第36話 出発前夜の地下三階と、ギルが初めてここを「戻る場所」と思った話
《リーヴァ》の月の二日。
今日、ルナは来なかった。
出発前日は各自で準備する日と決めてある。訓練はない。地下三階は、一日中、俺一人だった。
午前は書類の最終確認をした。依頼書、身分証、調査記録用の紙、羽根ペン。鞄の中を三回確認した。三回とも同じものが入っていた。
午後は、遺物の棚を巡回した。
明日から二週間、ここを離れる。遺物の状態を確認して、封印が安定していることを記録しておく。F列の奥の遺物、C列七番の新しい封印、壁龕の封印——全部、安定している。
D列二段目の木箱は、今日も静かだった。
* * *
夕刻、巡回を終えて、椅子に座った。
地下三階を、見回した。
棚が七列。松明が四本。床の石畳。天井の低さ。埃の匂い。遺物たちの、静かな呼吸。
五年間、ここにいた。
ルナが来る前の五年間も、ここにいた。去年の《ノクス》月に「年が終わった」と一行だけ書いた夜も、ここにいた。
ルナが来てからの二百八十日あまりも、ここにいた。
今夜も、ここにいる。
明日の朝、ここを出る。
* * *
机の端を見た。
石が六個、並んでいた。茶色が二個、白っぽいの一個、蛇紋岩一個、石英一個、頁岩一個。
カーネリアンがない。
七個あったはずの場所に、六個しかない。
当然だ。カーネリアンは今、ルナのポケットの中にある。昨日、ルナが選んで持っていった。「勇気の石ですから」と言って。
六個の石が、いつもより少し寂しく見えた。
そう感じたことを、俺はしばらく受け取った。
* * *
少しの間、動かずにいた。
明日からガストロノミアへ行く。三日の道のりを経て、二週間の調査をして、また三日かけて戻ってくる。
戻ってくる。
この三文字が、俺の中で少し止まった。
三年前、ガストロノミアから戻ってきたとき——地下三階の扉を開けて、中に入って、棚を確認して、在庫目録に「戻った」と書いた。それだけだった。「戻ってきた」という感覚はなかった。戻るべき場所に戻ったのではなく、ただ、次の場所に移動しただけだった。
今回は、違う。
明日ここを出るとき、俺はここに戻ることを知っている。ルナが「戻ってきたらまた七個になる」と言った。石が七個になる場所が、ここにある。
「戻る場所」というものが、ここにある。
——いつから、そうなったのか。
わからない。
ルナが来た初日からそうだったのか。壁龕の事案の後からか。石が三個から増えていくうちにか。「来るなと言えば来ないか」と聞いた夜からか。「ここ、好きですよ」とルナが言った夜からか。
わからない。
しかし、今夜、それが確かにある。
* * *
俺は立ち上がった。
棚を一周した。
いつもの遺物たちが、静かに呼吸していた。
最後にD列の前に立った。二段目の木箱——ルナに感知させた、十二歳の木箱だ。「大事にしてたんですね」とルナが言った。石が三個入っていたと俺が言った。
今は空だ。
今回の出張には持っていかない。ここに置いていく。
俺は、木箱を棚から出して、両手で持った。
何も感知しなかった。当然だ——この遺物の来歴は、俺が一番よく知っている。感知する必要がない。
しばらく持っていた。
それから、棚にそっと戻した。
* * *
机に戻った。
鞄が、椅子の横に置いてある。明日、これを持って南門前に行く。朝一刻。ルナがいて、オルフェリアがいる。
三人で、馬車に乗る。
三年前は一人だったが、今回は三人だ。
在庫目録を開いた。
《リーヴァ》の月、二日。出発前夜。
・遺物の状態:全棚、安定。
・D列二段目の木箱:安定。
・石が六個。カーネリアムはルナが持っている。
「戻ってくる」——今夜、初めて、それが確かにある、と思った。
いつからそうなったのかはわからない。わからないまま、明日出発する。
・鞄の中身:確認済み。
・灰皿:入っている。
・机の端の石:六個(カーネリアムはルナが持つ)。
・ガストロノミア出張への出発:明朝の予定。
ページを閉じた。
松明の炎が、小さく揺れた。
遺物の棚が、いつも通りに呼吸していた。
俺は椅子に座ったまま、しばらく、地下三階にいた。
明日の朝まで、ここにいる。
明日の朝、ここを出る。
二週間後、ここに戻る。
——それだけで、今夜は十分だった。




