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第七十八話 田中IN THE BOX

一日の仕事を終えて晩飯を食ってあとはベッドで横になって毛布を被るまでゆっくりできる。

そんな時に熱い珈琲を啜りながら吸う煙草は最高だよな。

珈琲があっての煙草だし、煙草あっての珈琲だ。

俺が思うに、煙草を吸わない奴は珈琲の本当の旨さってもんを分かってないと思うぜ。

缶コーヒー?ふざけんなよ、あんなもんはただの泥水だぜ。

いや、俺は別に缶コーヒーを否定しているわけじゃないぜ。

世の中には色んな奴がいるからな。

歯を折ってからしゃぶらせるのが好きな奴もいれば、相手が女でも肛門にぶち込みたい奴もいるように好き好んで泥水を啜る奴もいるんだろうな、好きにすればいい、否定はしないぜ。

俺はわざわざ女の肛門を使わせてもらう気にはならないし、晩飯を食った後に吸う煙草に合わせるのは泥水ではなく極上の珈琲が良いってだけだ。

つまりそれは岸の淹れる珈琲だ。


岸の淹れる珈琲は最高だ。

コイツは目玉焼きすらまともに作れないくせに珈琲となったら別人になる。

カフェオレを作るとなれば珈琲豆を変えるどころかアイスとホットでも変えてくる。

珈琲豆を砕くなんて電動のフードプロセッサーでも使えば10秒もかからないだろう。

だが岸の奴はもったいぶるように時間をかけて珈琲ミルの取手を回し挽く。

そりゃあな、厳選してブレンドした珈琲豆だ。それを手回しの珈琲ミルに入れてな、よく分からんネジかなんかを操作してから挽いていくわけだ。そこまでするならそのハンドルを回す速度も重要なんだろう。

岸は珈琲ミルのハンドルをゆっくりと回す。


でもよ、もうそのヤカンの中身は沸騰しているだろう。蓋がカタカタと鳴って「もういいだろ!?」と思っているのは俺だけじゃないはずだ。

だが岸の奴はとっくに沸騰しているって言うのにコンロの火を弱火にして両腕を組んで仁王立ちだ。

岸の淹れる珈琲は最高だ。分かっている。

でも、その弱火は何の意味がある?もう沸騰しているだろ。

早くこの目の前のタンブラーに添えられた特製ブレンドを入れたドリッパーに熱湯を注いでくれよ!

6万円のコーヒーケトルとやらを使えばその仁王立ちが省けるのなら早く買ってくれよ!


だが後藤は急かすようにタンブラーに手を伸ばすことも無いし、もちろん「もう沸騰しているだろ?」などと言うことも無い。


俺には最高の珈琲を淹れるコツって物が何なのかは分からない。

だが、最高の珈琲を淹れてもらうコツってもんくらいは分かる。

それは黙って待っているという事だ。

珈琲を淹れる岸の一挙手一投足を黙って見ているってことが美味い珈琲を淹れてもらうコツってもんなんだよ。


「もう沸騰しているだろ?」

そんなことは岸だって分かっている。

だがコンロの火を弱めて両腕を組んで仁王立ちしている。

何か意味があるんだろう。俺には分からないがな。

分からないなら待っているか、近所の自販機に行って泥水を買ってくるほかない。

泥水を飲みたくなけりゃ、黙って待っていろと言うわけだ。


後藤はポケットの中の振動を感じた。

デバイスだ。

コンロに向かって仁王立ちをする岸の背を見てデバイスを取り出した。

これは!?

後藤は何度か指をスライドさせてからデバイスをポケットにしまった。


そして岸の様子を見る。

岸はやっとコンロの火を止めてヤカンを手にした。そして振り返る。

岸はこれまたゆっくりと二つのドリッパーに熱湯を注いでいく。


岸、今すぐそのヤカンを置いてポケットからデバイスを出せ。

後藤はそう願うが岸は珈琲を淹れる手を止めない。

いや、気が付いているはずだ。

気が付いていないのならそれは大問題だし、気が付いているのにそれなら、それはそれでもっと大問題だ。

だが岸は変わらずゆっくりとドリッパーに熱湯を注いでいる。蒸らすかのようにその手を止め、少し待ってからまた注いでいく。


岸、デバイスを確認しろ。頼む。

お前のポケットの中で振動したはずだ。

それはスパムメールの通知ではないし、SNSでイイね!された通知でもない。

デバイスの通知。それは命にかかわるものだ、今すぐに確認するべきものだろう?

お前がこのゲームに心底ウンザリしているのは知っている。

生き抜く方法より抜け出す手段を知りたがっているのは分かっている。

だがそれは目を逸らしたところで何の意味もない。見なければ消えてくれるわけじゃないだろ。


岸、お前はあの時に俺を殺さなかったよな。お前は俺のこめかみにドライバーをあて、少し力を入れてそれを押し込めば俺を殺せた。

だがお前はやらなかった。

その気持は分かる。

だからデバイスを確認しろ!


だが岸は二杯の珈琲を淹れ終えると一つを後藤の前に置き、もう一つに手を伸ばした。


だが岸の手は自分のタンブラーに手を伸ばした寸前で止まる。岸は諦めたような表情で下唇を噛むとポケットからデバイスを取り出し確認した。


「これは!?」

「どうした?」後藤はそこに何が表示されているのかはもちろん知っている。後藤が送ったのだから。

「田中さんが・・」

「田中さん?なんだ?」

岸がデバイスを差し出し、後藤が珈琲を啜りながら覗き込む。

「バウンティ?田中さんが……?」

「どうする?」

どうするって言われてもな。

後藤は自分のデバイスを取り出した。

岸はタンブラーには手を伸ばさず、後藤を見つめている。

助けに行こう!と言うわけでもなく、放っておこうと言うわけでもない。ただ後藤の判断を待っている。

後藤はデバイスをしまい立ち上がる。

「どうする!?」

「放ってもおけないだろ」

「助けるのか?」

そう言う岸の考えは分かる。

バウンティに載った俺を見たときと同じ気持ちだろう。

「行ってみるが、どうする?」

岸はその顔に少し希望を宿しながら頷き、二人は田中の下へと向かう。

二人はCX3に乗り込み上野桜木へと向かった。

「どうするんだ?」岸は聞くがお前が何を考えているのかは分かるぜ。お前が考えているのはあの公園の時と同じだろう?つまり、何も考えていない。

殺すつもりでもなければ、助けるつもりでもない。

自分じゃ決められないから俺に付いてきただけだ。

俺の時みたいに仲間に入れるか?

それは無理だ。田中さんは警察官なんだからな。

明日から一緒に人を殺しましょうなんて出来るわけがない。

それにあの時の俺は敵を殺した。田中さんにそれができるか?

出来たとして、田中さんがそれを放って逃げると思うか?

だが行ってみるしかない。



田中は立ちすくんでいた。

通報することも、立ち去ることもできずにいた。

あれば瑠衣さんのしたことなのか?

何度も何度も考えた。もしアレが鈴木でなかったのなら一縷の望みはあったかもしれない。

だがあの死体は鈴木だった。鈴木は瑠衣さんをあきらめきれずに付け狙っていたのだろう。瑠衣さんが関わっているのは間違いない。


なら逃げるか?何も見なかったことにしてここから立ち去るか?

それも無理だ。警察官としてそれは出来ない。

だが田中は心の何処かで、アレを見なかったことにすれば何かの間違いだったとなるのではないか?

そう思い込みたかった。

その思いからか田中はフラフラと歩き瑠衣のマンションから少しずつ離れていた。

交差点で止まり後ろを振り返る。

まだ離れていない。逃げたことにはならない距離だ。

田中は踵を返しマンションに戻り通報することも、首を振って逃げることもできずまた立ちすくんだ。


交差点の信号は赤だった。

田中は背後から突き飛ばされた。

そこへ1台のSUVが突っ込んでくる。

田中はかろうじて身を翻したがSUVのサイドミラーに右腕をぶつけた。右前腕に激痛を感じ顔をゆがめながらも背後を振り返った。

そこには驚いた様子の歩行者が数人いるだけだった。

なんだ!?

SUVのミラーは衝撃で折れ、数メートル先に転がっていた。

田中は痛みが走る腕を押さえ周囲を見渡す。SUVはそのままブレーキランプすら点けることすらなく走り去った

幾人かと目が合ったが、すぐに目をそらした者がいた。それは明らかに不自然だった。目が合ったというよりこちらを見ていた。そして意図的に目をそらした感じがする。

何だ!?

田中は身の危険を感じた。

殺されかけたのだ。

なぜ?

考えるまでもない。鈴木の死体を見たからだろう。

だがなぜ!?


………瑠衣さん、なのか?

田中は周囲に目を配りながら足早に動き出した。

だがすぐに危機を感じ取る。警察官としての感覚が訴えてきた。

つけられている!


命を狙われている?ここは日本だぞ!それに俺は何か世界を揺るがすような秘密を知ってしまった男でもない。

ただ、死体を見ただけだ……。

鈴木の死体も、命を狙われているという感覚もまるで現実的ではない。

だが田中は警察官として培ってきた自分の感覚を信じ、周囲の気配に気を配る。

前方から両手をジャケットに突っ込んだまま一人の男が歩いてくる。

足元に目を向け田中を目を合わせないようにしている。

そんなに足元を見て歩くのなら浮浪者のふりでもするか、スマホでも手にしていればまだ自然だろうし、逆にジャケットのポケットの中で何かを握り込んでいるのは恐ろしく不自然だ。

田中はその男から目を離さないが背後への注意も怠らない。忍び寄ろうとするかすかな足音も聞き逃すことはないだろう。

前方の男が顔を上げ田中を睨みつけた。

「あぁ!?何だテメェ!ガンつけてんの……」

田中は即座に反応し男の右腕を抑え足を払うと同時に頭を壁に叩きつけた。

男が軽く叫び声を上げ蹲ったところを蹴り倒し、背後を振り返った。

近くにいた数人は突然の暴力沙汰に驚いいた視線を田中に向けていた。

「落ち着いてください、警察です」

田中は制するように両手を広げ訴える。

周囲の人は田中と、頭から血を流す男を交互に見て訝しげな表情を浮かべていたがそうではない者が一人いた。

ジャケットから出しかけていた手を引っ込め視線をそらすように近寄ってくる。


田中は走り逃げ出した。

あの手には何か握られていた。

ナイフならまだいい、もちろんその所持は違法ではあるがまだ現実的だ。だが男の握った拳の指の間から飛び出していた物が光り見えた。映画に出てくる暗殺者が持つ特殊な武器のようだった。

田中は怯え、恐怖に囚われた。

鈴木の死体。突き飛ばされ車に轢かれかけ、車は逃げるように走り去った。男が突然絡んできた。そして得体のしれない凶器を隠し持つ男。

警察官の感と言ってもテレビで見る密着ドキュメンタリーのような第六感などない。だからこそ色黒の外国人が不当な職務質問を受けたなどと訴え出たりするのだ。

だが警察官の感と言うものは全くないというわけではない。

少なくとも田中にはある。誰が狙ってきているのかなどと分かる訳では無いが、20年以上の警察官人生が「逃げろ!」と喚き立てている。

だが人を突き飛ばして走るわけにもいかない。一般人かもしれないと気にかけているわけではない。突き飛ばそうとした男が田中の脇腹をそっと触るかもしれないのだ。その手には何があるのか分からない。


田中は通行人から距離を取りつつとにかく逃げ出した。

どこに?

分からない、とにかく逃げろ!

「田中さん!」

名前を呼ばれ田中はビクッと体を震わせ壁に背をつけ周囲を見渡した。

道路の反対側の車から手を振る男がいた。

岸?エビス屋の岸だ。運転席にいるのは後藤……くんか。

周囲を見渡し田中は道路を渡り助手席の岸に助けを求めることにした。とりあえずここから離れるんだ!

「あぁ岸くん、それに後藤くん、ちょうどよかった、良ければ乗せていってくれないかな?」

岸くんが後藤を振り返った。

それもそうだろう、いきなり車に乗せてくれと言われるほど二人と仲が良いわけではない。

「田中さん、今から松さんのところに行くんですけど、一緒にどうです?」

願ってもない!

「あぁ行きます、お願いします!」

田中が車の後部座席に乗り込むと後藤はすぐに発進させた。

ひとまずは助かった……のか?松さんのところなら通行人の目は届かないし、いきなり襲われることもないだろう。なにより車に轢かれることもない。

「お茶でも飲みますか?」後藤がそう言って岸に目配せをした。

岸が田中にペットボトルのお茶を差し出した。

喉がカラカラだった田中は礼を口にし一気に半分ほど飲み干しようやく一息つけた気がした。

「ありがとう」

しかし、エビス屋の二人が浅草の松のところに行くのになぜこんなところに?


そう訝しむ程度にまだ田中は冷静だった。

だが体の力が抜けていく。目が開けていられない。

まさか!この二人も!?

田中は気を失いかける瞬間にあのホームビデオカメラに入っていたテープの存在を思い出した。

後藤。やはりあれは後藤だったのだ……。



「ご、後藤……?」

田中は目を覚ました。

寝て起きたという感覚ではなく、後藤の運転する車の中で目を閉じ、気が付いたらここにいたという感覚だ。寝ていたわけでない、気絶していたのだ。

あのお茶に何か仕込まれていたのだろう。

だが、身体が動かない。

心配そうに田中を見る岸が目の前にいる。

「ここは?」田中は聞くが岸は答えない。代わりに後ろを振り向き後藤を呼んだ。

「起きたみたいだ」

「見りゃあわかるよ」後藤はそう言って田中の前に歩み寄った。岸は不安そうな顔のまま下がった。

「田中さん、俺が誰か分かる?」

「な・・・後藤……くん?」

「よし、せん妄状態ではないみたいだね。田中さん、聞きたいことがある。時間がないんだよ」

「う……これは?」

身体が椅子に縛り付けられていた。頑丈そうな黒いダクトテープで両腕と両足も固定されている。

だが後藤は薄い微笑みを浮かべて、そんな事はお構い無しとばかりに質問を続ける。

「よく聞いて。時間が、ないんだ。田中さん、何を見たの?」

「ここは?ここはどこだ?」

どこかの地下なのか?ドアが一つあるのみで窓がない。

「田中さん。時間がないんだ、本当に。頼むから答えてくれないかな」

「まずお前が答えろ後藤!ここはどこだ!何のつもりだ!!これを外せ!」

叫ぶ田中に後藤は首を振りポケットからドライバーを取り出した。

「何をするつもりだ!?」後藤は田中の懸念通りの行動を取った。

後藤は容赦なくドライバーを田中の太腿に突き刺した。田中は激痛を吐き叫び苦痛に顔を歪め後藤を問い詰める。

「何をする!!」

「痛いよね?でもね、避けられないし逃げられない。次に俺がなんて言うと思う?冗談ですよ田中さん、驚いた?なんて言うと思う?足にドライバーをぶっ刺してんのにそんな事を言うと思う?いいから答えて、何を見たの?」

「後藤!!今すぐこれを外せ!」

「田中さん、あんたは命を狙われているんだよ。車に寄ってきた様子だと自分でも感づいていたんじゃないかな?あれはハックエイムの連中。奴らからは逃げられないんだ」

「後藤!お前もその一人なのか!?俺を殺してどうする!」

「僕が殺すつもりならあなたはここで目覚めてないだろうね。ねぇ分かってよ田中さん、時間がないんだよ。何を見たの?教えてよ」

「それを聞いてどうする!」

後藤は呆れ顔で首を振って田中に刺さったドライバーを指で弾いた。

ぐうぅ!!再び田中に激痛が走る。

「わかった、時間はないが仕方がない。よく聞けよ。よく聞いて、考えろ」

後藤の顔つきが冷酷な蛇のように変わり田中を見据えて言う。

「田中さん、ハックエイムって知ってるか?少しだけアメリカの投稿サイトで話題になったよな、日本を支配してる謎のダークウェブとかなんとかって、まぁすぐに消されたけどな。でな、あんたは見てはいけないものを見た。それはおそらくハックエイムの誰かの知られたくない秘密なんだ。当然、それを見られた奴はあんたに生きていられちゃ困るんだよ。だからバウンティに載せた。バウンティに載った田中さん、あんたはハックエイムの連中から命を狙われている。殺されたくなければ何を見たのか言え」

「ハックエイムだと?ネットの都……」都市伝説の類だろ。そう言いかける田中を後藤が遮る。

「何度も言うが時間がない。ハックエイムは都市伝説なんかじゃない。本当にいやがるクズどもだ。あんたはそいつらに命を狙われているんだよ。何を見た?それがわからなけりゃ対処のしようがないんだよ、早く言えって」

「聞いてどうする!?」

「そいつを殺す」後藤は蛇の顔のまま唇を舐めた。

「何!?」

「バウンティを出した奴を殺せば時間はかかるだろうが、取り消される」

「私はそいつを見たわけじゃない!!」田中は答えるがそれは白状したようなものだ。

「そう、田中さん。あんたはそいつの知られたくない何かを見ちまったんだ。そいつは誰だ、何を見た?言え。時間がないんだよ。ハックエイムの奴らにここがバレる前に殺さなきゃならないんだよ」

「殺す?殺すのか!?」

「そう、言ってるだろう」

「言わなかったら?どうなる」

「わからないか?聞くまでもないだろ」


瑠衣さん……なぜ……。

どこで間違えた?なぜこんなことに…。

田中は瑠衣の事を話すつもりはない。だが黙っているつもりもない。

「後藤!やはりお前だったんだな、5人殺しは!」

後藤の表情が曇る。

「なぜ……」知っている?そう言いかけた後藤の言葉が止まる。

「やっぱりお前か!何者だお前は!?」

「5人殺しって……なんだ?それは」

岸が後ろから聞くが後藤は少し振り返りすぐに田中を見据える。

「なぜ知っている?」

「教えると思うか!?」

いいや。

後藤は首を振った。

「この殺人鬼め!俺をどうするつもりだ!!」

「残念だよ、田中さん」

「ここはすでに警察に取り囲まれているぞ!すぐにでも乗り込んでくる!俺を解放しろ!」

それを聞いて後藤は微笑みを強めた。

「さっき、あんたは『ここは?』って聞いたばっかりだろ。それにあんたはまだ通報していない。通報していたら逆にそいつがバウンティに載って今頃殺されているだろうな。だが田中さん、あんたのバウンティはまだ消されていない、つまりそいつはまだ生きている。そう、あんたは通報していない。だから、そいつを殺すか、田中さん、あんたが殺されるか。もしくは……」

二人とも死ぬか。

「私のスマホの位置情報を探知しているんだぞ!外には・・」

「つまんねぇよそれ」

当然だが後藤は田中のスマホは既に破壊し捨てている。

後藤は小さく首を振り田中に背を向けて部屋の隅にある机から注射器と小瓶を取り出した。

「どうするんだ?」不安そうなままの岸が後藤に声をかけるが後藤は答えない。

田中の前に屈みこんだ後藤は注射器を小瓶に刺しシリンダーを液体で満たし田中の腕に当てた。

「なんだそれは!止めろ!」田中は必死に避けようとするが頑丈なダクトテープで縛られた状態ではほとんど無意味だった。

「暴れるなよ、余計に苦しむことになるぜ」

後藤はそう言うがもちろん田中としても大人しくしているつもりはなく、必死にもがく。

「放せ!何だそれは!止めろ後藤!!」


注射器を手にした後藤がそれを田中の腕に刺した。

「止めろ!!」田中が叫びそれを見たが後藤はゆっくりとプランジャーを押し田中の体内に薬物を注射した。

田中は後藤を見た。

コイツ、本当にやりやがった!

「暴れるなって言ってるだろ」

後藤はそう言ってもう一度シリンダーを満たし再び田中に注射した。

田中が後藤に怒りをぶつけようとしたがすぐに暗闇へと連れていかれた。

死ぬんだ。田中はそれを自覚した。

怖かった。

恐ろしかった。

暗闇の中に母がいた。

走馬灯だと田中は思った。

(母さん、ゴメン。俺は先に行く)

田中は母には泣きつきたくはなかった。助けを求めはしなかった。母に怯えている姿を見せたくはなかった。必死に身体の震えを押さえ恐怖に耐えていた。

母の隣に誰かが立っていた。

田中が目を凝らしてそれを見ると父だった。

父がこちらに歩いてくる。やめてくれ 来ないでくれと田中は思った。

田中は突然父との過去を見た。


キッチンで母が料理をしている。外は明るい、おそらく朝食だろう。

父がまだ幼い田中をあやしてくれている。いつの記憶だろうか?思い出せない。

父が田中を抱え上げる。

それはとても高く、田中が怖くて泣いてしまったから父は田中をソファーにおろし、謝る。

田中の泣き声を聞き、母が振り向いた。父を咎めているようだったが父は申し訳なさそうな顔をして母に謝り田中を抱きかかえ優しく揺さぶっておかしな顔をして、田中を笑わせようとしていた。


その父が田中に向かって歩いてくる。

連れて行かれる。田中はそう思ったが父が怖かったわけではない。ただ走馬灯が、死が怖かった。

キッチンにはアヴィーチのザ・ナイツがかかっている。父が好きだった曲だ。父はアヴィーチが好きだった。それを突然思い出した。

いや違う!父さんはアヴィーチなんか知っているはずがない!

これは俺が父さんを覚えていると、そう思い込みたかっただけだ。

俺には父さんの記憶なんかないんだ!

だがアヴィーチーは田中のために歌う。


全ての恐怖と向き合い 泣きながら知った

決して忘れられない思い出を作れ

ある時、父は言った。決して道を間違えるなと

父は私を腕に抱き、私はその助言を聞いた

お前はいつか過ちを悔やむ時が来るだろう

それを恐ろしかったら父さんを思い出せ

いつかお前もこの世を去ることになるだろう

だから精一杯に生きてくれ

まだまだ私が幼かったから父さんが言ってくれた

お前は死なない

父さんが言う

雷と豪雨に打たれてもお前の火は消えない

空に輝く星にお前の名を刻め

海を越えてお前の人生を刻め

絶対に諦めるな父さんはお前を見ている

父さんは言った。決して道を間違えるなと


田中は幼い頃の唯一の父の記憶を思い出し、母に申し訳なく思った。

俺は死ぬんだ。今ここで死ぬんだと思った。父に連れていかれるのだと思った。

イヤだ!死にたくない!母さん!父さん!イヤだよ!死にたくない!

父はゆっくりと田中に向かって歩いてきた。

それが死であることは分かる。父が田中の肩に手を置きすまなそうな顔を見せた。

ヤダよ!俺は死にたくないよ父さん!母さん!!

田中がそう叫ぶと父は肩に置いた手で愛おしそうにその肩を撫でると名残惜しそうに田中を置いてそのまま歩み続けていった。

父さんが行ってしまう、しかし母さんは動かない。田中はどうすればいいのか分からない。

「父さん!」田中は去り行く父に声をかけた。

父は田中を振り返り嬉しそうに微笑みそのまま行ってしまった。

「母さん!」田中は微動だにしない母に叫んだ。

だが母は遠くに行く二人を寂しそうな顔でただ見つめているだけだった。

田中の意識は途絶えた。そしてその身体は小さな青い箱に納められる。


後藤はぐったりとしている田中の首に手を当てた。

すでに脈拍はだいぶ弱くなっている。

暴れると苦しむと言っただろう。

後藤はほんの少しだけ田中を憐れみはしたがどうすることも出来なかったのだ。他に方法はなかった。


後藤は田中の肩にそっと手を置き、そして背後の岸に言った。

「ボディボックスを持ってきてくれ」

だが岸に動く気配はない。

後藤はゆっくりと振り向いた。

「どうした?ボックスを持ってきてくれ」

だが岸は動かない。

その顔は恐怖と後悔に満ちているようだった。

まるで殺人を始めて目撃したかのようだった。

少しだけ違うのはその表情の片隅にわずかな怒りがあった。

岸は声を震わせながら言った。

「殺し・・たのか・・・」

後藤には岸の考えている事、その気持ちが分かる。

だから後藤は何も言わずに立ち上がり、岸に目を向けることなく部屋の隅にある机に歩み寄り、その引き出しから一本のアンプルを取り出した。

そして注射器と共に岸に差し出し告げる。

「解毒剤だ、まだ間に合うかもな」

だが岸はそれに手を伸ばさない。

「どうした。早く打たないと確実に手遅れになるぞ」

後藤は押し付けるように注射器とアンプルを岸に差し出す。

岸は恐る恐るアンプルを手にしガラスの細首を折り取ると注射器に手を伸ばした。

「ちゃんと血管に打てよ、筋肉注射じゃ間に合わないからな」

「分かってる!」

岸はそう言うがアンプルに刺した注射器が震えカチカチと小さな音を立てている。

「本当か?手が震えているぜ。まあいい、やりながらでいいから答えてくれ。田中さんをどうするつもりだ?」

「助けるんだ!!」岸は邪魔するなとばかりに声を荒げる。

「それは見れば分かる。オレが聞きたいのはその後の事だよ。田中さんにオレ達とハックエイムの連中を殺していきましょう!とでも言うつもりか?」

「そうだ!お前だって・・・」岸はゆっくりと注射器を田中の腕に当てた。

「田中さんはオレと違うだろう、田中さんはまだバウンティに載ったままだぜ。少なくともそいつを殺す必要があるだろ?だが目が覚めても田中さんはそいつが誰かはいわないだろうな、なんせドライバーをブッ刺されても吐かなかったんだぜ」

「説得すれば田中さんだって分かってくれる!!」

岸は田中の上腕を掴み静脈を浮き出させようとしているが拍動は止まりかけている。それは難しいだろうし、田中さんを説得するって言うのはもっと難しいだろうな。

「田中さんは殺されるってのに言わなかっただろ、それは誰だろうな。おそらくは警察内部の人間だろう。田中さんがその命を犠牲にしてでも口にしない。という事は警察内部でもかなり上層部の人間だろうな」

「そんな・・まさか・・・!?」岸の手が止まった。

「おいおい、今更かよ。こんなイカれたゲームがニュースにもならずに続いているんだぜ?オレ達が明日にも自首したところで入るのは檻の中じゃなくて箱の中だろうよ。そしてそれはニュースにもならない。誰にも知られることなくオレ達は消えるだろう。それくらい分かっているだろう」

「だけど・・」岸もそれくらいは分かっている。そして後藤も岸の考えていることくらい分かっている。

「まあいい、そいつを殺せたとしようか。だが田中さんはどうする?警察官なんだぜ、明日から心機一転人殺しなんて出来ると思うか?田中さんがそう思ってくれたとしても無理だ。ここいらの全ての警察官が田中さんを知っているんだぜ、顔を変えてもらうか?」

「ならお前は田中さんを殺すためにここにつれて来たのか!?」

分かるぜ。お前の言いたいことはよく分かる。だから言わせてもらうぜ。

「なあ、お前は田中さんがバウンティに載ってから何も言っていないよな」

一瞬、顔を伏せ何か言いかけた岸を後藤は遮った。

「田中さんを放っておくか、助けるか。それとも殺しに行くか。お前は何も言わずにオレについてきただけだろ。それなのにオレがソレを挿したら口を挟んできた」

「なん・・だと・・?」

「お前が田中さんを助けたかったのなら口に出せばよかっただろ。ここまでそれを口にする機会はいくらでもあった、でもお前はオレがソレを挿すまで何も言わなかった。お前は助けるフリをしたいだけだ、違うか?」

岸は身体を震わせ唸るように言い返す。

「俺はお前みたいに殺しを楽しめないだけだ!!」

後藤は小さく首を振って答えた。

「オレが殺しを楽しんでいる?オレが苦しそうにしていればお前が代わってくれたって言うのか?」

「なら五人殺しって何だ?ニュースにあった女の拉致事件だろ、お前は何をしている!?」

「それか・・・。それはたまたまハックエイムの一人を見つけてな、そいつがオレ達の脅威になるか、動向を注視していただけだ」

「注視していただけだと?殺したんだろう!?お前が!脅威だったのならなぜ俺に言わない!?」

「ああ、殺した。お前に言わなかったのは別に脅威でもなかったからだ」

「脅威でなかったのならなぜ殺した!五人も殺した意味は何だ!」

岸は自分の知らないところで殺人を重ねていた後藤に恐れを抱いた。以前なら頼もしいと思ったかもしれない。だがもう無理だ、後藤が恐ろしい。

岸はその目に涙を溜めていた。その目に恐怖と、罪悪感。あと僅かな後悔が溜まっていた。

「あの女、酷かったぜ。なんせ五人もの男に寄ってたかっていたぶられ続けていたんだからな。指はひん曲がって歯も骨も折られて鼻は潰れていた。血と痣で三毛猫みたいに薄汚れた女だったがアイツらそんな女をまだ犯していた」

後藤は岸を見つめながら淡々と自分が見た惨状を告げる。

岸は目を逸らすことしかできない。

そんな岸に構わず後藤は言葉を吐き続ける。

「殺した意味か」

「そうだ、楽しんでいないと言うのなら、その殺人に何の意味があったって言うんだ!」

岸は必死に語気を強めた。後藤の行為を否定したかった。

「あの女、狂ってたぜ。助かったって言うのにオレに殺してくれって言ってきた。それで田中さんに連絡して保護させたんだがな、なんでかバレてたみたいだな」

「女を助けたつもりか?結局死んだじゃないか」

「死んだって言うなら仕方がないな、だが別に女を助けたつもりなんかないぜ。殺した意味?そんなもんはねえよハックエイムだから殺した、それだけだ」

「脅威でもなく楽しみでもなく意味も無く殺したって言うのか!」

「ならお前は今までの殺人に意味なんか持っていたのか?」

今まで重ねてきた殺人の意味?それはもちろん・・・。

「そ、それは・・・殺さなきゃ、殺されていたんだ・・・」

「それは殺す意味じゃねえ、それは殺した理由だ」

「ならお前が五人も殺した理由はなんだ」

「言っただろ、ハックエイムだったからだ。脅威になってから殺すか、脅威になる前に殺すか。同じ事だ」


後藤が恐い。

「オレが殺しを楽しんでいる、本当にそう思うのか?」

だが、後藤をそうしたのは、後藤をこのゲームに引きずり込んだのは岸なのだ。

岸は歯を食いしばり大きく首を振り両手で顔を覆っておそらく、泣いていた。

「違う!違うんだ!!」

後藤はそれを少しの間だけ眺め、そして言った。

「コレがクソを漏らす前にボックスを持ってきてくれ」

岸は注射器を置き力なく半地下の作業場から出て行った。


「何か曲をかけてくれ」

後藤が口にすると天井のスピーカーからアヴィーチーのHey Brotherが流れた。


おい、兄弟

このゲームにゴールなんて無いんだぜ

なあ・・・

どんな酒より酔える時間だったよな

ああ、全てはもう終わりだ

だからオレは何でもする

おい、兄弟

まだオレを信じていいるのか

なあ・・

まだ愛していていいのか

オレには分からない

だが世界はもう終わる

お前らの為であるなら

オレは何でもする・・・


岸がボディボックスを引きずりながら作業場に戻ってきた。

後藤は田中の身体を何とかボックスに収めてから封印するために岸にデバイスを要求した。

「デバイスを貸してくれ」

岸はうなだれたままポケットからデバイスを取り出し後藤に渡した。

後藤はデバイスを受けとりながら岸に問うた。

「お前はなんであの時にオレを殺さなかったんだ?」

「え?」

岸は後藤に顔を向けてハッキリと見る事は出来なかったが後藤は岸をハッキリと見てもう一度言う。

「あの時、あの公園でお前はオレを殺せただろう?なぜ殺さなかったんだ」

岸はそれに答えられず顔を背け、そして後藤に背を向けた。

後藤はポケットから自身のデバイスを取り出し田中を収めたボックスにかざすとピーっと電子音が鳴りボックスは封印された。

後藤は固まっている岸を尻目に田中を収めたボックスを押して歩き言った。

「あの時、なんでオレを殺さなかったのか?それを思い出せ」

そして岸のデバイスを返した。


アヴィーチーが告げる。

全ては終わりだ

だからオレは何でもやる

あの頃にはもう戻れない

お前の嘆きが聞こえる

全てを失ったら?

オレが何とかする

全てが終わるなら

お前らのために

オレが全てを捧げる








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