ごきげんよう、箱崎の夕暮れへ――高田美雪、ラスベガスへ去り、すみれコーチが後輩に戻る日
高田美雪は、今回も日本中を騒がせてから、何事もなかったように旅立つことになった。
『木曜スーパーライブ特番 高田美雪の戦隊ヒロイン大脱出!』は、放送後もなお話題が尽きなかった。巨大水槽、鋼鉄檻、予定より早く見えた爆破、実況席から真っ先に避難したベテランアナ、淡々と実況を続けた三好さつき、泣きじゃくる陽菜、スタッフに播州弁と河内弁で迫った彩香と美月、しゃもじを握ったまま固まったヒロヒロ。
そして、爆煙の向こうから現れた美雪の一言。
「お待たせ」
それだけで、番組は伝説になった。
だが、美雪は余韻に浸る暇もなく、次の舞台へ向かう。
「この後、ラスベガスで公演があるのよね」
そう言って、彼女は少しだけ寂しげに微笑んだ。
見送りの場所は、箱崎のエアボートターミナルだった。
都心と空港を結ぶ、少し昭和の国際感が残る場所。ビジネスマン、旅行者、海外へ向かう人、帰国する人、どこか落ち着かない空気が絶えず流れている。空港ほど華やかではないが、旅立ちの匂いが濃い。なぜか高田美雪の見送りには、昔からここが使われることが多かった。
ノムさんは妙に得意げに言った。
「ここがええんじゃ。成田でも羽田でもない、箱崎いうところがええ。都会の別れと、バブルの残り香と、国際線の哀愁がある」
美月が彩香に小声で言う。
「絶対、手配が楽なだけやろ」
彩香も小声で返す。
「それ言うたらアカン。ノムさん、今ええこと言うた顔しとる」
「顔だけは映画監督やな」
「中身はスナックのツケ払いから逃げるおっちゃんやけどな」
二人は肩を震わせる。
ノムさんは気づいていない。
いや、気づいていないふりをしていた。
見送りに集まったのは、美月、彩香、白石陽菜、太田すみれコーチ、高城彩芽、芹沢遥室長、首藤凪、そしてノムさんだった。
美雪は、リムジンバス乗り場の前に立っていた。
白を基調にした上品なコート。淡い色のスカーフ。大きすぎないサングラス。手荷物は持たず、スタッフが少し離れたところで控えている。本人はただ立っているだけなのに、周囲の空気が違った。
陽菜がうっとりした声で言う。
「美雪さん、バスに乗るだけなのに映画みたいですぅ……」
美月が頷く。
「うちらやったら、紙袋持って“ほな帰るわ”で終わりやもんな」
彩香が言う。
「お前は551の袋持った瞬間に庶民感が爆発する」
「彩香も姫路駅の御座候持ったら同じやろ」
「御座候を巻き込むな」
そこへすみれコーチが低く言った。
「お前ら、見送りくらい静かにしろ」
美月と彩香は同時に背筋を伸ばす。
「はい」
「すんません」
だが、そのすみれコーチ自身が、このあと別人になることを二人はまだ知らなかった。
美雪はまず遥室長に歩み寄った。
「遥ちゃん、今回もお世話になったわね」
遥は深く頭を下げる。
「こちらこそ、本当にありがとうございました。大騒ぎにはなっただよ。でも、戦隊ヒロインたちの絆が伝わる番組になったと思うだよ」
美雪は優雅に微笑む。
「あなたは相変わらず真面目ね。だからこのプロジェクトは崩れないのよ」
遥は少し照れた。
「そう言われると、胃痛も少し報われるだよ」
凪には、少し表情を変えて声をかけた。
「首藤さん。あなたがいたから、私は安心して危険に見えることができたわ」
凪は直立に近い姿勢で答える。
「実際には危険ではありません。管理された演出です」
「そういうところが素敵なのよ」
「ありがとうございます。次回があるなら、企画段階で必ず呼んでください」
美雪は楽しそうに笑った。
「次回、ね」
その一言に、遥の顔が一瞬だけ固まる。
ノムさんの目は逆に輝いた。
「美雪さん、次は飛行機か煙突で――」
凪が即座に一歩前へ出る。
「現時点では未承認です」
ノムさんは小さくなる。
「まだ企画名も言うとらんのに……」
「顔に“ドカーン”と書いてあります」
「ワシの顔、ほんま便利やのう」
美雪は軽く笑い、美月と彩香の方へ向いた。
「美月ちゃん、彩香ちゃん」
二人は少し緊張した。
なにしろ、番組本番ではスタッフに掴みかからんばかりの勢いで詰め寄っていたのだ。
美雪は穏やかに言った。
「あの時、本気で怒ってくれてありがとう。怖かったけれど、嬉しかったわ」
美月は頭をかく。
「いやあ……全国放送で河内弁丸出しにしてしもて……」
彩香も苦笑する。
「私も、播州弁が怖すぎる言われました」
「本気の言葉は、少し荒くても伝わるものよ。でも、次は真帆ちゃんと遥ちゃんに怒られない程度にね」
二人は同時に深く頷いた。
「はい……」
「気をつけます……」
美月が小声で彩香に言う。
「美雪さんに言われると、素直に聞けるな」
彩香も小声で返す。
「真帆さんに言われた時は道徳の授業やったけどな」
「“緊急時の正しい声かけ”な」
「お前、復唱下手すぎたで」
「彩香も“担当者の方、現状を共有してください”が脅迫文みたいやったやん」
二人はまた肩を震わせる。
美雪は次に陽菜の手を取った。
「陽菜ちゃん。あなたの涙、とても綺麗だったわ」
陽菜はその時点でもう泣きそうだった。
「美雪さんが本当に心配だったんですぅ……」
「泣けるほど人を心配できるのは、あなたの強さよ」
「美雪さぁん……」
陽菜は結局、また涙をこぼした。
美月が小声で言う。
「陽菜、泣き顔まで絵になるな」
彩香が返す。
「お前が泣いたら、ただの騒がしい河内娘や」
「彩香が泣いたら播州の雨雲やな」
「誰が雨雲や」
「しーっ、すみれコーチに怒られる」
二人はまた口を押さえた。
そして、美雪は彩芽の前に立った。
彩芽はすでに直立不動だった。背筋は伸び、両手はぴしっと横。顔は緊張で真っ赤。目は潤んでいるが、泣くまいと必死に耐えている。
美雪が柔らかく呼ぶ。
「彩芽ちゃん」
「はいっ!」
声が大きい。
箱崎の天井に響いた。
すみれが小声で言う。
「声量」
「はい……」
美雪はくすっと笑った。
「あなたは、勇敢だった彩世にそっくりね。危なっかしいところも、真っ直ぐなところも」
彩芽の顔が少し震える。
「姉ちゃんに……似てるべか」
「ええ、とても。でも、あなたは彩世ではなく、高城彩芽よ。彩芽ちゃんとして、もっと強くなりなさい」
彩芽は、今度は静かに返事をした。
「はい。私、ちゃんと強くなるべさ。今度会った時は、前より強くなったところを見せるっしょ」
「楽しみにしているわ」
彩芽は胸元の姉の形見にそっと触れた。
「彩世姉ちゃんにも、ちゃんと報告するべさ」
美雪は優しく頷いた。
そして最後に、美雪はすみれコーチへ向いた。
その瞬間、空気が少し変わった。
普段のすみれは、上州の鬼教官である。
彩芽を怒鳴り、美月と彩香を睨み、小春の茶化しを一撃で黙らせる。
強い。怖い。頼れる。
ヒロインたちにとって、すみれコーチとはそういう存在だった。
だが、美雪が一言だけ言った。
「すみれ」
すると、すみれは信じられない速度で背筋を伸ばした。
「はいっ!」
その声が、完全に後輩だった。
美月と彩香は同時に目を見開く。
美月が極小声で言う。
「見た? 今の」
彩香も極小声で返す。
「見た。すみれコーチが“はいっ”言うた」
「いつもの“お前ら黙れ”の人ちゃう」
「完全に部活の一年生や」
「上州の鬼教官、ただいま後輩モード突入や」
「これはレア映像やで」
二人は笑いをこらえるため、必死に下を向いた。
美雪は真面目な表情で、すみれを見つめる。
「彩芽ちゃんのこと、頼んだよ」
すみれはさらに姿勢を正した。
もはや直立不動というより、軍隊式敬礼の一歩手前だった。
「はい。必ず、私が見守ります」
美月が限界に近い。
「“私が見守ります”やて……」
彩香も震えている。
「敬語のすみれコーチ、破壊力あるわ……」
「今だけスマホ撮影したい」
「やめとけ。命がない」
「でも一生に一度やで」
「死ぬで」
すみれの視線が、ゆっくり横へ動いた。
鋭かった。
箱崎の空調が一瞬止まったように感じるほどだった。
美月と彩香は即座に真顔になった。
美月「……感動的やな」
彩香「ほんまや。心が洗われるわ」
すみれは低く言った。
「あとで話がある」
美月と彩香の顔色が変わる。
「いや、今のは……」
「見送りの場を和ませようと……」
「あとで話がある」
二度目である。
これはもう確定演出だった。
彩芽はそれどころではなく、美雪とすみれの会話を真剣に見つめていた。
姉・彩世を知る二人。
そして、自分を本気で見守ってくれる二人。
美雪はすみれに、もう一度静かに言った。
「すみれ、あなたは昔から責任を背負いすぎるところがある。でも、彩芽ちゃんは一人で守るものじゃないわ。仲間と一緒に育ててあげて」
すみれの表情が少しだけ柔らかくなる。
「……はい。今度は、一人で抱え込みません」
美雪は満足そうに微笑んだ。
「それでいいの」
その言葉には、黎明期を知る者同士の重みがあった。
彩世を失った過去。
残された後悔。
そして、彩芽を前へ進ませる未来。
美月と彩香も、今度は笑わなかった。
やがて、リムジンバスの案内が入る。
美雪は全員を見渡した。
「それでは、皆さん。ごきげんよう」
その一言だけで、箱崎の空気が舞台の幕引きのように変わった。
美雪はゆっくりと歩き出す。
スタッフが荷物を運び、彼女はただ優雅に進む。
リムジンバスに乗り込むだけなのに、まるでレッドカーペットを歩くハリウッド女優のようだった。
陽菜はまた泣いている。
「美雪さぁん……また来てくださいぃ……」
彩芽は拳を握った。
「私、強くなるべさ!」
凪はすでに小さなメモを取っている。
遥が慌てて聞く。
「凪さん、何を書いてるだよ?」
「美雪さんが“また驚かせる”と発言された場合に備え、次回想定リスクを分類しています」
「今は書かなくていいだよ……」
ノムさんはバスへ向かう美雪の背中を見ながら、しみじみと言った。
「美雪さんは、去り際まで絵になるのう」
美月が小声で彩香に言う。
「ノムさん、たまに本当のこと言うな」
彩香が頷く。
「今回は完全に同意や」
バスのドアが閉まる直前、美雪は一度だけ振り返った。
「次に会う時は、また少しだけ驚かせるわね」
遥の胃が反応した。
真帆はいないのに、どこかで資料を作り始めた気配がした。
凪はメモの速度を上げた。
ノムさんの目は輝いた。
すみれは、少しだけ笑った。
「ほどほどにしてください、美雪さん」
その言い方まで、まだ後輩だった。
美月と彩香はまた吹き出しそうになったが、すみれの横顔を見て必死に耐えた。
リムジンバスがゆっくり動き出す。
箱崎の夕暮れの中、美雪を乗せたバスは空港へ向かっていく。
ラスベガスへ。
次の劇場へ。
次の観客の前へ。
彩芽は胸元の形見に触れながら、小さく言った。
「彩世姉ちゃん、美雪さん行っちゃったべさ。でも私、次に会う時までに絶対強くなるっしょ」
すみれは隣で静かに頷く。
「ああ。強くなるぞ」
その声は、いつもの鬼教官に戻っていた。
だが、どこか優しかった。
美月と彩香は、その後ろでそっと距離を取っていた。
美月が小声で言う。
「……怒られるの、いつやと思う?」
彩香が返す。
「帰りの電車乗る前やな」
「箱崎で説教は嫌やなあ」
「うちら、世界的イリュージョニストの感動的な見送りで何してんねん」
「すみれコーチの後輩モードが悪い」
「それ本人に言うたら終わりやで」
その瞬間、すみれが振り返った。
「聞こえてるぞ」
二人は同時に直立不動になった。
「はいっ!」
「すんません!」
美雪が去った箱崎に、いつものヒロ室の空気が戻ってきた。
笑いと感動。
寂しさと次回への不安。
そして、すみれコーチの説教予告。
高田美雪は今回も、話題と伝説と少しの胃痛を残して、日本を去った。
だが、彼女の最後の笑みは、確かに全員の胸に残っていた。
「ごきげんよう」
その一言は、別れではなく、次の幕がいつか開く合図のようだった。




