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第七十九話 夜の女神

後藤は自室に戻り氷をたっぷり入れた金属製のタンブラーを机に置き、パソコンを起動させる。

パソコンが起動するまでの時間で傍らの冷蔵庫からウォッカのボトルと炭酸水のペットボトルにレモンジャムの入った広口瓶を取り出す。

三杯だよ。と言われ、分かっているとばかりに広口瓶を開けスプーンを挿しそれを三杯タンブラーに垂す。

広口瓶の中身は絞ったレモン汁と缶詰のグレープフルーツとそのシロップ、そこにレモンの皮を削り入れ氷砂糖を加えグレープフルーツの果肉を丁寧に潰しながら弱火でじっくり煮詰めたものだ。煮詰めれば煮詰めるほど良いが絶対に火を強めてはダメだ。消えないギリギリの可能な限りの弱火で時間をかけて煮詰める。火にかけると直ぐに気化する酢酸とは違い、レモンなどの果実のクエン酸はそれよりは熱に強い。だがそれでも消える寸前のような弱火でじっくりと煮詰めていく。

そして最後にキッチンペーパーを数枚重ねて濾せば出来上がりだ。

タンブラーにグレイグースを注ぎ入れレモンジャムとよく混ぜる。


グレイグース。

高級ウォッカの世界的なブランドだ。

ウォッカ。

世界四大スピリッツの一つだが蒸留酒としてはとてもシンプルな味わいだ。

オーク樽で三年以上の熟成を経て芳醇な風味が足されるウイスキーや、ボタニカルを加え複雑な香味が足されるジンなどとは違い、アルコールを蒸留し濾過するだけで、材料も特に決まりはない。ライ麦や小麦に大麦、コーンが使われることもあるしジャガイモの事もある。

ならばウォッカに「これぞ」というほどの味など無いと思うだろうし、実際のところその通りだ。

では、格安のウォッカと高級ウォッカの違いは何か?

それはウォッカの製法そのまま、蒸留と濾過にある。

千円前後の低価格帯のウォッカの濾過回数は4~5回と言ったところだが、二千円前後の中価格帯にならプレミアム7と呼ばれるウォッカはその名の通り7回の蒸留工程を経るし、おそらく世界一有名なウォッカブランドであろうスミノフなどは10回の蒸留を経ていると言われている。

ウォッカに味などない。おそらくその通りだろう。違いはアルコール臭の強さだ。

低価格帯のウォッカはアルコールに尖ったような刺激があるのに対し、中価格帯のウォッカはアルコールの刺激が抑えられており、とてもまろやかだ。


低価格帯のウォッカならば合わせるのは甘味など欠片もない濃縮還元で一番安く酸味一辺倒のレモンジュースで良い。

だが中価格帯のウォッカならばそれに合わせるのも少し高いレモンジュースが良いだろう。シチリア産レモンなどが良い。出来れば濃縮還元ではないストレートジュースならばなお良い。


そして高価格帯のウォッカは千差万別だ。

グレイグースは蒸留回数を抑えているらしくその詳しい製法は明らかにされていない。

ウォッカと言えばロシアや東欧だがグレイグースはフランス産だ。

フランス産の小麦を使っているらしいがそれ以外の製法は門外不出の企業秘密。

グレイグースに舌がピリつくようなアルコールの刺激は一切無く、ほんのりと甘さを感じるほどだ。

これに合わせるのならば酸味だけでなく甘さもあった方が良いだろう。


後藤は炭酸水を注ぐ。もちろん強炭酸の物だ。

軽く二回だけステアし口に運ぶと鼻の奥に軽くアルコールを感じる。良く混ざっていないからだ。

だが混ぜすぎてはいけない。しっかり混ぜたくなるだろうがそれではせっかくの炭酸の刺激が失われてしまう。

ステアは二回まで。

後藤はフーッと息を吐き鼻に残るアルコール臭をクリアにし、更にタンブラーを口に運び半分ほど飲み干す。

そこにウォッカを足し炭酸水を注ぎ、レモンジャムをスプーン一杯垂らし入れ一回だけ軽くステアする。これで良い。

「何か曲をかけてくれ」後藤の言葉に反応しスピーカーはティナーシェのNo Broke Boysの、Disco Linesのエレクトリックなポップリミックスを流し始めた。

この曲は簡単に言えば「あなたは私に相応しくない私にはもっと価値があるから・・」と言ったところだろうか。


後藤は机の引き出しからクールブーストの5ミリを取り出し、レモンジャムを入れたウォッカソーダのタンブラーを手にベランダへと出た。

煙草を咥え火を点ける。二回ほど吹かしてから深く一吸いする。

マリファナがあれば良いのだが。インディカの深いヤツがあれば最高だ。

もちろんここでマリファナを吹かすほど後藤は愚かではない。


なあ、岸の奴がその、解毒剤を打ったらどうするつもりだったんだ?

岸が打つわけないだろう。田中さんを助けたいのならいくらでもチャンスはあった。

その為にわざわざ田中さんが賞金首になったってことを岸の奴に知らせたのか?

そうだ。だがヤツはそれを一度も口にしなかった。バウンティを見た時、車で向かう時も田中さんをここに運んだ時も、そしてオレがアレを打つ時も止めようとはしなかった。

岸の奴を試したのか?

試すと言うか、確認だな。

確認?岸くんはもうダメでしょ。どうするの?

他を選ぶか?


後藤は答えない。

代わりにティナーシェが告げる。

No Broke Boys。

役立たずは要らない。


このレモンジャムは後藤の作ったものではないが、後藤の作ったものだ。

そう、後藤は一人ではない。

後藤の中には、みんながいる。

自らの命と同じくらい大事な半身を奪われた後藤はその半身をコールタールのように重くドス黒い憎悪で埋めた。


ドス黒い憎悪を産み出し続ける後藤。

その憎悪をガソリンのような怒りで燃え滾る炎で焼く後藤。

その炎を消すかの如く極寒の世界で産み出された氷塊のように青く冷たく、蛇のように冷酷に舌を舐め締め上げ殺す後藤。

そして、憎悪を燃やし消えた後に残る灰のような無機質な後藤。


後藤はグレイグースと自家製レモンジャムのソーダ割りを一口すすった。

美味い。

そう言えば、レモンはみんな好きだな。

確かにそうだね、でもそれでウォッカを飲むのはキミだけだよね。

そうだな。

だけどよ、あれほど岸を追い詰めてよ、あいつが自棄になって本当に解毒剤を打っていたらどうした?って言うか、あれは本当に解毒剤だったのかよ?

アイツに渡したのはSOMNYXだ。

それって・・・。ひでえな、お前。


SOMNYX。

それはナノマシンだ。

後藤が田中に注射した物だ。

岸に渡した中身も同じ物だ。

SOMNYXというナノマシン。

それはSOMとNYXと言う二種類のナノマシンから成る。

その二種類のナノマシンは体内に入ると即座に血中の赤血球に取り付きそれぞれの目的地へと進む。

SOMの目的地は主に肝臓と膵臓だ。そこにたどり着いた頃には赤血球から取り込んだタンパク質で自身を覆いステルスコーティングを完了させており人体の免疫系から攻撃を受けることが無くなっている。

そして周囲の細胞を利用し自己複製を行うがそれは最低限度のものだ。

SOMは膵臓と肝臓、そして腎臓に定着するとCSEの遺伝子をそっと書き換え細胞は硫化水素工場へと変わる。

改造された細胞は改変酵素を生産し始める。それはLシスティンやホモシステインを分解しミトコンドリア内に硫化水素を放つ。この硫化水素は極低濃度だがコンプレックス4に作用しプロトン勾配を崩してしまう。

SOMが硫化水素を生産させ、さらにカルシウムイオンのミトコンドリアへの流入チャネルをブロックすると、カルシウムイオン依存性酵素すら反応しなくなる。


つまりは、SOMは37兆と言われる人の細胞の全てに作用し各細胞のミトコンドリア代謝によるATPの生産を極限まで停止させる。

同時にフリーラジカルの発生も極限まで抑え、同時にそれを即座に破壊する。

端的に言えばSOMは人の生命活動を限界まで停止させる効果を持つ。


NYXが向かうのは脳の深部だ、中枢神経を管理する。

SOMの働きにより人体は急激な低血糖状態に陥り生命活動が停止しようとしている。

脳はそれに反応しようとするがNYXがそれを完全に抑える。

肉体がアラートを発してもNYXはアドレナリンやノルアドレナリンと言った戦闘ホルモンの生産を停止させ、代わりにセロトニンやGABA、特に多くのエンドルフィンを生産させる。

SOMは身体を危機的な状況に陥らせ、NYXはそれを助けようとする脳の活動を逆方向へと向かわせるということだ。

そしてNYXの最も需要な作用は人体の蘇生バーストを完全に抑えると言うところにある。

NYXは人体の何らかの反射や突発的な蘇生を完全に抑える。

そしてSOMNYXに解毒剤の類は存在しない。

赤血球の蛋白質を利用し自身を覆っているために人体の免疫機能は一切作用しないし、分子阻害薬の類も意味がない。細胞を直接攻撃しているのは改造されたとは言え人体の細胞と、そこから生み出される酵素であるからだ。

人体を停止させるナノマシンであるSOMNYXとは真逆の反応を産み出す対抗ナノマシンが存在したとしても無駄だ。

それは指数関数的な戦いとなるだろう。その戦場は人体そのものでありそれに費やされるリソースもまた人体なのだ。戦場は一瞬で荒廃する事だろう。つまり死だ。

NYX。

夜を象徴する女神。

それに囚われた者が目覚めることは無い。

女神に囚われた物はほんの僅かな苦しみさえ感じることなく永遠の眠りにつく。後藤のせめてもの慈悲だ。


後藤はグレイグースのレモンジャム割りを更に飲み、飲んだ分だけウォッカとソーダを足し一杯のレモンジャムを垂らす。

スマートグラスを目にかけ操作用のブレスレットを腕にはめ、パソコンを操作していく。


しかしな、田中さんが庇った奴は本当に警察機構の上部にいる奴なのか、そんな奴に対処できるか?

蛇が聞いた。

いや、田中さんは身内に不正を働いている奴がいて黙っているような人じゃないだろうな。

なら田中さんは誰を庇ったのかな。

憎悪が聞いた。

それを調べているんだ。

後藤はメモリーをパソコンに差し込みデータを読み込んでいく。

おお?いつの間に?

田中さんのスマホを壊す前にな。すぐに壊す必要があったから、全てではないが。

スパイが仕込まれているな、二段階のヤツだ。

え?そんなのを仕込めるのは・・・。

そうだ、上司ではないな。

女かぁ?

恐らくな。これの最後のところだ。


スマートグラスには田中のここ数日の移動経路が表示された。

奥多摩に行っている日は、後藤が和さんに彩へと呼び出された日だ。

後藤はその場所を記憶した。

中野の警察病院を何度か訪れているのは、あの女の保管場所という事だろう。

後藤はそれも記憶した。

そして後藤が田中のスマートフォンを破壊する寸前のGPSデータ。

後藤はそこを拡大した。


マンションだな、五階?いや屋上か。田中さんはここで何かを見たんだろう。

何をだ?

さあな、だがこの部屋にいるのは・・・。

これが田中さんの彼女なのかな?

まあ待て、今落とす。

後藤が左手を動かすと直ぐに要求した情報がスマートグラスに表示された。

照間瑠衣。

この女!!

そうだ、あのバカの女だろうな。


スマートグラスに表示された田中さんが最後に訪れたマンションの住人である照間瑠衣。

それは蔵井戸が岸を襲撃した時に店の裏で待機していたミニバンにいた女だ。















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