表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『黒衣のバーテンダー ― 異世界の夜を満たす―』   作者: 蒼井 律
第八章:【星屑のトワイライト編】
PR
42/42

第四十夜:白亜の記憶に、乾杯を

 深い夜の帳が、王都を静かに包んでいた。


 見上げれば、雲ひとつない夜空。


 無数の星々が、まるで地上を見守るように瞬いている。


 その中でも、ひときわ青白く輝く一つの星があった。


 王都の最も高い広場。


 その中央に、銀髪の少女は静かに立っていた。


 その身体には、もう最初の夜のような不安定な光はない。


 銀色の髪。


 透き通る瞳。


 そして背中には、星々の光を集めたような、美しい翼が広がっている。


「……ここからなら、帰れる」


 少女は夜空を見上げた。


 胸の奥に、不思議な感覚がある。


 ずっと忘れていた何かが、もうすぐ手の届くところまで戻ってきている。


 怖くないと言えば、嘘になる。


 けれど――もう、ひとりではない。


 振り返る。


 そこには、黒衣のバーテンダーが静かに立っていた。


「マスター……」


「はい」


「本当に、ありがとう」


 少女は小さく笑った。


「私、ここへ落ちてきたとき、自分が誰なのかも分からなかった」


 その声には、もう震えがない。


「何も思い出せなくて……怖くて……このまま消えてしまうんじゃないかって思ってた」


 蓮は黙って聞いていた。


「でも」


 少女は胸元に手を当てる。


「温かい飲み物をくれた」


 指を一本立てる。


「スミレのカクテルも」


 二本目。


「夜市にも連れて行ってくれた」


 三本目。


「黒い麦酒も……美味しかった」


 少女は少しだけ笑う。


「苦かったけど」


「それは何よりです」


 蓮も微笑んだ。


「そして……」


 少女は夜空を見上げる。


「私の光は、ちゃんと私の中に残ってた」


 その身体から、淡い銀色の光がこぼれた。


「マスターが教えてくれた」


「私は何も教えていませんよ」


「ううん」


 少女は首を横に振った。


「マスターが、私を急かさなかったから」


 その言葉に、蓮は静かに目を細めた。


「思い出せなくてもいいって言ってくれた」


「……」


「だから、私は少しずつ思い出せたんだと思う」


 少女の瞳に、透明な涙が浮かんだ。


「もし、あの夜ここに来てなかったら……」


 少女は言葉を止めた。


 そして、深く息を吸う。


「たぶん、私は自分が誰なのかも分からないまま、夜空のどこかで消えてた」


「ですが、あなたはここへ来ました」


 蓮は穏やかに答えた。


「そして、今は帰ることができます」


「……うん」


 少女は頷いた。


 やがて、彼女の背中に広がった光の翼が、大きく揺らめいた。


 夜空の星々が呼応するように、一つ、また一つと強く瞬いていく。


「そろそろ……行くね」


「はい」


「寂しくない?」


「少しだけ」


 蓮は正直に答えた。


 少女は目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「そっか」


 少女は一歩、蓮へ近づいた。


「じゃあ……私も少しだけ寂しい」


 二人の間に、静かな夜風が流れた。


 少女は小さく頭を下げる。


「でも、行かなきゃ」


「ええ」


「私の帰る場所だから」


「ええ」


 蓮は頷いた。


 それ以上、何も言わなかった。


 少女も何も言わなかった。


 ただ、二人はしばらく夜空を見上げていた。


 やがて――。


 少女の身体が、ふわりと宙へ浮かび上がる。


 銀色の光が、足元から夜空へ向かって広がっていく。


「マスター!」


 少女が振り返った。


「はい」


「私、忘れないよ!」


 蓮は静かに笑った。


「私も忘れません」


「絶対だよ!」


「ええ」


 少女は満面の笑みを浮かべた。


 そして――。


 夜空へ向かって、一気に舞い上がった。


 銀色の翼が大きく広がる。


 無数の光の粒が、その軌跡を追いかける。


 まるで、一人の少女が星そのものへ戻っていくようだった。


「……さようなら」


 蓮が小さく呟く。


 少女の姿は、どんどん小さくなっていく。


 やがて銀色の光は、夜空の星々へ溶け込んだ。


 ――その瞬間。


 一際大きな光が、夜空に瞬いた。


 蓮は静かにそれを見つめていた。


 そして、ほんの少しだけ微笑む。


「また、いつか――」


 その言葉が夜風に溶けた。


 蓮はゆっくりと踵を返した。


 王都の静かな路地を歩き、『白の記憶』へ戻っていく。


 カラン。


 重厚な木の扉を開ける。


 いつもの店内。


 いつものカウンター。


 いつものグラス。


 けれど――。


 今夜だけは、少しだけ違って見えた。


 蓮は少女が座っていたカウンター席へ目を向けた。


 そこには、彼女が最後に使っていたグラスが置かれている。


 蓮はそれを手に取った。


 そして、丁寧に布で磨き始める。


 透明なガラスに、店内の灯りが映る。


 そのとき――。


 カウンターの上で、小さな音がした。


 ――カラン。


「……?」


 蓮が目を向ける。


 そこに落ちていたのは、小さな銀色の欠片だった。


 星屑のように淡く輝いている。


 蓮はそれを指先で拾い上げた。


 すると――。


 銀色の光が、ほんの一瞬だけ文字の形を描いた。


 ――ステラ。


 蓮は静かに目を細めた。


「……そうですか」


 少女が最後に取り戻したもの。


 それは、自分の名前だった。


 きっと、帰る直前に思い出したのだろう。


 けれど、それを言葉にする時間はなかった。


 だから――。


 この小さな星屑に、自分の名前を残していった。


 蓮は銀色の欠片を、カウンターの奥にある小さな器へそっと置いた。


 そこには、これまでの客たちが残していった小さな思い出がいくつか並んでいる。


 勲章。


 古いコイン。


 小さな木片。


 そして今夜――。


 一粒の星。


 蓮はその器を見つめ、静かに微笑んだ。


「ステラ……」


 名前を、もう一度だけ口にする。


 それから蓮は、棚から一枚のカクテルグラスを取り出した。


 シェーカーにジンを注ぐ。


 コアントロー。


 フレッシュなレモンジュース。


 そして氷。


 蓮は静かにシェイクした。


 シャカ……。


 シャカ……。


 夜の静寂の中で、氷の音だけが響く。


 やがて、雪のように白く、凛とした一杯がグラスへ注がれた。


「『ホワイト・レディ』」


 誰もいない店内で、蓮は小さく呟いた。


 カクテル言葉は――。


 『いつまでもあなたを忘れない』。


 蓮はグラスを手に取った。


 口に含む。


 キリッとしたレモンの酸味。


 ジンの清涼感。


 そして、コアントローの上品な甘み。


 それは別れの寂しさを紛らわせるための味ではなかった。


 忘れないための味。


 この夜に出会った、一人の少女のことを。


 自分の名前すら忘れていた、星屑のような少女のことを。


 そして――。


 自分の力で、自分の居場所へ帰っていった少女のことを。


 蓮は静かにグラスを置いた。


 窓の外。


 満天の星空の中で、一つの星が強く瞬いた。


 まるで――


 返事をするように。


 蓮はその星をしばらく見つめていた。


 やがて、いつものようにグラスを磨き始める。


 カチャ……。


 布がガラスを滑る。


 いつもの音。


 いつもの夜。


 けれど、カウンターの奥には、一つだけ新しいものが増えていた。


 一粒の星。


 そして、その星に刻まれた名前。


 ――ステラ。


 蓮はそれを見て、ほんの少しだけ微笑んだ。


 チートのような力がなくてもいい。


 世界を変える魔法がなくてもいい。


 迷い込んできた誰かに、一杯を差し出す。


 その人が自分自身を取り戻すまで、静かに隣にいる。


 それだけで――。


 一つの夜を、明け方へ変えることができる。


 カラン、と。


 そのとき、店の扉が鳴った。


 蓮は顔を上げる。


 そこには、また新しい夜の客が立っていた。


「いらっしゃいませ」


 穏やかな声が、静かな店内に響く。


 新しい客が、ゆっくりとカウンターへ歩いてくる。


 蓮はいつものようにグラスを手に取った。


 夜は、まだ終わらない。


 誰かが迷い。


 誰かが傷つき。


 誰かが、この扉を開ける限り。


 『白の記憶』の灯りは、静かに夜を照らし続ける。


 そして――。


 その夜空のどこかで。


 一つの星が、優しく瞬いていた。


 まるで、今夜もこの店を見守るように。


 星屑の少女――ステラの、帰るべき場所で。


第八章【星屑のトワイライト編】

――完――


第八章【星屑のトワイライト編】を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


今回は、これまでの一話完結型の物語とは少し趣向を変え、一人の少女を中心に、数夜にわたって物語を描いてみました。


記憶を失った少女。


自分が何者なのか分からない不安。


それでも、地上で出会った人々の温かさに触れ、少しずつ自分の光を取り戻していく。


そして最後には、自分の帰る場所へ――。


この章で描きたかったのは、「忘れないこと」だけではありません。


たとえ過去をすべて思い出せなくても、

そこで出会った人や、過ごした時間は、ちゃんと自分の中に残っていく。


そんな小さな奇跡です。


そして、最後に少女が残した名前。


――ステラ。


星という名前を持つ彼女が、夜空へ帰っていく。


そのあと、蓮が一人で作る『ホワイト・レディ』。


そこに込めた「いつまでもあなたを忘れない」という余韻が、今回の章の締めくくりになれば嬉しく思います。


『白の記憶』の夜は、まだ終わりません。


また次の夜。


誰かが扉を開けるでしょう。


その人がどんな悩みを抱えているのか。


どんな一杯を必要としているのか。


それは、まだ誰にも分かりません。


ただ一つだけ確かなのは――


この店の灯りは、今夜も静かに灯っているということ。


それでは、また次の夜に。


『白の記憶』で、お待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ