第33話 迷宮の奥──鎖に繋がれた影
隠し通路から戻ったドロルは、しばらくその場に立ち止まった。
胸の奥に、冷たいざわつきが残っている。
恐怖ではない。
長年の経験からくる“嫌な予感”だ。
窮奇が横で静かに気配を探っていた。
「……窮奇。さっきの影、ただの魔獣じゃないな」
ドロルの声は落ち着いていた。
驚きや怯えではなく、状況を冷静に分析する者の声だ。
窮奇は低く唸った。
「主殿の察しの通りだ。
あれは自然に生まれた魔獣ではない。
魔力の濁り方が異常だ」
「濁り方……か」
ドロルは目を細めた。
魔獣の魔力は、これまで何度も見てきた。
だが、あの影は違った。
迷宮の魔力とは別の、人工的な匂いが混じっていた。
「魔道具の匂いがしたな。
魔獣に魔道具の匂いが混じるなんて、普通はあり得ない」
窮奇は頷いた。
「儂も同じ感想だ。
あれは“育てられた魔獣”だろう。
迷宮の魔力を吸わせて成長させている」
ドロルは静かに息を吐いた。
「……ろくでもない連中がいるらしい」
その言い方は淡々としていたが、
その奥には確かな怒りがあった。
***
迷宮の低層は、異様なほど静かだった。
魔獣の気配がほとんどない。
「静かすぎるな」
ドロルは周囲を見渡した。
「低層はもっと雑音が多いはずだ。
魔獣の足音、冒険者の声……
それがまるで消えている」
窮奇は鼻を鳴らした。
「魔獣が逃げているのだ。
あの影の気配を恐れている」
「魔獣が恐れるほどの存在……か」
ドロルは足元に落ちている金属片に気づいた。
拾い上げると、それは隣領の兵士の装備の一部だった。
「……隣領の兵士の装備だな」
窮奇は匂いを嗅ぎ、眉をひそめた。
「間違いない。
野営地で儂が倒した兵士と同じ匂いだ」
ドロルは装備を見つめながら、淡々と言った。
「兵士が迷宮に入った理由は……
考えたくはないが、ろくでもない目的だろう」
窮奇は静かに言った。
「主殿、兵士たちは“餌”だったのかもしれぬ」
ドロルは表情を変えずに答えた。
「だろうな。
装備だけが残っているのが、その証拠だ」
淡々とした口調だが、
その奥には冷たい怒りが滲んでいた。
***
その時──
隠し通路の奥から、重い音が響いた。
ガラガラ……ガンッ。
鎖が擦れる音。
壁を叩くような鈍い衝撃。
ドロルは反射的に振り返ったが、
その表情は驚きではなく、警戒と分析だった。
「……鎖だな」
窮奇は翼を広げ、ドロルを庇うように前へ出た。
「主殿の察しの通りだ。
影の魔獣は、鎖で拘束されている」
「誰かが飼っている……ということか」
「隣領の領主か、その配下だろう。
兵士の装備があったのは、魔獣の“餌”として使われたからだ」
ドロルは静かに息を吐いた。
「……人間は、禁忌を前にすると平気で踏み越える。
迷宮を私物化する連中がいるのは確かだ」
その言葉は淡々としていたが、
その奥には深い軽蔑があった。
***
通路の奥から、魔力の波動が揺れた。
ドロルの体が微かに熱を帯びる。
窮奇が気づいた。
「主殿の魔力が反応している。
影の魔獣が主殿を認識したのだ」
「……面倒だな」
ドロルは冷静に言った。
「深入りすれば、あれが目を覚ます。
今の状況で戦うのは愚策だ」
窮奇は頷いた。
「賢明だ、主殿」
ドロルは通路の奥を一度だけ見つめた。
薄暗い闇の中で、巨大な影がゆっくりと揺れた。
その影は、こちらを見ているようだった。
「引くぞ、窮奇。
今はまだ、奥へ行くべきじゃない」
二人は迷宮の入口へ向かった。
***
入口に戻ると、ギルド職員が怯えた顔で話しかけてきた。
「……最近、迷宮で行方不明者が増えてるんです」
ドロルは落ち着いた声で返した。
「低層でか?」
職員は震える声で頷いた。
「はい……低層なのに、帰ってこない人が……
魔獣の仕業とは思えなくて……」
窮奇は静かに言った。
「主殿、あの影が原因だろう」
ドロルは迷宮の奥を振り返った。
その時──
迷宮の奥から、低く、重く、獣とも人ともつかない声が響いた。
「……アァ……」
ドロルは目を細めた。
「……生まれてはいけないものの声だな」




