け、瀬戸内の圧倒的な光の抱擁が、二人のシルエットを完璧に包み込んでいく。その決定的な瞬間、僕たちのバラバラだった過去の物語(文脈)は、未来という名の美しい白紙の上で、確かに、劇的に、一つへと重なり合ったのだった。
◆◆◆
シーン10
午前中の峻烈な直射日光は緩やかにその角度を変え、午後の成熟した柔らかな陽光を浴びた瀬戸内の海原は、白銀の鏡のように優しく、ドラマチックに揺らめいていた。
あれほど獰猛だった洋上からの潮風はすっかりと凪ぎ、天空を跨ぐ巨大な瀬戸大橋の上には、まるで世界の始まりのような、どこまでも静謐で、穏やかな時間が流れている。
ミオさんは、僕の右手をそのあたたかい掌でしっかりと握りしめたまま、遮るもののない遥かなる水平線の向こう──私たちがこれから漕ぎ出すべき、光に満ちた未来の彼方を見つめ続けていた。
「……未来って、誰かと生きる未来の景色というのは……本当は、こんなにも優しくて、温かい形をしていたんですね」
その彼女の口唇から漏れ出た声音は、あの沙弥島の嵐の夜に、暗黒の海の向こうで僕たちの魂を繋ぎ止めてくれた、あの「灯籠の火」の揺らめきのように、どこまでも柔らかく、深く響いていた。
私は、自らの肺腑のすべてを入れ替えるように、初夏の穏やかな大気を深く、深く吸い込んだ。何年もの間、僕を精神の牢獄に監禁し、心を窒息させていたあの冷酷な沈黙の残響は、もう、この世界のどこを探しても一ミリすら残ってはいなかった。
元編集者としての過剰な装飾ではない、僕自身の本当の言葉が、あの沙弥島の豊かな満ち潮の還流と同じように、内側から自然に、圧倒的な熱量を持って湧き上がってくる。
「ミオさん」
私が、他ならぬ僕自身の本当の声でその大切な名前を呼ぶと、ミオさんはゆっくりとその華奢な身体を僕の方へと振り返らせ、眼鏡の奥の大きな瞳で、真っ直ぐに僕の瞳を見つめ返した。
「……はい、青井さん」
私は、これまでの人生のすべてにおいて、最も強い、剥き出しの“自分自身の能動的な意志”によって、目の前の彼女へと捧げるための最高のレトリックを選び取った。
「僕はね……ミオさん、これからの人生のすべてにおいて、あなたと一緒にいたいんだ」
ミオさんの長い睫毛の奥の、大きな瞳が、ハッとしたように激しく揺れ動いた。私は、彼女の手を握る自らの指先にいっそうの力を込めながら、堰を切ったように言葉を繋ぎ続けた。
「あの海の彼方へ消えてしまった、湊という哀しい過去の身代わりとしてではなく。他の誰かが作り出した悲劇の登場人物の影としてでもなく。……そして、あなたのお父さんが遺してくれたあのノートの空白を埋めるためだけの、義務の伴走者でもない。……僕は、青井三幸という、何一つ飾るもののない一人の独立した男として……あなたという最高に愛おしい人と共に、これからの本当の未来を歩んでいきたいんだ」
ミオさんは、私の放ったそのプロポーズにも似た究極の主体の確立を前にして、思わず息を呑んだ。
ふっと吹き抜けた穏やかな風が、巨大な鋼鉄のトラスを優しく撫で通り、世界を繋ぐためのインフラが、二人の誓いを祝福するように低く、重厚に唸り声を上げる。私は、二人の間にあったすべての境界線を消し去るように、もう一歩、彼女のいる光の中へと足を進めた。
「ミオさん。……あの丸亀港で出会ったあの日から、あなたが僕の醜い失語のすべてを逃げずに受け止めてくれたから……。あなたが、他ならぬあなた自身が、僕の失われていた言葉の、本当の“帰る場所”だったんだ」
ミオさんの眼鏡の奥の大きな瞳から、大粒の涙が、堰を切ったようにぽろぽろと、静かに自らの頬へとこぼれ落ちていった。
「……青井さん……っ」
私は、その彼女の流した世界で最も美しい涙の軌跡を見つめながら、魂のすべてを込めて言葉を紡ぎ続けた。
「あなたが、僕の隣にいてくれたから……僕はあの呪われた失語症の闇を抜けて、こうして本当の自分の言葉を取り戻すことができた。あなたが、僕の情けない過去の独白をすべて聴き届けてくれたから……僕はあの暗黒の会議室の幽霊を越えて、今、ここで生きることができている。……だから、これからの終わらない旅路のすべてを、僕はあなたと一緒に生きたいんだ」
ミオさんは、自らの声を細かく震わせながら、溢れ出す涙を必死に抑えるようにして、掠れた聲音で私に応えた。
「……私の人生のなかに……そんな風に、誰かの生きる理由そのものみたいに言ってもらえる瞬間が訪れるなんて……私、本当に……っ」
彼女の頬を伝い落ちる無数の涙の滴は、午後の豊かな光をその身に宿して、まるで白銀の糸のように、まばゆい光の中で美しく輝いていた。ミオさんは、僕の右手を自らの両手で、壊れそうなほどに強く、強く握り返してくれた。
「青井さん。……私も、他の誰でもないあなたと一緒に、これからの本当の未来を歩みたいです」
私の左胸の最深部が、抑えきれないほどの激しい熱量で爆発するように熱くなった。ミオさんは、僕の瞳を真っ直ぐに射抜いたまま、私と完璧な対称性を描くための、至高の能動性のレトリックを返してきたのだ。
「海の向こうに消えた湊の影でもなく、あの嵐の夜に死んでしまった澪というヒロインの身代わりでもないわ。……そして、私を置いていってしまったあのお父さんの空白を埋めるためだけの、哀しい人形としてでもない。……私は、ミオという、今ここであなたを必要としている一人の独立した人間として……青井さん、あなたと一緒に、これからの新しい物語を創り出したいの」
その彼女の口唇から放たれた決定的な始まりの活字は、足元で豊かに満ち満ちていくあの瀬戸内の満潮の抱擁よりも深く、重厚に、僕の魂の最深部へと鳴り響いた。
私は、涙に濡れる彼女の顔を見つめながら、世界で最も誠実な、一人の男としてのトーンを響かせた。
「……ありがとう、ミオさん。僕を選んでくれて、本当にありがとう」
ミオさんは、細い指先でそっと目元の涙を拭うと、この旅路のなかで一番の、激しい涙の雨のあとにひっそりと咲いた灯籠の火のような、最高の笑顔を浮かべてみせた。
「こちらこそ……。私の閉ざされていた物語の扉を開けてくれて……本当に、本当にありがとう、青井さん」
午後の成熟した瀬戸内の光の抱擁が、大橋の上に佇む二人のシルエットを完璧に包み込み、見渡す限りの広大な海面が、一面の白銀の鏡となってドラマチックに揺らめいた。
その世界の始まりのような光の満ちるなかで、僕たちは、もう他者の用意した悲劇の文脈に怯えることもなく、自分たちの本当の足で歩むべき、輝かしい「未来」の全景を、確かに、真っ直ぐに見つめ続けていた。
失われていた本当の言葉は、いま、完璧に僕たちの元へと戻ってきた。
何年もの間、僕を精神の牢獄に閉じ込めていたあの長い、長い冷酷な沈黙の刑期は、今この瞬間、完全に終わったのだ。
そして──僕たち二人の、僕たち自身の本当の活字で紡がれるべき真実の物語は、まさにこの過去と未来の境目から、今、厳かに、能動的に始まりを告げるのだった。




