越後の情花、怒る――雪国・湯沢ゼミ合宿、菜帆が許さなかった夜
本間菜帆という女性を、一言で説明するのは難しい。
農家の娘である。
新潟市に暮らし、地元の国立大学で農業を学びながら、実家の大規模スマートファームを手伝っている。
そして、国家的な戦隊ヒロインプロジェクトにも参加する、れっきとした戦隊ヒロインだった。
もっとも、大学の友人たちにとって、菜帆はあくまでも菜帆である。
誰かが待ち合わせに遅れれば、
「大丈夫だよ〜。電車、遅れたんでしょ?」
ゼミの共同発表で担当者が資料を忘れれば、
「じゃあ、今から一緒に作ろっか〜」
学食で目当ての定食が売り切れていれば、
「あらら。じゃあ今日はお蕎麦にしようかな〜」
決して人を責めず、慌てず、騒がず、いつも少しゆっくりした調子で笑っている。
そんな菜帆を、同級生たちは親しみを込めて「お母さん」と呼ぶことがあった。
もちろん菜帆本人は不満である。
「まだお母さんになる予定ないんだけどね〜」
彼女の戦隊ヒロインとしての異名は、「越後の情花」。
戦隊ヒロインきっての人情派。
テレビに出演する時も、イベントに参加する時も、菜帆は派手なパフォーマンスより、困っている人の話を聞く方が得意だった。
腹を空かせた少年の隣に座り、一人暮らしの老女と畦道で語り合い、妻を亡くした老料理人が再び包丁を握るまで静かに見守る。
そういう女性だった。
だが、大学の友人たちは一つだけ、重大なことを忘れていた。
本間菜帆が、ただの優しい女子大学生ではないということである。
そして、そのことを思い出すきっかけが訪れたのは、新潟県南魚沼郡湯沢町だった。
秋の越後湯沢駅。
新幹線の改札口から、十数人の大学生が賑やかに出てきた。
「着いたー!」
「温泉、温泉!」
「今日の晩ご飯、何にする?」
「先生、お土産買う時間ありますか!」
引率の宮沢准教授は、早くも頭を抱えていた。
「君たち、何をしに来たのか分かっているのかね」
「ゼミ合宿です!」
「研究です!」
「地域経済のフィールドワークです!」
答えだけは素晴らしい。
しかし、その目は温泉街の方向へ向いている。
今回の合宿テーマは「雪国観光と地域農業――リゾート地における地産地消と地域経済」。
二泊三日の日程で、湯沢町の観光施設や農産物販売所、飲食店などを訪ね、雪国の観光産業と地元農業の関係を調査する。
湯沢町は、上越新幹線と関越自動車道によって首都圏と結ばれた、日本有数の山岳リゾートである。
四季折々に美しい谷川連峰や苗場山の山並み。魚野川の清流。歴史ある越後湯沢温泉。苗場、かぐら、GALA湯沢をはじめとするスキーリゾート。
ノーベル文学賞作家・川端康成の『雪国』でも知られ、冬は白銀の世界、夏は深緑の山々、秋は紅葉が町を彩る。
豪雪地帯でありながら、交通の利便性が高いという独特の条件を持つ観光の町だ。
そして、その湯沢にはもう一つ、特徴的な風景があった。
山間の町にそびえるリゾートマンション群である。
バブル期を中心に建設された数々の建物は、時代の移り変わりとともに、別荘、定住、二地域居住、長期滞在など、多様な使われ方をするようになっていた。
観光客を迎える町。
同時に、日々の生活を営む人々が暮らす町。
その二つをどう調和させていくのか。
今回のゼミ合宿は、まさにそこを学ぶためのものでもあった。
「菜帆、温泉楽しみ?」
隣を歩く同級生の真紀が聞いた。
「楽しみだよ〜」
「意外」
「何が?」
「菜帆って、温泉より田んぼ見に行きそうだから」
「失礼だなあ〜。私だって普通の大学生だよ」
「本当かなあ」
「本当だよ。今日は農業機械にも乗らないし、ヒロイン任務もないんだから」
そう言って菜帆は笑った。
この時までは、確かにそのつもりだった。
宿泊先は、町内の架空のリゾートコンドミニアム「グランリッジ湯沢」。
少々年季の入った建物だったが、山を望む広い客室にキッチン、温泉大浴場、共用ラウンジまで備わっている。
学生の合宿には申し分なかった。
部屋に入った女子学生たちは、さっそく歓声を上げた。
「広い!」
「キッチンある!」
「今日、鍋できるじゃん!」
「菜帆、料理お願い!」
「何で私なの〜」
「農家だから!」
「農家は全員料理人ってわけじゃないよ〜」
「でも菜帆のおにぎり、おいしいじゃん」
「おにぎりと鍋は違うと思うけど〜」
笑いが起きる。
夕方まで、学生たちは町内を歩いて調査を続けた。
地元農産物を扱う売店。温泉旅館。観光客向けの飲食店。地域の食材を使った土産物。
菜帆は特に、農産物直売コーナーに興味津々だった。
「へえ〜。同じ新潟県でも、こっちはこんな売り方するんだ」
「菜帆、また野菜見てる!」
「だって面白いんだもん」
「何が?」
「観光客向けに少量パックが多いでしょ。普段うちで出してるのと全然違うんだよ〜」
友人たちにはよく分からなかった。
だが、菜帆が楽しそうなので、それでよかった。
その夜、学生たちは部屋で地元食材を使った鍋を囲み、研究の話もそこそこに、大学生活や就職、恋愛の話で盛り上がった。
菜帆も珍しく、時間を気にせず笑っていた。
ところが午後十時を回った頃だった。
ドン。
壁の向こうから鈍い音がした。
続いて、大きな笑い声。
音楽。
廊下を走る足音。
「……何?」
真紀が箸を止めた。
「隣の部屋?」
「すごい音だね」
菜帆は時計を見た。
「まあ、旅行に来て楽しくなってるのかもしれないね〜」
最初はそう言っていた。
しかし、午後十一時。
さらに騒がしくなった。
廊下では数人の男が酒瓶を手に談笑し、共用スペースには飲み終わった容器が残されていた。
菜帆たちは管理スタッフへ相談した。
すると、年配の係員は困った顔をした。
「申し訳ありません。実は、一部の区分所有の部屋について、こちらで宿泊者の管理ができていないんです」
「どういうことですか?」
菜帆が尋ねる。
係員によれば、海外に住む所有者が持つ複数の部屋が、正規の施設運営とは別の経路で短期宿泊に利用されているらしい。
その利用には国内の仲介者も関わっているという。
管理規約との整合や必要な届出の有無についても疑問があり、管理組合が確認を進めている最中だった。
「外国のお客さんが悪いという話ではないんですよ」
係員は念を押した。
「きちんとルールを守って泊まってくださる方も大勢いらっしゃいます。ただ、今問題になっている方々には何度注意しても……」
菜帆は静かに頷いた。
「そうですよね〜。問題なのは、ルールを守らないことですから」
その晩は、何とか眠ることができた。
しかし翌朝。
問題はさらに深刻になっていた。
非常階段の近くに、大きなスーツケースや段ボールが積み上げられていたのである。
廊下の隅には酒瓶とゴミ。
共用ロビーでは、小さな子どもを連れた母親が、騒いでいる一団を避けるように歩いていた。
高齢の夫婦が管理スタッフへ相談する声も聞こえた。
「昨夜はほとんど眠れなかったんですよ」
菜帆はその様子を見ていた。
いつもの穏やかな表情。
だが、少しだけ目が違っていた。
「……非常口まで塞いじゃ駄目だよね〜」
その言葉に、真紀は頷いた。
「そうだね。でも菜帆、余計なことしないでよ」
「余計なこと?」
「絶対、何か考えてるでしょう」
菜帆は困ったように笑った。
「まずは管理の人にお願いするよ〜」
大学側からも正式に改善を申し入れ、管理会社と管理組合が再び警告を行った。
一時は静かになった。
学生たちはほっとした。
二日目のフィールドワークも順調だった。
雪国の農業について、地元生産者から話を聞く。
冬の積雪が春の水を蓄え、その水が田畑を潤すこと。観光客へ地域の食材を届けるには、生産者と宿泊施設の連携が欠かせないこと。
菜帆は真剣にメモを取った。
「作る側が無理しても長続きしないし、使う側にも事情がありますもんね〜」
話を聞いていた農家の男性が感心した。
「学生さん、農業やってるの?」
「はい。実家が農家なので」
「なるほど。現場を知ってる人の質問だね」
同級生たちは顔を見合わせた。
「こういう時の菜帆、めっちゃ頼れるよね」
「いつも頼れるよ〜」
菜帆が振り返る。
「普段はそうでもない、みたいに聞こえたんだけど」
「気のせい!」
一同大笑い。
楽しい合宿は、このまま終わるはずだった。
ところが二日目の夜。
再び騒ぎが始まった。
今度は前夜以上だった。
午後九時過ぎから大音量の音楽。
廊下では酒盛り。
午後十時を過ぎても改善しない。
そして、飲み物を買いに出たゼミの女子学生が、顔を青くして戻ってきた。
「どうしたの?」
菜帆が聞く。
「……廊下で、絡まれた」
「誰に?」
「あの人たち。何か言いながら近づいてきて、怖くて……」
「触られたりは?」
「それは大丈夫。でも、通してくれなくて」
菜帆は黙って話を聞いた。
「そっか」
短い一言。
それだけだった。
しかし真紀は気づいた。
菜帆が、もう笑っていないことに。
続いて別の学生が報告した。
「非常階段のところ、また荷物が置かれてる」
菜帆は静かに立ち上がった。
「……ちょっと行ってくるね〜」
「待って!」
真紀が慌てて止める。
「菜帆、一人で行っちゃ駄目!」
「管理会社に連絡しようよ!」
「先生も呼ぼう!」
「うん。それはお願い」
菜帆は頷いた。
「私は、通路を空けてもらうように話してくるね」
「だから、それが危ないんだって!」
「怒鳴り込みに行くわけじゃないよ〜」
菜帆はそう言って、部屋を出た。
真紀たちは顔を見合わせた。
「……本当に大丈夫かな」
「先生呼んでくる!」
「私、管理室!」
数人が連絡に走り、真紀は菜帆を追いかけた。
問題の廊下には、数人の大柄な男たちがいた。
酒の匂い。
散乱した空き容器。
積み上げられた荷物。
その前へ、一人の女子大学生が歩いていく。
菜帆だった。
「こんばんは〜」
一人が振り返った。
「何だ?」
「ちょっとお願いがあるんですけど」
菜帆は非常口の方を指した。
「ここ、避難する時に使う場所なので、荷物をどけてもらえませんか?」
男は菜帆を見下ろした。
柔和な顔。
穏やかな口調。
小柄ではないが、どう見ても喧嘩を売りに来たようには見えない。
男は鼻で笑った。
「関係ないだろ」
「ありますよ〜。私たちもここに泊まってますから」
「管理人か?」
「違います」
「じゃあ黙ってろ」
菜帆は少し困った顔をした。
「それはできないかな〜」
男の眉が動いた。
菜帆は続けた。
「せっかく湯沢へ旅行に来たんでしょう?」
「……」
「温泉もあるし、景色もきれいだし、食べ物もおいしいですよね」
真紀は後方で思わず首を傾げた。
(菜帆、今この状況で湯沢の観光案内してる……?)
しかし菜帆は真面目だった。
「楽しく泊まって帰ればいいじゃないですか。ほかの人を怖がらせたり、困らせたりする必要はないと思うんです」
相手を頭ごなしに責めない。
間違いを責め立てるのではなく、まず相手に引き返す余地を残す。
それが菜帆のやり方だった。
けれど、男たちは取り合わない。
一人が菜帆へ近づいた。
「怖くないのか?」
身長も体格も菜帆よりずっと大きい。
真紀は息を呑んだ。
菜帆は相手の顔を見上げた。
「怖いですよ〜」
「だったら帰れ」
「でも、怖いからって黙ってたら、困ってる人がずっと我慢することになりますよね」
相手の目つきが変わった。
「何だと?」
菜帆は静かに続ける。
「夜は静かにして、ゴミを片付けて、非常口を空けてくれれば、それでいいんです」
「うるさい!」
男が菜帆の肩を乱暴に押した。
菜帆は一歩だけ下がった。
倒れない。
顔を上げる。
肩についた埃を軽く払う。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「あの〜」
声は大きくない。
「そういうことするなら、話が変わりますよ?」
真紀は、その言葉を聞いた瞬間、ぞくりとした。
普段の菜帆と声の大きさは変わらない。
口調もほとんど同じ。
なのに、まるで違う。
男はそんな変化に気づかず、もう一度手を伸ばした。
今度は拳だった。
「菜帆!」
真紀が叫ぶ。
だが。
拳は空を切った。
菜帆はほんの半歩、身体の位置を変えていた。
男が振り返る。
二発目。
当たらない。
三発目。
その瞬間、菜帆が動いた。
大柄な男の身体がぐらりと傾き、次の瞬間には床へ尻餅をついていた。
ドン!
廊下へ鈍い音が響く。
誰も何が起きたのか分からなかった。
菜帆は倒れた男を見た。
「大丈夫ですか?」
本気で心配している顔だった。
相手は怒りに任せて立ち上がろうとしたが、今度は別の男が前へ出た。
「おい!」
突進。
菜帆は慌てない。
相手の勢いをまともに受けず、身をかわす。
男は体勢を崩し、よろめいた末に床へ転がった。
二人目。
真紀の口が開いたままになる。
「……え?」
さらに三人目。
腕を大きく振り上げる。
しかし、菜帆は既にその動きを読んでいる。
無駄がない。
速い。
強引に力で押し返さない。
相手を傷つけるためではなく、相手の攻撃を止めるための動き。
戦隊ヒロインとして積み重ねてきた訓練が、そのまま現れていた。
大柄な三人目も体勢を崩し、壁際に座り込んだ。
その間、菜帆は一度も大声を出していない。
真紀が呟く。
「……菜帆ってさ」
後から駆けつけた同級生が頷く。
「うん」
「戦隊ヒロインだったんだよね」
「……忘れてた」
「私も」
「だって普段、農業の話とおにぎりの話ばっかりしてるから……」
「この前だって、学祭でずっと皿洗ってたし」
その瞬間。
菜帆の声が飛んできた。
「聞こえてるよ〜!」
全員が飛び上がった。
「聞こえてた!」
「戦いながら聞いてたの!?」
「集中力どうなってんの!」
緊迫した廊下に、何とも間の抜けた声が響く。
しかし、四人目の男が前へ出た瞬間、再び空気が変わった。
菜帆が、ゆっくり男を見る。
怒鳴らない。
威嚇しない。
ただ、静かに立っている。
それなのに、先ほどまで笑っていた男たちが一斉に口をつぐんだ。
「……まだ、やります?」
いつもの菜帆の声。
けれど、そこには一歩も譲らない意志があった。
男は動かなかった。
菜帆は少し息を吐いた。
「じゃあ、もう終わりにしましょう」
そして、非常口の前を指した。
「荷物、どけてもらえますか?」
数分後。
先ほどまで周囲を威圧していた男たちが、黙々とスーツケースや段ボールを運んでいた。
酒瓶も片付けられた。
通路はようやく本来の広さを取り戻した。
真紀は呆然としていた。
「……菜帆」
「ん?」
「何なの、今の」
「荷物どけてもらっただけだよ〜」
「その前!」
「ああ」
菜帆は少し考えた。
「危なかったから、止めたの」
「簡単に言うな!」
その頃には、管理会社の責任者と警察官も到着していた。
菜帆は事情を正確に説明した。
暴力を受けたこと。
それを避け、身を守るために相手の動きを止めたこと。
必要以上の攻撃は加えていないこと。
ゼミ仲間や管理スタッフも、見聞きした状況を証言した。
警察官は菜帆の話を聞きながら、何度か首を傾げた。
「あなた一人に、複数の男性が?」
「はい〜」
「それで、あなたは怪我なし?」
「はい」
「……何か格闘技の経験でも?」
「戦隊ヒロインの訓練を受けてます」
「ああ、戦隊ヒロイン」
警察官は頷いた。
そして、もう一度菜帆を見た。
「……本当に?」
「本当ですよ〜」
ゼミ仲間は、思わず吹き出しそうになった。
「そこ、確認するんだ……」
事件後、問題となった部屋の利用については、管理会社と管理組合が関係機関へ事情を伝え、必要な届出や管理規約の遵守状況を調べることになった。
不適切な営業があったのか。
誰が管理責任を負っていたのか。
施設利用のルールが守られていたのか。
それを判断し、是正するのは法と行政、そして管理組合の役割である。
菜帆が力で片付けたのは、あくまでも目の前で起きた暴力だった。
彼女自身、それ以上踏み込むつもりはなかった。
むしろ管理責任者へ、
「ここの建物、いい場所にありますよね〜」
と言った。
「え?」
「景色もいいし、温泉もあるし。ちゃんと管理できれば、泊まりたい人いっぱいいると思うんです」
責任者は複雑な表情で頷いた。
「そうですね……」
「私たちも、楽しい合宿にしたいですから〜」
その言葉に、責任者は深く頭を下げた。
翌朝。
グランリッジ湯沢は、驚くほど静かだった。
廊下にゴミはない。
非常階段にも荷物はない。
エレベーターでは誰も騒いでいない。
真紀が辺りを見回す。
「……別のマンションみたい」
菜帆。
「静かになってよかったね〜」
ちょうどその時、問題の一団の男たちが廊下の向こうから歩いてきた。
菜帆に気づいた瞬間、全員がぴたりと止まる。
菜帆はいつもの笑顔。
「おはようございます〜」
「……オハヨウゴザイマス」
「今日は静かですね〜」
男たちは小さく頷いた。
真紀が慌てて菜帆の腕を取った。
「菜帆! 行こう!」
「え?」
「もういいから!」
「普通に挨拶しただけだよ〜」
「その“普通”が怖いの!」
菜帆には、何がそんなにおかしいのか分からなかった。
午前中は予定通りのフィールドワーク。
湯沢の観光事業者から聞き取りを行い、リゾートマンションの維持管理や、観光客と地域住民が共存するための課題についても学んだ。
菜帆は、前夜の経験もあって真剣だった。
「観光客が来ること自体は、地域にとって大事なことですよね」
「もちろんです」
地元の担当者が答える。
「でも、観光客を迎えるためには、そこで暮らしている人の生活も守らないといけないんです」
菜帆は頷いた。
「そうですよね〜」
少し間を置いて、こう言った。
「泊まる人も、そこに住んでいる人も、どっちも気持ちよく過ごせるのが一番ですもんね」
担当者は嬉しそうに笑った。
「まさに、その通りです」
午後の調査を終えた学生たちは、ようやく自由時間を手に入れた。
温泉。
お土産。
甘いもの。
菜帆も友人たちとソフトクリームを食べた。
「菜帆、昨日あんなに強かったのに、今日は普通にソフトクリーム食べてる……」
「ソフトクリームくらい食べるよ〜」
「何か変な感じ」
「普通に食べさせてよ〜」
全員で笑った。
その晩の部屋は、学生らしい賑やかさに満ちていた。
お菓子を広げる。
就職の話。
卒業研究の話。
恋愛の話。
そして当然、昨夜の話。
「いや、菜帆があんなに強いなんて思ってなかった」
「本当に忘れてたよね、戦隊ヒロインだって」
「普段、長靴で田んぼにいるから……」
「あと、やたらおにぎり作ってるし」
菜帆はポテトチップスを口に運びながら、少し不満そうだった。
「みんな、私を何だと思ってたの〜」
真紀が即答する。
「農家のお母さん」
「だから、まだお母さんじゃないって〜!」
爆笑。
別の学生が尋ねる。
「でも、戦隊ヒロインってみんなあんなに強いの?」
菜帆は首を傾げた。
「人によるかな〜」
「菜帆より強い人いる?」
「いっぱい」
「ええっ!?」
「私なんて、どちらかといえば穏やかな任務の方が得意だからね〜」
真紀は大袈裟に頭を抱えた。
「戦隊ヒロインの世界、どうなってるの……」
その後、友人の一人が菜帆へ真面目な顔で言った。
「でもさ。昨日、あの人たちが本当に怖かったんだ」
菜帆が顔を上げた。
「うん」
「菜帆が来てくれて、助かった」
いつもの冗談めいた口調ではなかった。
菜帆は少し黙った。
そして、柔らかく笑った。
「そっか」
「……それだけ?」
「うん」
「もっと何かないの?」
「みんな無事だったから、よかったよ〜」
菜帆にとっては、それがすべてだった。
最終日。
コンドミニアムの玄関前で、ゼミ全員の記念写真を撮ることになった。
宮沢准教授がカメラを構える。
「はい、みんな集まって」
学生たちが並ぶ。
「菜帆、真ん中!」
「え、何で?」
「今日からゼミの警備主任だから!」
「違うよ〜!」
「じゃあ治安維持部長!」
「もっと違うよ〜!」
「湯沢の守護神!」
「大袈裟すぎるって〜!」
教授まで笑い始めた。
「まあ、本間君のおかげで大事に至らなかったことは確かだな」
菜帆は照れくさそうに笑った。
「みんなが管理室とか先生に連絡してくれたからですよ〜」
教授は静かに頷いた。
「そうだな。困った時に一人で抱え込まないことも大切だ」
全員が並ぶ。
背後には秋の山並み。
澄んだ空。
湯沢の町。
「はい、撮るぞ!」
パシャ。
笑顔。
大学生活の一ページ。
多少、とんでもない出来事はあった。
しかし、終わってみれば忘れられない合宿だった。
帰路。
越後湯沢駅から新潟方面へ向かう列車。
学生たちは疲れたのか、窓の外を眺めたり、眠ったりしていた。
菜帆は座席で、合宿のメモを整理していた。
その隣へ真紀が座る。
「菜帆」
「ん?」
「昨日のこと、まだ聞いていい?」
「いいよ〜」
真紀は少し考えた。
「本当に、怖くなかったの?」
菜帆はすぐには答えなかった。
窓の向こう。
山の稜線がゆっくり後ろへ流れていく。
「怖かったよ〜」
「……え?」
「だってみんな大きかったし。何をしてくるか分からなかったからね」
真紀は意外そうだった。
「あんなに冷静だったのに?」
「冷静でいないと危ないからね〜」
菜帆は小さく笑った。
「訓練でも、無茶なことしちゃ駄目って教わるし」
「じゃあ、何でそこまでして止めようと思ったの?」
菜帆はメモを閉じた。
しばらく窓の外を見る。
そして、ゆっくり口を開いた。
「だってね」
「うん」
「子ども連れの人とか、お年寄りとか、うちのゼミのみんなとか」
「……」
「何も悪いことしてない人が、ずっと我慢してたでしょ」
真紀は黙って頷いた。
「私、困ってる人には優しくしたいんだよね〜」
菜帆は続けた。
「失敗した人なら、話を聞いてあげたいし。間違えたことを反省してる人なら、一緒にやり直す方法を考えたい」
その声は、いつもの菜帆そのものだった。
「でもね」
少し間があった。
「人が嫌がってるのを分かってて、わざと怖がらせたり、傷つけたりするのは違うと思うんだ」
真紀は菜帆を見た。
「……うん」
「相手にも事情があるのかもしれない。言葉が通じにくかったり、考え方が違ったりすることだってあると思う」
菜帆は静かに言った。
「でも、それと人を傷つけていいかどうかは、別の話だからね」
そして、いつもの少し困ったような笑顔を浮かべた。
「優しくするのと、何でも黙って許すのは違うと思うんだよね〜」
真紀はしばらく何も言えなかった。
窓の外には、雪国の山々。
これから冬になれば、あの山には深い雪が積もる。
それでも春になれば雪は解け、水となって田畑を潤す。
菜帆は、そんな土地で育った農家の娘だった。
真紀がぽつりと言った。
「菜帆って、やっぱり強いんだね」
菜帆は首を横に振った。
「一人じゃ何にもできないよ〜」
「そうかな」
「だって昨日も、みんなが先生や管理会社に連絡してくれたでしょ」
「うん」
「誰か一人で全部やろうとしなくてもいいんだよ」
そう言って笑う。
真紀は思った。
この人は、きっとどんなに強くなっても変わらないのだろう。
困っている人を見つければ、まず隣に座る。
相手が話すまで待つ。
手伝えることがあれば手伝う。
そして、どうしても守らなければならない時だけ、静かに立ち上がる。
優しさを失わずに、強くいられる人。
それが本間菜帆なのだ。
「ねえ、菜帆」
「なあに?」
「今度、また旅行行こうね」
「いいね〜」
「でも次は、絶対に何も起きない宿にしよう」
菜帆は笑った。
「そうだね〜。私も普通に温泉入りたいし」
「今回は普通じゃなかったもんね」
「うん」
少し考えてから、菜帆が付け加えた。
「でも、ご飯おいしかったよね〜」
真紀は思わず噴き出した。
「菜帆!」
「ん?」
「結局、食べ物の話になるんだ!」
「農家だからね〜」
二人の笑い声が、静かな車内に小さく響いた。
越後の情花・本間菜帆。
彼女のこれまでの歩みは、決して華やかなものばかりではなかった。
新潟の商店街では、空腹から弁当を盗んでしまった少年の話を聞いた。
一人暮らしの老女とは、田んぼの畦に並んで座り、大切な思い出を守る方法を一緒に考えた。
新発田では、妻を亡くした老料理人が再び包丁を握るきっかけを作った。
柏崎の荒天に見舞われたイベントでは、長い時間待ってくれた観客一人ひとりへ、最後までサインを書き続けた。
直江津沖では、仲間と力を合わせて不審船を封じ、故郷の日本海を守った。
南魚沼では、常陸の野生児・山口唯奈やドリームトラクター蒼牙2000・改とともに、子どもたちへ農業の楽しさと食べ物の大切さを伝えた。
いつも、彼女は誰かの隣にいた。
けれど今回の湯沢では違った。
怖がっている人たちの前に、自分から立ったのである。
人情派とは、決して弱い人間のことではない。
他人の痛みが分かるからこそ、理不尽を見過ごせない。
困っている人を助けたいからこそ、時には勇気を振り絞らなければならない。
そして、本当に強い人間は、相手を打ち負かしたことを誇らない。
守りたかった人たちが、また笑えるようになったことを喜ぶ。
本間菜帆は、そういう戦隊ヒロインだった。
彼女が持つものは、派手な必殺技だけではない。
人の話を聞く耳。
相手の気持ちを思いやる心。
農家として培った粘り強さ。
そして、越えてはならない一線を守り抜く強さ。
「越後の情花」は、優しく咲く。
だが、その花を支える茎は、雪国の厳しい冬にも折れないほど強い。
やがて列車は、新潟へ向けて走り続ける。
友人たちの笑い声。
車窓を流れる田園。
菜帆は次の週末に予定されている実家の農作業を思い出していた。
「帰ったら、お父さんに収穫の進み具合聞かないとね〜」
真紀が呆れた。
「昨日あんな事件があったのに、もう田んぼの心配?」
「そりゃそうだよ〜」
菜帆は笑う。
「稲も野菜も、私が合宿行ってる間に待っててくれるわけじゃないからね」
いつもの菜帆。
いつもの農ガール。
いつもの人情派。
ただしゼミの仲間たちは、この旅行で一つだけ、確かな教訓を得た。
本間菜帆を、戦隊ヒロインであることを忘れてはいけない。
そして何より。
温厚な本間菜帆を、本気で怒らせてはいけない。
「菜帆、お菓子食べる?」
「食べる〜」
「……本当に普通だね」
「だから、何が〜?」
車内は再び笑いに包まれた。
こうして、越後の情花・本間菜帆の物語は、ひとまず中締めを迎える。
もちろん、菜帆の人生はまだまだ続く。
田んぼへ行けば、農家の娘。
大学へ行けば、どこにでもいる女子大学生。
困った人に出会えば、人情派の戦隊ヒロイン。
そして理不尽に立ち向かう時には、誰よりも静かで、強い女性になる。
次に誰かが困っている時も、菜帆はきっと同じように近づいていくだろう。
威張ることもなく。
恩を着せることもなく。
いつもの柔らかな声で。
「どうしたの〜? よかったら、お話聞くよ」
その優しさこそが、彼女の強さだった。
――越後の情花・本間菜帆。
優しさと強さを兼ね備えた、戦隊ヒロインきっての人情派である。




