第七十七話 賞金首
「せんせー!また明日ねー!」
まだ初潮も迎えていないであろう小さな女の子がこちらに手を振りながら帰って行く。
「頑張ったねー!」瑠衣は手を振り返してやる。
女児は水泳の進級テストに合格し4級へと上がり同級の皆と同じようにイルカさんクラスに上がれたことを喜んでいた。もちろんそれは瑠衣がストップウォッチを早めに止めてやったからなのだが。
それでいいのだ。公的な試験でもないし、こんなものはストップウォッチを手にする瑠衣の気分次第で済む事だ。
ストップウォッチを止める手を女児の手がゴールに着くまで待って「ダメだったよ」と告げて、何がダメだったのか、どうすればいいのかと目に涙を溜めて訴えてくる女児を相手にするなど面倒でしかない。
あの裕福な家庭に育つ女児が帰れば瑠衣の仕事は終わりだ。
シャワールームで髪を軽く洗い流しロッカールームへと入る。
タオルで髪を拭き乾かし全身を拭いながら自身のロッカーの前に立った。
水着を脱ぎ、タオルでもう一度身体を拭いロッカーを開けた。
カバンの中からヴーという微かな振動音が聞こえたが気にすることも無く下着を身に着けていく。
ジーンズを履きTシャツを着たところでその異変に気が付いた。
カバンの中から響くバイブ音は仕事中はサイレントに設定しているスマホの着信かと思ったが様子がおかしい。ヴー!ヴー!という断続的な物ではなくヴー!と振動を続けている。
瑠衣はカバンを開け中を見た。
振動していたのはスマホではなく、デバイスの方だった。
デバイスに手を伸ばしたところでロッカールームのドアが開いた。
瑠衣は咄嗟にデバイスをカバンの中に押し戻す。
「あら、まだいたの?」
ロッカールームに入って来た女が舌打ちしながら言った。
「ええ、もう帰ります」と瑠衣は返すが、カバンの中のデバイスは振動し続けていた。
女は瑠衣の背後を通りすぎながら言う。
「男から?」
そう言って鼻で笑った。
この女の名前は水田だったか。
この女が瑠衣の事をよく思ってはいないのは分かっている。だから出来るだけ顔を合わせないようにしていた。
瑠衣はこのスイミングスクールでの仕事をいつもキッチリ時間通りに終えて後にするし、この女もいつもより10分早く来ることも無かった。お互い時間を守り顔を合わせる事は少なかった。
だが今日はあの女児の進級試験があった。
プールの水面で暴れているだけのあの女児に、多少なりとも水泳と言うものを教える必要があったのだ。
さすがにまだプールの半分も泳ぎ終えていないのにストップウォッチのボタンを押すわけにもいかないだろうからだ。
瑠衣は仕方なく一応の返事だけを返した。
「ええ、まあそうかもしれませんね」
「羨ましいわね、あんたはいつも子供の相手。私はエロじじいどもの相手・・・」
女はそう言って自身のロッカーの前に立ち服を脱いでいく。
そう、瑠衣の勤務時間は夕方5時まで。学校帰りの小学生の相手をするだけだ。
だが6時になると近所のオッサン連中がやってくる時間だ。
瑠衣はこのスイミングスクールで同僚であるインストラクター達と最低限の礼儀程度には接してきたつもりだった。
他のスイミングスクールがどうかは知らないがここではインストラクターのほとんどが女性だ。
あの女児の母親はインストラクターが女性であるからこそ安心して子供を預けることが出来ているのだし、それは男児を持つ親であっても同じだろう。
そしてそれは午後六時になるとやってくる近所のオッサン連中でも同じことだ。みな比較的裕福な下腹の突き出たオッサンどもだ。日頃の運動不足を解消するという口実でやってきて、その際に若く屈強な肉体美を見せつける男性インストラクターに劣等感を抱くより目の保養が出来た方が楽しめるというわけだ。
本格的に水泳を学ぼうとしている者なら何かの大会で金メダルでも取ったとか、オリンピックに出たとか言う経歴を持つ男性コーチを求めるのだろうがここのスイミングスクールにそんな生徒はいない。
そんな中、この水田と言う女性インストラクターはオリンピック強化選手に選ばれたことがあると言う経歴を持っておりそれはこのスイミングスクールの皆が知るところだった。
水田は事あるごとにそれは優れた才能を持つ限られた者だけが進める場所だったとか、金メダルを取ったあの選手と競っていたなどと過去の栄光を吹聴していたからだ。
それが水田の唯一の誇りであることは皆が知っていた。だから間違っても「オリンピックに出たんですか?」などと聞いた者はいない。
正直、瑠衣は興味すらわかなかった。
スポーツなど男の物だ。
水泳に限らずスポーツの世界記録保持者を聞いた時に「陸上100メートル走の世界記録保持者は?」と聞かれたらウサイン・ボルトと答える者は多いだろう。だが「では女性では?」と聞かれてフローレンスジョイナーと答えることが出来る人は少ないだろう。そして、そこには1秒近い差がある。
オリンピックで女性が男性に勝つことが出来る競技など馬術くらいの物だ。
この水田という女性は幼い頃から水泳に打ち込み、水泳に青春を捧げてきたがオリンピックという夢に届かず気が付いたら、その10年以上の努力の結果をオッサン連中の下腹を少しでも凹ますために使う事になったという事だ。
それでも瑠衣より遥かにマシな人生だろう。
少なくとも瑠衣は、嫉妬というほどではないが自分を信じて打ち込めることがあった水田を羨ましいと思っていた。
母親の男にレイプされ続け、ついには母親に捨てられ生きるために少しでもマシなところへと上がるためにクズ男の相手をすることは無かっただろう?
自分の親を障害物だと思ったことなど、決してないだろう?
自分の親を・・・。
瑠衣はそれ以上思い出すことを首を振って遮った。
「子供の相手も大変ですよ」
瑠衣はデニムジャケットを羽織りながらそれだけ答えて振動を続けるデバイスの入ったバッグに手を伸ばした。
そこに水田が返した。
「あなたのその胸の方がジジイ連中にはウケると思うけどね」
地獄を味わった者はこれ以上は堕ちたくないと恐れるが、天国を夢見てきた者はいつまでも上を見続ける。
瑠衣は前者で水田は後者なのだろう。
「ええ、だからあなたぐらいがちょうど良いのよ」
瑠衣はそれだけ言って更衣室を後にした。
瑠衣は愛車のスバルのインプレッサに乗り込みエンジンをかけた。
助手席に置いたバッグの中でデバイスはまだ振動を続けている。
瑠衣はバッグを開け中から振動を続けるデバイスではなくスマホを取り出した、そして電話をかける。もちろん蔵井戸のスマホにだ。蔵井戸はすぐに出た。
「なんだ?」
「あのデバイスが故障したのかと思ってさ」
「故障?お前、あれは命と同じくらい大事な物だって教えたろ?落としたくらいじゃ壊れたりしないぞ、何をした?」
「何もしてないわよ、ただずーっとバイブが止まらなくて」
「バイブが止まらない!?お前何した!通知ランプは何色だ!」
瑠衣はバッグからデバイスを取り出してみた。
「え?赤いけど。何これ?私は何もしてないわよ」
「お前!赤?マジか!クソ!!」
電話の向こうの蔵井戸の焦る様子を瑠衣も感じ取る。
「ちょっと何よ!なんだって言うの!?」
「もうすぐお前がバウンティに載るってことだ!その赤が消えて黒になったらお前はおしまいだ・・」
「何の話!?バウンティって何!?おしまいって何!?」
瑠衣の脳裏にあの青いバレルが浮かぶ。そこに入っているのはもちろん瑠衣だ。
「警察にバレる寸前ってことだ!警察に情報が回ったらおしまいなんだよ!!」
「何がよ!!!」
「なにがってそりゃああの変態チビだろ、誰かがあの中身を見やがったんだ!お前!鍵をかけていなかったのか!?」
「かけていたわよ!」
「ならなんでだ!誰があそこには入れる!?」
瑠衣はそう言われて田中に合鍵を渡していたことを思い出した。
「あの警官かも、田中・・・」
「合鍵を渡していたのか!?」
「う、うん・・・」
「バカが!!なんでそれを言わない!鍵も変えずに!!」
「でもまさか来るなんて・・・ど、どうすればいいの?」
「クソ!!クソが!!!」
蔵井戸はそれだけ言って黙ってしまった。
「ちょっと、なに?おしまいって何のこと?」
瑠衣は分かっている。だが蔵井戸に何か言って欲しい。ああしろこうしろと言って欲しい。
「ねえ・・」
「今、お前のデバイスに俺のクレジットを送った。デバイスを俺の言うの通りに操作しろ、急げよ。だが間違うな!!」
「う、うん。わかった・・」
瑠衣は蔵井戸の言うとおりにデバイスを操って行く。
マンションの防犯カメラをハックし田中が屋上に行くところを確認した。瑠衣の部屋のドアを開け中に入って行くところも見た。
「デバイスのランプが赤ってことは田中ってヤツはまだ通報していない!通報されたらお前はおしまいだ!ヤツを始末するしかない!」
「始末って・・・・何よそれ・・私が?まさか・・・」
「黙れ!言うとおりにしろ!」
何?なんで?どういうこと!?おしまい?何がおしまいなの?
瑠衣は混乱するが今は蔵井戸の指示に従うほかない。
瑠衣は蔵井戸の指示する通りにデバイスを操作していく。
「押したか!?」
蔵井戸が強い声で言う。
「う、うん・・これでいいの・・?」
瑠衣は弱い声で答える。
「これであの男はバウンティだ。あとはあのデカ物が通報するかハンターが始末するのが先か待ってろ!通知が来るを待つしかない!!」
「通知って!?」
「赤いランプが消えるか黒になるかだ。念のためそれまで家には帰るな!」
蔵井戸は電話を切った。
だが瑠衣が手にしていたデバイスの画面にはまだ【実行しますか?】の表示が残ったままだ。
これを押すと誰かがあの人を殺すの?
今すぐに押さなくては。1秒遅れるごとに破滅が近づいてくる。
それは分かっている。
でも・・。
インプレッサのスピーカーがP!NKのジャスト・ギヴ・ミー・ア・リーズンを流し始めた。
初めて会った時からあなたは酷い人だった。
私の心を奪ったのだから。
そして私はあなたにダメにされた。
あなたが見た私は全てじゃない。
本当の私はそうじゃない。
でもあなたに触れられるたびに私は・・・。
私があの人を殺す?もちろんこの手でそれをするわけではない。これを押したら誰かが、あの人を殺す。
早く押さないと!!
押せるわけがない!
分かっている!!分かっている!!!もうダメなんだってことくらいは。
あの人は死体を見た。私の住まいでそれを見た。
もう、どうしようもない。分かっている!!
もう、私の作った料理を美味しそうに食べるあの人の微笑みを見ることは無い。
もう、一晩中ベッドの上で肉欲を貪りあうことも出来ない。
もう、二人で浴槽につかり心から安心してあの厚い胸に頭を預けて微睡むことは無い。
あなたが私の為にミルクティーを淹れてくれる。
きっと綺麗な物を目にすることが出来るはず。
私達は綺麗な関係になれるでしょ?
チョット間違えただけなんだから。
P!NKはそう歌ってくれる。
だがもう、二人で温かいミルクティーを手に凍える寒さの屋上で身を寄せ合い朝日を見ることは無いのだ。
蔵井戸は言った。
この赤いランプが黒く光ったらお前はおしまいだと。
それは田中が瑠衣の自宅で死体を見つけたことを通報したという事だ。
赤いランプが消えたら、それは・・・。
今、瑠衣の首には縛り首の縄がかけられている。
今、瑠衣の足元の板を外すボタンに手をかけているのは田中だ。
田中が通報すればこの赤いランプが黒く光り瑠衣は・・。
だが、まだランプは赤く光っている。田中はそのボタンを押せてはいない。
瑠衣がデバイスをタップすれば田中の首に縄を掛けることが出来る。
どちらが足元の板が抜けるのかは分からない。
押すしかないの!
分かっている!!!
でも・・。
また愛し合うことは出来ないの?
もう一度、愛し合う事は出来ないの?
少し間違えただけなのに?
瑠衣は愛と言う物が何なのか言う事くらい、もちろん知っている。
ただ、今この瞬間まで知らなかっただけだ。
瑠衣は田中の首に縄を掛けることが出来なかった。




