第32話 迷宮の低層──静寂の壁と、隠された影
迷宮都市の朝は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
領主暗殺の噂が広まり、街の人々は不安げにささやき合っている。
そんな中、ドロルは窮奇と共に、薄汚れた魔導具屋へ向かっていた。
「シルクから聞いた野営道具は、この店で揃うと伺いました」
ドロルが静かに言うと、窮奇は鼻を鳴らした。
「主殿が前に腰痛を治した婆の店だな。偏屈だが、悪い奴ではない」
店の扉を開けると、埃っぽい空気と古い魔導具の匂いが漂った。
棚にはガラクタのような魔導具が雑然と並び、店内は薄暗い。
「おやぁ……誰かと思えば、痛みの坊やじゃないかい」
奥から現れたのは、背中の曲がった魔導具屋の婆さん。
しかし、ドロルを見ると目を細めて笑った。
「この前は助かったよ。腰が軽くてねぇ……
あんたのスキルは本物だよ。ありがとね」
ドロルは軽く頭を下げた。
「いえ、少し手を貸しただけですよ」
婆さんは手を振りながら言った。
「で、今日は何を買いに来たんだい?
ローラの嬢ちゃんに紹介された時以来だねぇ」
「迷宮で野営するための道具を。
冒険者の先輩に必要なものを教えてもらいました」
婆さんは棚を漁りながら、次々と品物を積み上げていく。
「火起こし魔石、簡易結界札、保存食の魔導袋……
あとは寝袋代わりの魔布だね。これがあれば寒くないよ」
ドロルは一つひとつ確認しながら受け取った。
「助かります。これで迷宮でも不自由せずに済みそうです」
婆さんは鼻を鳴らした。
「礼なんていらないよ。
あんたはあたしの腰を救ってくれたんだ。
それに……聖獣の坊やもいるしねぇ」
窮奇は誇らしげに胸を張った。
「儂は窮奇。主殿の眷属だ」
婆さんは笑いながら手を振った。
「はいはい、分かったよ。
気をつけて行きな。迷宮は最近、妙な噂が多いからね」
ドロルは軽く会釈し、窮奇と共に店を後にした。
***
迷宮都市の中心にそびえる巨大な塔──
その地下に広がる迷宮は、冒険者たちの憧れであり、恐怖でもある。
迷宮の入口に着いたドロルは、周囲を見渡した。
「……様子がおかしいな。普段と空気が違う」
窮奇は低く唸った。
「主殿、迷宮の奥から妙な気配がする。
魔獣の気配ではない……もっと濁ったものだ」
ドロルは静かに頷き、迷宮へ足を踏み入れた。
***
迷宮の低層は、初心者向けの安全な階層だ。
しかし、今日は魔獣の姿がほとんど見えない。
「魔獣の気配が薄い。低層にしては静かすぎる」
窮奇は鼻を鳴らした。
「儂がいるからだ。
魔獣は聖獣の気配を嫌う」
「窮奇がいると魔獣が寄りつかないのは助かるが……
迷宮全体の雰囲気が妙だ」
しばらく進むと、窮奇が突然立ち止まった。
「主殿……この壁の向こうに、何かいる」
ドロルは壁に手を触れた。
すると──壁が淡く光り、音もなく横に滑った。
「……隠し通路か。低層にこんな仕掛けがあるとはな」
通路の奥は薄暗く、冷たい空気が流れている。
ドロルは慎重に足を踏み入れた。
通路の中には──
隣領の兵士の装備が散乱していた。
「これは……隣領の兵士の装備だな」
窮奇は装備を鼻で嗅ぎ、眉をひそめた。
「間違いない。
野営地で儂が倒した兵士と同じ匂いだ」
ドロルは装備を見つめながら言った。
「兵士が迷宮に入った理由は……
考えたくはないが、良からぬ目的だろう」
窮奇は周囲を見渡しながら言った。
「理由は分からぬ。
だが……迷宮の奥で何かが起きているのは確かだ」
ドロルは静かに息を吐いた。
「胸騒ぎがします。迷宮の奥で何かが起きているようですね」
通路の奥から、重い気配が漂ってきた。
薄暗い闇の中に──巨大な影がゆっくりと動いた。
「……魔獣か。いや、魔獣にしては気配が重すぎる」
窮奇は翼を広げ、ドロルを庇うように前へ出た。
「主殿、まだ戦わぬ。
あれは……この階層に出るような魔獣ではない」
影はこちらを見ているようだった。
しかし、動く気配はない。
ドロルは静かに判断した。
「引くぞ、窮奇。今の状況で深入りするのは得策じゃない」
窮奇は頷き、通路を後にした。
迷宮の低層は静かだったが、
その奥には確かに“何か”が潜んでいた。
そして──
その影は、迷宮都市の陰謀と深く繋がっているのだった。




