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第1章 始まりの沈黙

◆◆◆

シーン1

言葉が出なくなったのは、三月の終わりだった。

編集部の張り詰めた会議室で、誰かが何かを熱心に話していた。新しい時代のデジタル方針だとか、今期確実に売れる企画の傾向だとか、そんな類いの話だったはずだ。けれど、僕の耳に届く音は、どれも水の底で揺れるようにくぐもって、意味を持たないただの振動に化けていた。不意に発言を求められたとき、口を真下へ開いたのに、声という形になって出てこなかった。喉の奥に、重い見えない蓋が容赦なく落ちたようだった。

休職を命じられ、数年分の荷物で溢れた机の引き出しを空にした。帰り道、電車の窓に映る自分の顔が、ひどく遠い見知らぬ他人のように見えた。他人が書いた言葉を整え、世に送り出す仕事をしてきたはずなのに、その言葉そのものが自分の中から砂のように消えていく。その容赦のない喪失感に、胸の底がじわりと凍りついていった。

東京を離れたのは、一種の逃亡だった。祖母の遺品整理という大義名分を口実に、香川へ向かうことにした。祖母が亡くなってから三年、ずっと手をつけずに放置していた段ボール箱を開ける気力が、ようやく湧いたのだ。

坂出の古い木造の家で、埃をかぶった箱をひとつずつ開けていく。色褪せた着物、誰かからの古い手紙、使い込まれた飴色の茶碗。その底のほうに、小さな絵葉書が一枚だけ残されていた。

《沙弥島 夕景》

瀬戸大橋の向こうに沈む大きな夕日が、瀬戸内の海を鈍い金色に染めている。裏には短い走り書きがあった。

《潮が満ちるとき、灯りは戻る》

見覚えのある、祖母の細い筆跡だった。

その言葉が、凍りついた胸の奥でかすかに共鳴した。意味は分からない。ただ、幼い頃にどこかで聞いたことがあるような気がした。記憶の底に深く沈んでいた何かが、ゆっくりと気泡を上げて浮かび上がろうとしていた。

気づけば、私は沙弥島へ向かう路線バスの座席に揺られていた。理由は自分でも判然としない。ただ、あの絵葉書に写っていた、世界の果てのような夕景を、この目で確かめたかった。

島に着くと、春を孕んだ潮の匂いが風に混じって頬を撫でた。海岸へ出ると、海を跨ぐ瀬戸大橋が巨大な鉄の影を落としていた。夕暮れにはまだ早いが、太陽の光はすでに柔らかく傾き始めている。

そのとき、波打ち際にひとり佇む女性の姿が目に入った。白いワンピースの裾が風に小さく揺れ、両手には古びた小さな灯籠を持っている。灯りはまだついていないはずなのに、彼女の周囲の空気だけが淡く発光しているように見えた。

気配を察したのか、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。

黒い瞳が、まっすぐに僕の視線を射抜いた。

そして、まるで以前からそこで待ち合わせでもしていたかのように、静かに言った。

「来ると思っていました」

その声は、寄せる潮の満ち際のように、どこまでも柔らかかった。

僕は何か返事をしようと唇を動かしたが、乾いた喉がひきつるばかりで言葉にならない。

彼女は責めるでもなく微笑んで、灯籠を大事そうに胸の前で抱え直した。

「ここは、言葉が戻る場所なんです」

その言葉が、冷たい海風に乗って僕の胸の隙間にすとんと落ちた。

なぜだか分からないが、目頭が熱くなり、涙が出そうだった。

◆◆◆

シーン2

灯籠を抱えたまま、彼女はふたたび穏やかな海のほうへ視線を戻した。

僕は少し距離を置いたまま、その横顔を盗み見るように見つめた。潮風に揺れる黒髪が、西日を受けて淡く透けている。どこか遠い記憶のなかにあったような、しかし確実に初めて見るような、不思議な静けさを纏った人だった。

「ここは、昔から“言葉の島”って呼ばれているんです」

彼女は海原を見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。

「万葉の歌が残っていたり、行きずりの旅人が詩を書き残したり。潮の音と一緒に、いろんな人の言葉が流れ着いて、ここに溜まるんですよ」

僕は肯定の意味を込めて頷こうとしたが、首の筋肉が強張り、声を出そうとすると胸が詰まった。名乗ることもできない自分への焦燥が首をもたげる。

彼女はくるりと振り返り、僕の頑なな沈黙を咎めるでもなく、ただ陽だまりのような笑みを浮かべた。

「無理に話さなくていいんです。言葉って、出るときは自然に出るし、出ないときはどうしたって出ないものですから」

その言い方があまりに自然で、張り詰めていた心の結び目が、少しだけ緩んで温かくなるのを感じた。

足元の砂は、まだ春の始まりのひんやりとした冷たさを残していた。寄せては返す波が、細かく砕けた貝殻をしゃらしゃらと微かな音を立てて転がしていく。瀬戸大橋の無機質な橋脚が、海面へどこまでも長く巨大な影を落としていた。

その影の向こう側で、夕日が時間をかけて傾き始めている。

「あなた、島の人じゃないですよね」

彼女の問いかけに、僕は息を吸い込み、

「……ええ」

ようやく絞り出した声は、ひび割れた砂利のようにかすれていた。

「やっぱり」

彼女は灯籠を抱え直し、僕のほうへ一歩だけ足を進めた。

「島の人は、潮の匂いで分かるんです。あなたは、まだ都会の乾いた匂いがして、海の匂いがしない」

その指摘に、なぜか胸がちくりと痛んだ。

僕は長い間、海から遠く離れた灰色のアスファルトの上で生きてきた。

言葉を最も大切に扱う仕事をしてきたはずなのに、今の自分はその言葉さえ持たない空っぽの器だ。

「でも、大丈夫ですよ」

彼女は僕の落胆を見透かしたように続けた。

「海の匂いは、すぐに身体に染みつきますから」

その言葉が、ただの慰めなのか、確信に満ちた予言なのかは分からなかった。

ただ、彼女の声はどこまでも低く波の音に溶けており、僕の不完全さを弾き出す気配はどこにもなかった。

「私はミオっていいます」

灯籠を胸に抱いたまま、彼女は丁寧に頭を下げた。

「あなたは?」

名乗ろうとした瞬間、胸の動悸が激しくなり、唇が小さく震えるだけで音が消えた。どうしても自分の名前が喉を通らない。

ミオは慌てる様子もなく、ただ静かに僕の目を見つめ、待ってくれた。

「言わなくていいですよ」

「……すみません」

「謝らなくていいんです。言葉って、満ち引きする潮みたいなものだから」

潮みたいなもの。

その比喩が、乾ききっていた僕の心の底にすっと染み込んでいった。

ミオは灯籠を、輝きを増す海のほうへと掲げた。

まだ中に火は灯っていない。

それなのに、灯籠の白い和紙が夕方の強い光を吸い込んで、それ自体が淡く発光しているように見えた。

「潮が満ちるとき、灯りは戻るんです」

彼女は静かにそう言った。

まるで、僕のポケットにある祖母の絵葉書に書かれた言葉を、そのままなぞるように。

僕は思わず小さく息を呑んだ。

ミオはその動揺には気づかない様子で、灯籠をそっと足元へ下ろした。

「島には、昔から伝わる古いお話があるんです。

海を隔てて離れ離れになった、恋人たちの話。

潮が満ちるたびに、小さな灯りを掲げて、互いの姿を探し続けた人たちの」

その語り口は、まるで絵本をめくるように滑らかで、遠い昔の記憶を優しく手繰り寄せるようだった。

◆◆◆

シーン3

「潮が満ちるたびに、あの子はこうして灯りを掲げたんです」

 ミオは胸の前で、古びた灯籠を愛おしそうにそっと揺らした。和紙の隙間から零れる西光が、彼女の手元を橙色に染める。

 「広く深い海を隔てていたから、どれだけ叫んでも声は届かない。でも、この灯りなら届く。だから、ふたりは毎晩のように灯籠を掲げ合って、闇の向こうにお互いの無事を確認していたんです」

その語り口はあまりにも生々しく、まるで彼女自身がその時代に生き、その光景を横で見ていたかのようだった。

 僕は思わず「そのふたりとは誰なのか」と問いかけたくなったが、やはり言葉は形をなさず、喉の途中で熱い塊となってつかえてしまう。

 ミオは僕のそんなもどかしさを気にする様子もなく、ふたたび穏やかな海のほうへ視線を戻した。

「でも、ある酷い嵐の夜、海の向こうからの灯りは戻らなかった」

 ミオの声が、低く湿った潮風に溶けるようにトーンを落とした。

 「それが、この島にずっと残っている古い伝説なんです。潮待ちの娘──みおという娘のお話」

澪。

 その名前が、僕の胸の障壁に小さく引っかかった。

 ミオ。目の前にいる彼女と同じ響き。

 ただの偶然なのか、それとも目に見えない何かの必然なのか。僕は答えの出ないその名前を、声にならない口調で何度も反芻した。

「澪は、灯りが戻らなかったその夜から、いっさいの声を失ったと言われています」

 ミオは掲げていた灯籠を、名残惜しそうにそっと下ろした。

 「言葉をなくしたまま、何日も、何ヶ月も海を見つめ続けて……やがて冬が来る前に、誰も見ないうちに姿を消した。島の人たちはね、悲しみのあまり、彼女がそのまま海へ還ったんだって噂したそうです」

語り終えたミオの横顔は、劇場の幕が下りたあとのように、どこか遠く切ない場所を見つめていた。

 そのどこか寂しげな表情に、僕は心臓を掴まれるような既視感を覚えた。

 まるで彼女自身が、その悲劇的な伝説の「不条理な続き」を今もひとりで生きているかのように見えたのだ。

「……あなたは、その話を信じているんですか」

 細い糸を引くように、ようやく絞り出した声だった。ひどくかすれていたけれど、静かな浜辺の空気を通じて、確かにミオの耳へと届いた。

「信じている、というより……」

 ミオは少し困ったように、睫毛を伏せて波打ち際を見つめた。

 「澪の、そのときの胸の痛みが、分かる気がするんです」

その告白に、僕の心の奥が小さくざわついた。

 ミオは、遠く伸びる瀬戸大橋の影を見つめながら続けた。

「待つことしかできないのって、ひどく苦しいですよね。自分の声が絶対に届かないと分かっている場所で、誰かを想い続けるのって」

「……」

「でも、灯りさえ消さずにいれば、いつかきっと届く。澪は最後まで、そう信じていたんだと思います」

ミオは灯籠をそっと足元の砂の上に置いた。

 不意に強まった海風が和紙の裾を揺らし、カサリと小さく乾いた音を立てる。

「だから、私はこうして灯籠を持っているんです」

 彼女は弾かれたように振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。

 「誰かの帰りを待つためじゃなくてね、ここに流れ着く、誰かの言葉を迎えるために」

その澄んだ言葉が、僕の頑なだった心の底へ、波紋を広げながら染み込んでいった。

 僕は今、大切な言葉をすべて失っている。

 声を絞り出そうとすればするほど、胸の筋肉が収縮し、呼吸さえ苦しくなる。

 けれど、ミオの紡ぐ言葉は、僕のその不格好な沈黙を責めるどころか、冷え切った身体を全容のまま包み込むように寄り添ってくれるのだった。

「あなたも、きっと戻りますよ」

 ミオは砂の上の灯籠をふたたび拾い上げ、僕のほうへまっ向き直った。

 「満ちてくる潮みたいに、自然な速度で。言葉って、本来はそういうものですから」

その瞬間、僕の胸の深いところで、凍りついていた何かが確かに音を立てて動いた。

 それはまだ、明確な意味を持つ言葉にはなっていない。

 けれど、遠い海の彼方から、何かがゆっくりとこちらへ“戻り始めている”という、確かな予感のような震えだった。

海の向こうでは、燃えるような夕日が、巨大な橋脚の影をどこまでも長く東へと伸ばしていた。

 足元では、いつの間にか潮が満ち始めている。

 絶え間なく寄せる波の音が、僕の脳裏のどこか遠い記憶を呼び起こすように、深く、重く響き渡っていた。

◆◆◆

シーン4

ミオの静かな語りが途切れたとき、沙弥島の海はすっかり濃密な夕暮れの色に支配されていた。

 長く伸びた橋脚の影が漆黒の帯となり、その狭間で海面に乱反射する残光は、まるで誰かがこの世界に書き残していった、無数の断片的な言葉の群れのように見えた。

 僕はその劇的な光景をただじっと凝視しながら、長いこと心の奥底に沈殿していた澱のような何かが、浮力を持ってゆっくりと海面へ浮かび上がってくるのを体感していた。

「……その話、どこで聞いたんですか」

 自分でも驚くほど、今度は自然に声が喉を通り抜けた。

 ミオは意外そうに少しだけ丸い目をみはったが、すぐに合点がいったように、柔らかく目元を緩めた。

「島の人なら、子供のころからみんな知っていますよ。澪のお話は、この島に染みついている“潮の記憶”みたいなものですから」

「潮の……記憶」

「ええ。潮が満ちたり引いたりするのを止められないみたいに、島で生きる人の心に、ずっと残り続けているんです。世の中には、忘れたくても、どうしても忘れられないものってありますよね」

その一言が、僕の胸の最も柔らかい場所に深く突き刺さった。

 僕にも、忘れたくても忘れられない言葉がある。

 他人の原稿を厳しく精査する編集者として、あるいは自ら物語を紡ぐ作家として、これまでの人生で何度も命を削るように向き合ってきた言葉たち。

 けれど今の僕にとっては、そのどれもが分厚い霧の向こう側に霞んでしまっていて、手を伸ばしても指をすり抜けていく。

「あなたも、何か大切なものを忘れに来たんですか」

 ミオは灯籠を両手でしっかりと抱えたまま、首を少し傾げて静かに尋ねた。

 僕はすぐに答えることができなかった。

 自分は東京の喧騒から逃れ、すべてを忘れにここへ来たのだろうか。それとも、失った何かを必死に思い出しにきたのだろうか。自分自身の輪郭さえ、今の僕にはよく分からなかった。

「……分からないんです」

 ようやく唇の隙間から漏れ出た声は、あまりに弱々しく、今にも波の音にかき消されてしまいそうだった。

 しかし、ミオは僕のその曖昧な答えを拒絶することなく、ただ深く、優しく首を縦に振った。

「分からないままでいいんですよ。潮だって、自分がどうして満ちるのか、その理由を誰にも説明したりしないでしょ?」

 そのあまりに突飛で、けれど確かな説得力を持つ言い回しに、僕は張り詰めていた頬の筋肉が緩み、思わず小さく吹き出しそうになった。

 けれど、声を立てて「笑う」という行為の感覚が久しぶりすぎて、歪な表情が作られただけだった。

「でもね……」

 ミオは足元を照らすように、灯籠をそっと前方に掲げた。

 「潮が満ちてくるときは、海の底から必ず何かが戻ってきます。伝説の澪も、みなとも、そして──あなたも」

湊。

 唐突に現れた、伝説に出てくるもうひとりの登場人物の名前が、潮騒の激しさとともに耳の奥に残響した。

 ミオはその名前を口にした瞬間、まるで自分のなかの、触れてはいけない遠い記憶の箱を開けるような、切なく張り詰めた表情をみせた。

「湊は、あの子の灯りを信じて、嵐の海を渡ったんです。澪が掲げる、あの小さな灯籠の火を見つけるためだけに」

「でも……戻らなかったんですよね」

「伝説の結末では、そうなっています」

 ミオはそこで一度言葉を区切り、寂しげに微笑んだ。

 「でも、それが本当の真実かどうかは、誰にも分からないんです。海はいつだって、大事なことを全部は語ってくれないから」

そのミオの言葉に、僕はなぜか救われたような、奇妙な安堵感を覚えていた。

 語られなかったこと。

 語ることができなかったこと。

 かつて活字の世界で生きていた僕は、あらゆる物事に明晰な言葉の定義を求めていた。けれど、その「語られなかった余白」のなかにこそ、人間の一番本質的な真実が潜んでいるのかもしれない──そんな実感が、静かに胸を震わせる。

「あなた、明日もこの島にいますか」

 去り際の気配を滲ませながら、ミオがふいに問いかけてきた。

「……たぶん、いると思います」

「よかった。じゃあ明日、少し島を一緒に歩きませんか。あなたに、島の“言葉”を見せたい場所があるんです」

言葉を「見せる」──。

 元編集者である僕の常識からは外れたその奇妙な表現が、なぜか強く心を捉えて離さなかった。

 僕は喉を使わず、ただ大きく肯いた。

 言葉はまだ、僕の思い通りには外に出てくれない。けれど、彼女の差し伸べてくれた手に対して、深く頷くことならできた。

僕の返答を見て、ミオは今度こそ満足そうに、少女らしい笑みを咲かせた。

「じゃあ、また明日。潮がすっかり引くころに、この浜辺で」

灯籠を大切そうに抱えたまま、ミオは砂浜を滑るように去っていった。

 彼女の白いワンピースの背中が、急速に更けていく紫色の夕闇に溶けて見えなくなるのを、僕は立ち尽くしたまま、いつまでも視線で追いかけ続けた。

いつの間にか、潮は満ちきっていた。

 波が激しく足元の砂をさらい、そしてまた、約束されたように戻ってくる。

 その永遠のようにも思える往復の繰り返しを見つめながら、僕は、自分の失われた言葉たちもまた、この瀬戸内の海のどこかを漂い、いつか戻るべき岸辺を探しているのではないか、という気がしていた。

◆◆◆

シーン5

ミオの姿が見えなくなるまで、僕は海岸に立ち尽くしていた。

 潮が満ちていく音が、ゆっくりと足元を包み込むように響いていた。

 夕暮れの光は橋脚の影をさらに長く伸ばし、海面に揺れる光の帯が、どこか遠い記憶を呼び起こすようだった。

祖母の絵葉書。

 《潮が満ちるとき、灯りは戻る》

 あの言葉が、ミオの口から自然にこぼれたように思えた瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。

 偶然なのか、必然なのか。

 その境界が曖昧なまま、僕は海を見つめていた。

風が冷たくなり始めたころ、ようやく足を動かした。

 島の小さな道を歩きながら、潮の匂いが少しずつ身体に染み込んでいくのを感じた。

 ミオが言ったとおりだ。

 海の匂いは、すぐに染みつく。

宿に戻ると、部屋の窓から瀬戸大橋が見えた。

 夜の帳が降り始め、橋のライトがひとつずつ灯っていく。

 その光が海に反射し、ゆらゆらと揺れる。

 まるで、灯籠の火が海を漂っているようだった。

机の上に、祖母の絵葉書を置いた。

 裏の言葉を指でなぞる。

 《潮が満ちるとき、灯りは戻る》

 祖母はこの言葉を、誰から聞いたのだろう。

 島の伝説を知っていたのだろうか。

 それとも、ただの偶然なのか。

考えれば考えるほど、言葉は霧のように散っていった。

 けれど、散った言葉の欠片が、どこかでまた形を取り戻そうとしている気配があった。

窓を開けると、潮風が部屋に流れ込んだ。

 遠くで波が砕ける音がする。

 その音に耳を澄ませていると、ふいに胸の奥がざわついた。

──灯りが戻る。

その言葉が、なぜか強く響いた。

 戻るのは灯りだけではない。

 言葉も、記憶も、そして自分自身も。

 そんな予感が、潮の満ち際のように静かに押し寄せてきた。

ベッドに横たわると、疲れが一気に押し寄せた。

 目を閉じると、ミオの横顔が浮かんだ。

 灯籠を抱え、海を見つめる姿。

 その背中には、伝説の澪の影が重なって見えた。

潮騒が遠くで響いている。

 その音に包まれながら、僕はゆっくりと眠りに落ちていった。

 言葉を失ったまま、しかしどこかで、言葉が戻る気配を感じながら。

◆◆◆

シーン6

翌朝、目が覚めると、部屋の空気がわずかに潮の匂いを含んでいた。

 窓を開けると、朝の光が瀬戸大橋の鉄骨を淡く照らしていた。

 昨夜の灯りの揺らぎが、まだどこかに残っているような気がした。

シャワーを浴び、簡単に身支度を整えると、宿の食堂へ向かった。

 朝食の席からも海が見えた。

 島の朝は静かだ。

 都会のようなざわめきはなく、聞こえるのは波の音と、遠くを走る貨物列車の低い響きだけだった。

食事を終え、海岸へ向かう道を歩く。

 昨日と同じ場所に立つと、潮はちょうど引き始めていた。

 ミオが言っていたとおりだ。

 潮が引くころに、またここで──。

しばらく待っていると、砂を踏む軽い足音が近づいてきた。

 振り向くと、ミオが灯籠を抱えて立っていた。

 白いワンピースではなく、今日は薄い藍色のカーディガンを羽織っている。

 それでも、彼女の周りには淡い光が漂っているように見えた。

「おはようございます」

 ミオは柔らかく微笑んだ。

 「来てくれて、よかった」

その言葉に、胸が少しだけ温かくなった。

 僕は軽く頷いた。

 言葉はまだうまく出ないが、ミオはそれを気にしていないようだった。

「今日は、島の“言葉”を見に行きましょう」

 ミオは灯籠を抱え直し、海岸沿いの小道を歩き始めた。

 僕もその後ろをついていく。

小道の脇には、潮に削られた岩が並び、ところどころに小さな祠があった。

 そのひとつひとつに、誰かが置いた小石や貝殻が供えられている。

 ミオは歩きながら、ふと立ち止まった。

「ここ、澪がよく座っていた場所なんです」

 「……伝説の?」

 「ええ。潮が満ちるのを待ちながら、灯籠の火を見つめていたって」

ミオは岩に触れた。

 その指先が、まるで記憶をなぞるようにゆっくりと動いた。

「澪は、灯りが戻るのを信じていたんです。

  たとえ嵐の夜でも、潮が荒れていても」

 「……戻らなかったのに」

 僕の言葉に、ミオは小さく首を振った。

「伝説では、そうなっています。でも……」

 ミオは海のほうを見つめた。

 「海は、全部を語らないんです。語らないことのほうが多い」

その言葉は、昨日よりも深く響いた。

 語られなかったこと。

 語れなかったこと。

 その余白に、何かが潜んでいる。

「あなたも、語らないことがあるんでしょう?」

 ミオは振り返らずに言った。

 「言葉を失うって、そういうことですから」

僕は返事ができなかった。

 図星を刺されたような痛みと、どこか救われるような感覚が同時に押し寄せた。

ミオは歩き出した。

 「大丈夫。言葉は、潮みたいに戻ってきますから」

その背中を見つめながら、僕は思った。

 ──この島に来たのは、偶然ではないのかもしれない。

◆◆◆

シーン7

前を歩くミオの藍色の背中を追いながら、未舗装の細い砂利道を一歩ずつ踏みしめていく。不思議なことに、沙弥島のまとう空気が、昨日よりもずっと身体の近くに感じられていた。

 鼻腔を満たす潮の匂いは濃く、頬を撫でる風はどこまでも柔らかく、なぜか幼い頃の記憶に触れるように懐かしい。初めて訪れたはずの辺境の島なのに、まるで遠い昔、僕はここで息をして暮らしていたのではないかという奇妙な錯覚さえ、静かに胸を去来していた。

「ここ、ちょっと見てください」

 ミオがふいに足を止め、振り返って細い指先で傍らの藪を示した。

 指さされた先には、半ば夏草に埋もれるようにして、古びた自然石の石碑が佇んでいた。苔むした灰色の表面には、歳月に洗われてすっかり丸くなった文字がひっそりと刻まれている。

 《潮の道 人の道》

「これはね、江戸時代か、もっと昔の旅人がこの島に書き残していった言葉だそうです」

 ミオは愛おしむように、石碑の滑らかな苔の感触に指先で触れた。

 「海というものは、国と国、人と人を隔てる『さかい』でもあるけれど、舟を出せばどこへでも行ける『道』でもある。人間の心もきっと同じなんだって、その旅人は言いたかったみたいです」

その言葉は、僕がずっと胸のポケットに忍ばせている、祖母の絵葉書の筆跡と不思議な深度で響き合っていた。

 海は、すべてを隔てる境界であり、すべてを繋ぐ道でもある。

 ならば、僕が失ってしまった「言葉」というものもまた、人と人との間に横たわる境界であり、同時にそれを乗り越えて繋がるための道なのかもしれない。

「あなたは、ご自分のことをどちらだと思いますか」

 ミオが不意に振り返り、悪戯っぽく、けれど射抜くような黒い瞳で僕を見つめた。

 「何かと何かの境界に立ち尽くしている人ですか、それとも、新しい道を歩いている人ですか」

あまりにも本質を突いた突然の問いかけに、僕は息を詰まらせた。

 他人が紡いだ言葉の境界線で見張り番をするだけの編集者なのか。それとも、自らの言葉で荒野に道を切り拓く作家なのか。どちらの覚悟も持てないまま、僕はただその真ん中で立ちすくんでいたのではないか。

 自分でも、その答えが分からなかった。

「……分からない、んです」

 ようやく喉の奥から押し出した声は、ひび割れてはいたけれど、昨日よりはずっとはっきりと世界の空気を震わせていた。

 ミオは僕の戸惑いを見届けると、満足したように小さく微笑んだ。

「分からないならね、きっと今は『境界』の真上にいるんですよ」

「境界……」

「ええ。伝説の澪も、きっとそうだったんだと思います。海と陸のちょうど境界にあるあの岩に座って、灯籠を掲げながら、暗闇の向こうから誰かが戻ってくるのをただ待っていた」

澪の名前が彼女の唇からこぼれるたびに、僕の横隔膜のあたりが小さく震えた。ミオの声はどこまでも淡々としていて、波の音によく馴染んでいるのに、その立ち姿の奥に、何百年も前の澪の孤独な影が陽炎のように揺れている気がしてならなかった。

「境界に佇んでいる人はね、どちらの側にも行けるんです」

 ミオはふたたび、沖へと向かって引き続けている海のほうを見つめた。

 「過去へ戻ることも、まだ見ぬ未来へ進むこともできる。でもね、どちらにも行ける自由があるからこそ、人はひどく迷ってしまうんですよね」

その指摘は、僕自身の人生の停滞をそのまま鏡に映し出したかのようだった。

 編集者として他人の言葉に尽くす道も、作家として自分の言葉を世に問う道も、どちらの重みからも逃げ出して、僕は今ここにいる。声を失った今となっては、なおさら身動きが取れなくなっていた。

「でも、迷って立ち止まっている人ほど、言葉というものは戻りやすいんですよ」

 ミオは両腕のなかの灯籠を、子供を守るようにそっと抱きすくめた。

「満ちてくる潮が、誰にも止められないみたいに、自然な速度で戻ってくるの」

その瞬間、冷え切っていた僕の胸の底で、かすかな熱が灯るような感覚があった。

 言葉が、戻る──。

 東京で医者や上司から「精神的な疲労」と片付けられ、諦めかけていたその可能性を、こんなにも真っ直ぐに肯定されたのは、声を失って以来初めてのことだった。

「……どうして、そんなふうに言い切れるんですか」

 自分でも驚くほど、繕うことのない素直な響きを帯びた声が喉を通っていった。

 ミオは僕の声の滑らかさに気づいたように一瞬だけ睫毛を揺らし、それから、少しだけ寂しげに目を伏せた。

「私もね、ずっと待っているからですよ」

「待っている?」

「ええ、言葉を。どこか遠くへ行ってしまった、誰かの言葉を、ずっとここで待っているんです」

その寂寞を湛えた言い方は、あまりにもあの澪の伝説の影と重なりすぎていた。

 夜の海辺で灯籠を掲げ、戻らない灯りを待ち続けた娘。

 昼の光のなかに立つミオの細い肩に、その悲劇の輪郭がどうしても重なって見えてしまう。

「あなたの言葉も、焦らなくてもきっと戻ります」

 ミオはふたたび顔を上げ、確信を込めて静かに言った。

 「潮が満ちるとき、あの絵葉書のように、灯りが戻るみたいにね」

その言葉が、乾ききっていた僕の心に染み渡り、深い余韻を残した。

 遠くで瀬戸内の潮騒が、祝福するように重く響いている。その一定の律動に呼応するように、僕のなかで止まっていた時計の針が、ゆっくりと音を立てて動き始めていた。

◆◆◆

シーン8

ミオの静かな言葉が初夏の潮風に溶けていくのを鼓膜で受け止めながら、僕は自分の胸の奥を占拠していた重苦しい澱が、少しずつ別の何かに変質していくのを感じていた。

 なぜ言葉を失ってしまったのか、東京の誰にも、そして自分自身にさえ説明することができなかった。理由を言葉にしようとすればするほど、防衛反応のように喉の筋肉が硬直し、呼吸さえ奪われてしまうからだ。

 けれど、この不思議な少女の前でだけは、僕のその見苦しい沈黙が、いっさい責められることも、急かされることもなかった。

「こっちです。少し足元が悪いから気をつけて」

 ミオは小道を外れ、シダ植物の生い茂る、少し小高い丘へと向かって歩みを進めた。

 踏みしめる草の青い匂いが一気に濃くなり、潮風に混じって、太陽に温められた土の匂いが立ち上ってくる。その坂道を登りきった突端に、ひっそりと佇む小さな石の祠があった。

「ここが、島の人たちが昔から大切にしている『澪の祠』なんです」

 ミオは腕に抱えていた灯籠を砂地へそっと置き、祠の前にそっと膝をついた。

 「島の人はね、今でもここで時々、小さな灯りを供えるんですよ。海へ還ってしまったあの子の魂が、暗闇の中で迷ってしまわないようにって」

祠は片手で抱えられるほど小さく、何百年もの風雨と塩害にさらされて、表面の石は白く風化していた。けれど、その佇まいには冷たさはなく、どこか不思議な人肌の温かみが残っている。名もなき島の人々が、長い時間をかけて祈りを繋ぎ、守り続けてきた場所だけが持つ、独特の静謐な気配だった。

「澪は、あの一夜からいっさいの声を失ったと言われています」

 ミオは祠の前に小さな両手を合わせたまま、目を閉じて静かに言葉を紡いだ。

 「海の向こうからの灯りが途絶えてしまったその瞬間から、ずっと、最期の日まで」

その澪の境遇が、鋭い針となって僕の胸を刺した。

 声を失うこと。大切な言葉をすべて奪われてしまうこと。

 何百年も前の伝説の娘が抱えたであろう底なしの静寂と、今の僕を苦しめている沈黙が、まるで見えない一本の糸で繋がっているかのように思えたのだ。

「でもね、私は少し違うことを思うんです」

 ミオはゆっくりと目を開け、祠を見つめたまま顔を上げた。

 「澪はね、本当はショックで声を失ったんじゃなくて……誰かを想う言葉を自分のなかに抱え込みすぎて、あまりの重さに、外へ出せなくなっちゃったんじゃないかって」

そのミオの推測に、僕は頭を殴られたような衝撃を覚え、一瞬、呼吸をすることを忘れた。

 言葉を、抱えすぎて、出せなくなる──。

 それはまさに、僕の喉の奥に落ちた「見えない蓋」の本質そのものではなかったか。編集者として他人の膨大な言葉を処理し、作家として自分の内なる声を絞り出そうとし、そのすべての言葉の洪水に溺れて、僕は声をなくしたのだ。

「誰かを熱烈に想う気持ちとか、何かを伝えたいっていう祈りはね、時々、言葉という器の容量よりもずっと重くなってしまうんです」

 ミオは祠の前に置いた灯籠の、白い和紙を愛おしそうに指先でそっと撫でた。

 「澪は、海の向こうにいる湊の灯りを、誰よりも強く信じていた。その祈りの重さに言葉が耐えきれなくなって、だから、出なくなったんじゃないのかな」

湊。

 嵐の海に消えたという、伝説の漁師の名前が、激しさを増す潮騒に混じって耳の奥に心地よく残響する。ミオがその名を口にするとき、彼女の横顔には、いつも言葉にできない切ない陰影が滲んでいた。

「あなたも、きっと何かを激しく想っていたんでしょう?」

 ミオは祠に向き合ったまま、振り返らずに、けれど確信に満ちた声でつぶやいた。

 「自分のなかの言葉の器が、壊れてしまうほどに」

胸の奥の、最も深い場所が大きく揺さぶられた。

 誰かを、何かを、強く想っていた。確かにその通りだ。けれど、そのあまりに肥大化した想いは適切な言葉の形を結ぶことができず、ただ沈黙という深い海の底に、澱のように沈んでいくしかなかったのだ。

「……どうして、そんなことまで分かるんですか」

 ようやく唇の隙間から這い出た声は、小さく、けれど明らかな震えを伴っていた。

 ミオは膝を払いながら、ゆっくりと僕のほうを振り返った。

「あなたのその沈黙がね、決して空っぽなんかじゃないからです」

「……」

「何も入っていない空っぽの静けさと、何かが溢れそうになっている満ちていく沈黙ってね、全然違うんですよ。あなたの沈黙は、後者です。まるで、大きな波が押し寄せてくる直前の、満ち潮の海みたいに、たくさんの言葉が満ちている」

その言葉が、僕の心の最深部にまで届き、静かに、優しく沈み込んでいった。

 満ちている沈黙。

 声を失って以来、世間から「機能不全」のように扱われてきた僕の静寂を、これほどまでに肯定的な「満ち引きの予兆」として捉えてくれた人は、どこにもいなかった。

ミオは砂の上の灯籠をふたたび大切そうに抱え直し、すっ、と高台の上に立ち上がった。

「潮が満ちるとき、灯りは必ず戻るんです」

 彼女が繰り返したその誓いのような言葉は、昨日よりもずっと鮮明に、力強く僕の鼓膜に響いた。まるで、今まさに境界線で迷っている僕の背中を、優しく押し進めるかのように。

高台の祠の前で、沖からの強い風が吹き抜け、ミオの抱える灯籠の白い紙がカサカサと小さく揺れた。

 そのかすかな紙の震えが、僕の止まっていた人生の、新しい“始まり”を告げる鐘の音のように思えてならなかった。

◆◆◆

シーン9

高台の祠をあとにすると、私たちの身体を叩く潮の匂いが一段と濃密さを増していった。

 沖から吹き付ける風が草木を揺らすたび、眼下に広がる海と、今私たちが立っている陸との境界線が、陽炎のように曖昧に揺らいで見えた。

 ミオはあの古びた灯籠を両手でしっかりと抱えたまま、迷いのない足取りでゆっくりと坂道を下りていく。

 その少しだけ先を行く藍色の背中を追いながら、僕は、自分の胸の最深部に澱のように沈んでいた沈黙が、その輪郭を少しずつ、柔らかなものへと変え始めているのを実感していた。

「この島、とても静かでしょう」

 斜面を降るミオが、前を向いたままふいに声をこぼした。

 「でもね、静かだからこそ、普段はかき消されてしまういろんな声が、耳の奥まで届くんです」

「声……?」

 僕の喉から漏れた掠れた問いかけに、ミオは歩調を緩めて優しく肯いた。

「潮の満ち引きの音、岬をめぐる風の音、渡り鳥の鳴き声。……それからね、大昔にこの島で生きていた人たちが、砂や岩に遺していった、言葉の声」

 ミオは坂の途中でふと足を止め、どこまでも平穏な海を見つめた。

 「何百年も前に声を失って海へ還ったという、あの澪の声だって、きっと今もこの潮騒のどこかに残っているんです」

そのあまりにも確信に満ちた言葉に、僕の横隔膜のあたりが小さくざわめいた。

 声を失って死んでいった娘の、その声が今も残っている──。

 一見すればひどい矛盾を含んだその言葉が、なぜか今の僕の心には、不思議なほどすとんと腑に落ちたのだった。

「だからね、あなたの声だって、世界のどこかにはちゃんと残っていますよ」

 ミオはゆっくりと振り返り、その無垢な黒い瞳で、まっすぐに僕の目を射抜いた。

 「今はただ、出すための出口が見つからなくて内側に留まっているだけで、あなたのなかから消えてなくなったわけじゃないの」

その一言は、東京の病院で受けたどんな高名な医師の診断よりも、どんな同情の言葉よりも、確かな灯火となって僕の心の空洞を照らした。

 僕はその感謝を伝えるために唇を開いたが、一瞬、焦燥が呼び水となったのか、喉の器官がキュッと小さく収縮する。やはりまだ、声にはならない。

 けれど、ミオはその僕の不器用な拒絶を責めることなく、ただすべてを見通したような、凪いだ微笑みを浮かべてくれた。

「言葉というものは、本当に不思議な存在ですよね」

 ミオは腕の中の灯籠を愛おしそうに抱え直した。

 「出ないときは、どれだけ血眼になって自分の中を探し回っても一文字も見つからないのに……戻ってくるときはね、堰を切ったみたいに、潮のように一気に満ちてくるものなんです」

潮が、満ちてくる。

 そのフレーズが、僕のポケットにある祖母の絵葉書に刻まれた、あの文字と完全に同調した。

 《潮が満ちるとき、灯りは戻る》

 かつて祖母が記したその言葉の意味が、今、ミオの声を借りて、僕の胸の奥底でかつてない強さで鳴り響いていた。

「……どうして、初対面のはずの僕に、そんなことまで言ってくれるんですか」

 自分でも驚くほど、余計な虚飾を取り払った素直な響きを帯びた声が喉を通っていった。

 ミオは僕の声の確かな回復を喜ぶように一瞬だけ目をまたたかせ、それから、少しだけ目を伏せた。

「あなたのその沈黙がね、伝説の中の澪の沈黙と、あまりにもよく似ているからですよ」

「澪の……?」

「ええ。澪はね、哀しみで声をなくしたんじゃなくて、湊を想うあまりに言葉を抱え込みすぎてしまったの。……あなたも、きっと同じ。何か大切なものを、自分のなかに抱え込みすぎてしまったんだと思います」

胸の最深部が、今度は痛みを伴って激しく揺さぶられた。

 抱えすぎて、出せなくなる。

 他人の原稿の文字、自分の小説の文字、世間の評価、未来への不安──その膨大な言葉の奔流に溺れ、喉が閉じてしまったという僕の本質を、この少女はまるで自分自身の痛みであるかのように正確に理解してくれていた。

「だからね、私はあなたに、もう一度言葉を取り戻してほしいんです」

 ミオは灯籠を愛おしそうに胸に抱いたまま、決意を秘めた声で静かに言った。

 「あの暗い海で、澪が最期まで待ち続けた湊の灯りみたいに、あなたの言葉も、きっとこの島で戻るから」

その瞬間、僕の喉の奥の「見えない蓋」が、かすかに浮き上がるような不思議な震えを感じた。

 言葉が、戻る。

 声を失って以来、ただの機能不全として扱われてきた僕の静寂を、これほどまでに肯定的な予兆として待ってくれる人が、この世界にいたのだ。

ミオはふたたび、満ち始めて白波を立てる海のほうへと視線を向けた。

 寄せる波が砂をさらい、また約束されたように戻ってくる。その悠久の往復の繰り返しを見つめながら、僕は、自分の頑なだった沈黙が、少しずつ、けれど確実に揺らぎ始めているのを確かに感じていた。

「明日、また一緒に歩きましょう」

 ミオはそう言って、灯籠を抱えたまま、夕暮れの海岸の向こうへと歩み去っていった。

 彼女の藍色の後ろ姿が、金色から紫へと移り変わる劇的な夕光のなかに溶けて見えなくなるのを、僕は立ち尽くしたまま、いつまでも視線で追いかけ続けた。

──僕がこの島に導かれたのは、決して偶然なんかじゃない。

 そんな静かな、けれど揺るぎない確信が、満ち潮の最初のひと波のように、僕の心へ静かに押し寄せていた。

◆◆◆

シーン10

小さな宿へと続く夜道を一歩ずつ踏みしめて歩きながら、僕は何度も、吸い寄せられるように背後の海を振り返っていた。

 ミオの姿は、もうとっくに夜の闇に紛れて見えなくなっている。

 けれど、彼女が抱えていた灯籠の白い和紙が、瀬戸内の強い夕光を受けて淡く発光していたあの鮮烈な光景が、今も網膜の裏に焼きついて離れなかった。

遠くの暗闇から、潮が満ちていく重厚な足音が、波の音となって響いてくる。

 その一定の律動に歩調を合わせるように、僕の胸の奥でも、何かがゆっくりと、けれど確実に形を変えて動いていた。

 深い沈黙の底に沈殿し、凍りついていたはずの僕の言葉たちが、かすかな浮力を得て揺れ始めている。

手配していた宿の部屋に戻ると、窓の外の世界はすっかり深い濃紺の夜色に塗り替えられていた。

 海を跨ぐ瀬戸大橋の長大なライトアップが、漆黒の海面に反射し、波の揺らぎに合わせてゆらゆらと黄金色の光の糸のように震えている。

 その人工的な光の揺らぎさえ、今の僕の目には、あの少女が掲げていた灯籠の火の幻影のように見えてならなかった。

机の上に置いておいた、祖母の一枚の絵葉書をそっと手にする。

 《潮が満ちるとき、灯りは戻る》

 かすれた万年筆の筆跡を乾いた指先で丁寧になぞると、凍りついていたはずの胸の底が、じわりと人肌の温かみを取り戻していくのが分かった。

──灯りは、必ず戻る。

 ──ならば、僕の言葉も、いつか必ず戻る。

そんな抗いようのない予感が、満ち潮の最初のひと波のように、僕の心へと静かに、しかし力強く押し寄せていた。

ベッドの端に腰を下ろし、一度深く、長く息を吸い込んでみる。

 初夏の湿り気を帯びた潮の匂いが、肺の奥の隅々にまで満ちていく。

 ほんの数十時間前、東京の駅で絶望に暮れていた自分とは、まったく違う世界の空気を吸っているような、奇妙な高揚感があった。

目をとじると、今日ミオが僕の胸に遺していった言葉たちが、鮮やかな文脈を持って蘇ってくる。

 『あなたの沈黙は、空っぽなんかじゃない』

 『潮が満ちるとき、灯りは戻る』

 『大丈夫。言葉は、いつか必ず戻ってきます』

そのひとつひとつのフレーズが、僕の心の空洞へ静かに沈み込んでいく。

 不思議なことに、それは重苦しい澱にはならなかった。むしろ、暗い暗い底深い場所で、自ら微かな光を放つ、小さな灯火のようになって僕の精神を支えてくれる。

窓の外に目をやると、瀬戸内の海は黒く静まり返り、巨大なインフラの光だけを宿していた。

 波の音だけが、世界の呼吸のように一定のリズムで響き渡っている。

 その深い音の毛布に耳を澄ませていると、不意に、胸の奥が心地よく震えた。

──明日も、僕はあの浜辺で、ミオに会う。

 そのきわめて単純な、けれど確かな約束の事実が、なぜか僕の胸を強く打った。

旅が、始まる。

 そんな瑞々しいフレーズが、僕の脳裏に自然な速度で浮かび上がった。

 それはまだ、声という形になって外の世界へ響き渡ることはない。

 けれど、他人の文字ではない、僕自身の内なる「言葉」として、確かに胸の中にその産声を上げていた。

灯籠の火が戻るように、僕の言葉もまた、いつか必ず戻ってくる。

 その確かな予感の温もりを抱きしめたまま、僕はゆっくりとまぶたを閉じた。

遠い潮騒が、子守唄のように部屋を漂っている。

 その底知れない音の波に包まれながら、僕は静かに、深い眠りへと落ちていった。

 明日、またあの美しい海で、潮が満ちるその瞬間を待つように。




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