7-2:「母親と言う存在」
娘、母、つまりは母子。
リデルにとって親と言えばまず父であり、母のことは何も知らないと言って良い。
唯一、『施設』でドクターから聞いた話がほとんど全てだ。
「ねぇ、アーサー。あいつ、どう言うつもりであんなこと言ったのかしら」
鉄馬車に引かせた荷車の中――『施設』の外にあって無事だった物を、クロワに動かして貰っている――リデルはアーサー、クロワと話していた。
荷車は太めの枝と布を使って簡単な幌馬車のようにして、気休め程度に外から中が見えないようになっている。
「どう言うつもり、ですか」
リデルの問いにアーサーが答えに澱むのは珍しい、それは彼自身が予想していない状況になっていることの証左だった。
「さぁ、どうなのでしょうね。わからないことが多すぎて、と言うのが正直な所ですが」
「あいつ、どうして私のことを知っているの?」
「あの人間の言葉を借りるなら、母親だから、と言うことになるのかな」
「でも、あの……ラタだっけ? あいつは私のことを知らなかったじゃない」
ラタは連合の本隊、今まさにリデル達を数万の兵で囲んで「護衛」し「護送」している者達のことだが、その一兵卒として派遣されてきたはずなのだ。
そのラタがリデルのことを知らず、アーサーのことは知っていた。
このことは、何を意味するのか。
「つまりこのご大層な軍隊は、表向きアーサーの護衛のために用意されたものだと思うのよ」
「僕、ですか」
「アーサーって、一応は王子様なんでしょ? たぶん、子供の頃からいろんな人に何だかんだでマークされてたはずだわ」
「まぁ、そうですね」
一応と言う部分を否定しないあたり、アーサーらしい。
しかし実際、旧フィリアリーンの元王子の動向を追わないと言うのも不自然な話だ。
あのアレクフィナも、元々は「元王子の捕縛」と称してアーサーを追ってきたのだから。
特に旧市街での自立宣言以降、そうした動きが強まっていてもおかしくは無い。
「つまり、あの人間は表向きアーサーのために軍を動員し。その実、リデル殿のためだったと?」
総括のようなクロワの言葉に、リデルは頷く。
アーサーはともかく、自分が良くも悪くも世に出たのは旧市街の自立以降。
しかもその時でさえアーサーが表に立っていて、他所の地域で名前が知られるとはとても思えない。
公都でパーティーとやらに出たこともあるが、ほとんど壁の花で何もしていない。
だがあの女は、アーサーには目もくれずにリデルを抱き締め、愛おしげに「娘」と呼んだのだ。
いったい、何者であるのか?
気になる所だが、今はどれだけ考えても予測の範囲を出てこない。
今はこの集団の向かっている先、彼らの言う「聖都」とやらに行ってみないことには。
「聖都、ですか……」
ただ、どう言うわけか聖都と聞いた時のアーサーは複雑そうな表情を浮かべるのだ。
リデルもそれは気にしているのだが、今のところアーサーがその理由を話す気配は無い。
何となく、言いにくいことなのだろうか、そう思った。
不意に、そのアーサーが自分を見つめてきて、リデルは少しびっくりした。
「ところで、リデルさん」
「な、何よ」
割合に真剣な表情だったため、少しどぎまぎしながら応じた。
彼は少し言いにくそうな気配を見せた後、僅かな逡巡を見せつつ、言った。
「あの……これ、何とかなりませんか?」
「これって」
戸惑いの後、リデルは答えた。
「この子のこと? 仕方ないじゃない、ただでさえ乾燥しててしかも夜なのよ? 少し狭いくらい何だって言うのよ!」
アーサーの指差した先には、リデルの蛇――結局、巨大化したまま――がいた。
しかしその蛇は荷車の中のほとんどを占拠していて、リデル達はその中で話し合っていたのだ。
「いや、でもこれほとんど占領されてるじゃないですか!」
「だから仕方ないでしょ! 大きくなっちゃったんだから。それにこの子は寒いのと乾燥してるのが苦手なのよ! だから前は私の服の中が好きだったんでしょ!」
「そんな理由だったなんて初耳ですよ!?」
「何で知らないのよ!」
「いや、何でって言われても!?」
「やれやれ……」
荷車の7割を占領する蛇、そのとぐろの中で議論していた2人は、今はつまらない言い争いに突入して行った。
そんな2人を見て、クロワは苦笑を浮かべる。
ようやく、いつもの2人に戻って来たようだ。
◆ ◆ ◆
1週間の後、数万の集団の先頭が目的地に達した。
それまでは荒野が続いていたが、このあたりになると僅かながら植物を見ることも出来た。
ただ太陽は高く、日差しは強い、外に出れば肌がチリチリと痛む程だ。
そんな中、場違いな程にその都は白く荒野に映えていた。
荒野の中、赤い砂に汚れた白い壁が見える。
それは上から見れば半円の半分にいくつか突起がついたような線に見えただろう、壁の中には当然、都市がある。
公都に比べると洗練さは無いが、大きく、古びた建物が多い古都であることが窺えた。
「さぁ、どうぞ。聖都は貴女の帰還を待っていたのです」
ラタを傍らに伴った黒髪の女――どこか納得できない表情を浮かべている――に案内されて、リデル達は壁を潜った。
リデルと一緒に壁を潜ったのはアーサーとクロワ、そして旧市街からついてきた200名だった。
『施設』から逃げ出した3000人は、数万の兵と共に壁外に待たされることになった。
少し気に入らなかったが、予定に無かったと言われては仕方が無い。
石積みの壁を越えると、すぐに都市が視界に広がった。
左右対称とまでは言わないが、赤灰色の石造の家々が並ぶ大通りがまず目に入った。
風に吹き上げられた荒野の砂が白い家々を赤灰色に染めているのだろう、石を敷き詰めた通りの地面もじゃりじゃりと音を立てている。
「ほら、皆が貴女を歓迎しています」
壁を越えるなり、わっ、と、大音量の声が響いた。
耳が痛い。
そしてその声は一つでは無く、何千人もの声が重なって出来る音だった。
通りの左右を何百何千と言う人々が埋め尽くしている、茶と黒の髪に色の濃い肌、フィリア人達だった。
肥満とまでは行かないが、彼らは皆一様に小綺麗な服を着て、そして健康そうに見えた。
都に至る道中とは異なり、女はリデルの傍にいた。
傍から見ればアーサーの傍にいるようにも見えるが、実際にはリデルの傍にいると言って良い。
加えて、ここで旧市街から連れて来た200人とも一旦別れなければならなかった。
ラタがどこからか手配した馬車――鉄馬車では無く、白亜の装飾が施された、生きている白馬が引く本当の意味での馬車だ――には、女とラタを含めて数人しか乗るスペースが無かったからだ。
「リデルさん」
「……仕方ないわ。クロワ、お願いね」
「任された」
ここがフィリア人の都であると言うのならば、クロワに勝てる者はいないだろう。
仲間達はひとまずクロワに任せる。
街の中に入れられたと言うことは、少なくとも危害を加える意思は無いと言うことだ。
「さぁ、リデル。この先の広場に会わせたい人がいるのです」
女と共に馬車に乗り、通りを進んだ。
その際にも、通りの人々は歓迎の叫び声を上げていた。
しかもそれだけでは無い、彼らは手に花々を持ち、それを宙へと放っていた。
花弁がヒラヒラと青空に舞う様は美しい、花束がいくつかリデルの膝に落ちてきた。
「皆、貴女の帰還を心待ちにしていたのです」
「いや、私ここに来たこと無いんだけど」
「いいえ、貴女はここにいました」
「……?」
何かの比喩かとも思ったが、女の様子に妙な所は無い。
彼女は本気で言っている。
だがもちろん、リデルのそんな記憶が無い。
では何のつもりなのか、わからない。
わからないことは、嫌いなままだ。
「それにしても、何と言うか」
ぐるり、と、周囲を見渡す。
人々は相変わらず熱狂している、歓迎の声を上げ、花を投げている。
だが何故だろう、リデルは彼らにどこか白々しさを感じていた。
自分で信じていないことを言い、浮かべたくも無い笑顔を浮かべている。
そんな風に、感じた。
そんなことを考えている間に、広い場所に出た。
そこは大きな広場だった。
通りから人を迎えるように半円の形をしており、左右には無数の石柱が建てられていた。
石柱の間には人の石像があり、広場に入って来た人間を見下ろしていた。
「さぁ」
女に促されて、馬車を降りる。
正面を向く、そこには無数の人々がいた。
だが彼らは通りにいるような一般の民では無く、服装や雰囲気が異なる人々だった。
どこか身なりが立派で、軍人のような者達もいた。
「……うん?」
共通しているのは、皆が身体の大きな大人だと言うこと。
しかし、リデルの視界の中心にいたのは大人でも軍人でも無かった。
人々の中心に立っていたのは、小さな女の子だ。
リデルより少し年下かもしれない、そんなくらいの少女だ。
真紅の生地に金糸で装飾が施されたワンピースの上に丈長の白いチョッキのような物を羽織っており、その丈は靴を隠す程の長さだった、腰には金をあしらった革ベルトが締めてあった。
全体的にずるずるしている印象があるのは、頭に被ったとんがり帽子のせいだろう。
とんがり帽子には幅広の縁取りの布地があり、それが脹脛のあたりまで背中を覆っているのだ。
「…………」
その少女は、どこか全ての感情を殺したかのような表情でリデルを見ていた。
――――人形のような少女だと、リデルはそう思った。
◆ ◆ ◆
「ただいま戻りました、聖下」
リデル達を連れて来た女が、その少女の前に跪いてそう言った。
聖下と呼ばれた少女は、どうやら人に傅かれるような立場の人間であるらしい。
しかしリデル達を除いてしまえば、広場に集まっている身なりの良い人間達の中で輪をかけて若い。
俄かには、その少女がどう言う位置にいる人間なのかはリデルにはわからなかった。
「……彼女は、聖樹教の教皇ですよ」
「え、何よアーサー。あの子のこと知ってるの?」
「あの人個人は知りませんよ。ただ、聖女フィリアを崇める聖樹教の存在は昔からありましたから。聖都と聞いてもしやと思っていたんですが、やはり、と言う奴ですね」
「ふーん……ところで、教皇って何?」
「ある意味、王様より権威のある人のことです。聖樹教は聖女フィリアを崇める宗教ですから、つまりフィリア人全体の代表みたいな存在なんです」
聖樹教、聖女フィリア、フィリア人の代表。
そう言われても、やはりピンとは来なかった。
ソフィア人の土地においてもそうだったが、リデルは皆が大事にしている価値観、固定観念のほとんどを理解することが難しい。
いわんや宗教とか言われると、余計にその傾向は強まる。
「ご苦労様でした。聖女フィリアも貴女の行いを見ていることでしょう」
声を張るでも無く、掠れたような小さな声だった。
おそらく広場にいる人間のほとんどは、教皇の声が聞こえなかったはずだ。
だが女はそれで十分と判断したのか、頷きと共に立ち上がると、リデルの方を示した。
「それでは聖下。私、連合軍最高司令官たる私、ファルグリン・シュトリアよりご紹介させて頂きます」
ここに来て、ようやく女の名前がわかった。
「と言うか、何か物凄い肩書きが聞こえたんだけど」
「しっ、聞こえますよ……」
ファルグリンと言う名の黒髪の女は、まずアーサーの方を示した。
「彼はフィリアリーンの王位継承者、アーサー殿です。この度、今後の協力のためにお連れ致しました」
おお、と広場の中から小さなどよめきが起こる。
リデルはちらとアーサーを見上げた、やはり彼は複雑そうな色を浮かべていた。
理由はわからないが、何故かそう思ってしまうのだ。
そして、ファルグリンがリデルの方を見た。
まるで楽隊の指揮を執るかのように手を伸ばし、彼女はこちらを示してきた。
たっぷりと時間をかけて、その場にいる皆の視線が集まるのを待った。
「そしてこちらにおわす少女こそ、我らに自由と独立、勝利と栄光を与えてくれたあの御方のご息女」
突然、何を言い出すのか。
そう思って目を見開いた時には、ファルグリンはすでに言い切っていた。
そして。
「我らが唯一軍師、<東の軍師>様の忘れ形見――――我らが新たなる軍師! リデル様です!」
――――アーサーの時以上の、どよめき。
百官の視線。
その全てが、リデルの全身に一挙に降り注いだ。
反射的に、アーサーの服の裾を掴んだ。
◆ ◆ ◆
どよめきに収拾がつかない中、リデルとアーサーはファルグリンに連れられて広場を後にした。
馬車に乗ってやって来たのは、小さいながらも立派な館だ。
石や土の家が多く目立つ中でその館は木造だった、門壁があり、小さいながらも植物のある庭まである。
他の家々が荒野の都市らしく寒々しい様なのを考えれば、この館はかなり異色だった。
「我が国は」
食堂の長いテーブル、リデルとアーサーの対面の位置にファルグリンは座っていた。
彼女の背後には壁一面に巨大な地図がかけられていて、山や川などが立体的に――あくまで平面なのに「立体的」とはおかしな話だが――描かれているそれは、3色に色分けされていた。
上半分を覆う黒色、右側に黒色の半分程の大きさの白、左下一帯に広がる灰色だ。
「我が国は北の大公国に比べて領土こそ半分の規模ですが、過去に行った戸籍調査の結果、人は大公国よりも5割程多いと言うことがわかっています。戸籍から漏れている者もまだいることを考えれば、もしかすればさらに人口は上、と言うことになるかもしれません」
どうやらその地図は、アナテマ大陸全土を現した地図であるらしかった。
黒が大公国、白は連合だろう。
では灰色は何か、おそらく、どちらでも無い土地だ。
「土地は痩せていますが、農業が出来ないわけではありません。とは言え小さな集団がやっていける程に豊かではありません。我が連合はそうした事情から、この聖都を含む12の国や都市が手を取り合って創設されました。もちろん」
食事が運ばれてきた、昼食だ。
穀物を湯に溶かしたスープと固めのパン、何かの動物の肉と野菜の重ね焼きに、香辛料を合えたサラダ。
公都の食事に比べると質素だが旧市街と比べると豪勢と言える、そんなメニューだった。
「もちろん連合するとは言え、12もの主体がいては意思疎通が難しい。そこで我々は共通の王と、共通の理念を掲げることにしたのです。それが聖樹教であり、聖女フィリアへの信仰なのです」
どうやらファルグリンは、自分の所属する勢力のことを説明している様子だった。
国の大きさ、人口、土地の特性、食に宗教。
「ソフィア人による差別への反動で生まれた国だけに、国是として平等主義があります。ここでは皆が働き、収穫や成果は皆で分け合うのが当たり前なのです。国として全ての財産を共有することが定められており、教会が政治に代わりこれを公平に管理しています」
宗教と言うのはやはりリデルには理解できないが、機構として見れば理解できないことも無かった。
つまり大公国において魔術師達が行っていることを、こちらでは教会と言う宗教組織が担っているのだ。
もちろん魔術のような超常の技術は無いから、技術レベルや民の生活への影響力では比べるべくも無いだろうが。
しかし旧市街にいた頃、こうした勢力のことは驚く程耳にしなかった。
アーサー等は知っていたはずだ、東部叛乱の成功者達の存在を。
言葉の端々から感じることはあったが、直接「連合」と言う言葉を聞いたことは無い。
同じフィリア人なのにと、少し違和感を感じた。
「そして軍。連合の軍は聖都を除く参加国の拠出によって構成されています。数は10万、有事にはさらに50万の軍を編成することが出来ます」
ファルグリンは両手を広げた、それは食事を勧めるようであり、何かを自慢するようでもある。
「全て、貴女のものです。リデル」
軍、連合、聖都、そして聖樹教とその信者達。
その全てがリデルのためにあるのだと、彼女は言った。
「……アンタ、何言ってんの?」
心の中に湧き上がった気持ちを、リデルは素直に口にした。
実際、素面で言っているとは思えなかった。
はっきり言えば、戯言の類だ。
そうだろう?
数千万、いや1億に届こうかと言う勢力を。
10万、いや50万に届くと言う軍勢を。
それを支える聖樹教と言う機構を、制度を、国を。
その全てを、今日ここに来たばかりの小娘のものだと言う。
これを戯言と言わずして、何と言うのか。
「大体アンタは何なのよ、さっき私のことを軍師だなんて紹介してくれたけど」
何となく嬉しそうだなと、アーサーは隣で思った。
「私はアンタのことを何も知らないわ。ここの軍で1番偉い人って言うのはわかるけど」
逆に言えば、それ以外のことはわからない。
何も――――何も、だ。
「それなのにそんなことを言われても、はっきり言って……気味が悪い、わ」
「……無理も無いことです」
しかしそんな言葉を受けても、ファルグリンは怒りの色を見せなかった。
むしろリデルの気持ちを理解していると言わんばかりに首を振り、哀れみとも悲しみとも取れる色を瞳に浮かべ、リデルを見つめていた。
そう言う視線こそが、リデルの背中に薄ら寒いものを走らせるのだと気付かずに。
「でもリデル、連合も聖都も、元々貴女があの人の後を継いで率いるべきものなのですよ」
「あの人って、パパのこと」
「ええ、そう。あの人、<東の軍師>。貴女はあの人の娘なのだから、後を継ぐのは当然のこと」
自分はそれを維持していただけだ、最高司令官などとんでも無い。
ファルグリンは、そう言った。
「けれど戸惑うのも無理はありません。現実として貴女は攫われ、あの人は連合から離れざるを得なかった」
そして彼女は語り始めた。
何故、リデルが連合の全てを手にするべきなのか。
どうして、リデルが自分と離れた場所で生きなければならなかったのか。
その全てを、彼女は語り始めた。
◆ ◆ ◆
「20年前、あの頃、私はあの人の従卒でした。あの人の身の回りのお世話をするのが役目で、誰よりも近くであの人の戦を見ることが出来ました」
東部叛乱の頃、<東の軍師>だけがソフィア人の軍隊に勝利した。
大公国が王位を巡る内紛で揺れていたとは言え、終盤に魔術師達の協会が介入してくるまで、後に連合の中核となる叛乱軍は終始劣勢だった。
その中で唯一勝利を重ねた不敗の名将、<東の軍師>。
嫌が応にも、その名は轟こうと言うものだった。
ファルグリンは、その<東の軍師>の従卒として共に従軍していたと言う。
彼について戦場を転々とし、彼の戦を学び、そして通じ合った。
その結果が、リデルだ。
彼女は<東の軍師>とファルグリンの間に生まれた、その結晶なのだ。
「目を閉じれば今でも思い出せる、あの人との日々を。あの人は自分の手足のように軍を操り、敵を悉く破りました。あの差配、あの采配、あの指揮。ああ、本当に素晴らしかった」
かつてを思い出し高揚しているのか、ファルグリンは己を抱き締めるようにしていた。
見るからに恍惚としているその姿は、見ていて少し気味が悪かった。
「公都で」
だからかはわからないが、リデルは口を挟んだ。
「公都で、そして『施設』で。私はパパとママの話を聞いたわ」
「ああ、そうでしょうね」
そうなんですか? と言うアーサーの目に、リデルは頷きだけ返した。
この話はまだしていなかった、後で話そうと思う。
「アーサー殿、先の東部叛乱の首謀者が誰であったか知っていますか?」
「それは……」
それは、島でリデルも話したことだ。
大公国の第七公子アクシスの叛逆、それが東部叛乱の始まりだった。
しかしアクシス公子は中途で退場した、理由ははっきりしていない。
ただ、死んだとだけ伝えられている。
だから東部叛乱の後半の主人公は、<東の軍師>なのだ。
盟友アクシスの遺志を継ぎ、フィリア人を率いてソフィアの支配を打ち払った。
だが、ここで矛盾が生じる。
(公王は言ったわ、私が孫だって。私のパパは自分の息子だって)
そうであるなら、<東の軍師>は公王家の縁の者であるはずだ。
だが彼の名は伝わっていない、娘であるリデルだけがそれを知っていた。
そしてその名は公王の息子の幼名だった、ならば<東の軍師>とは何者だったのか。
ファルグリンは答えた。
「ええ、だから。第七公子アクシスこそが、<東の軍師>なのですよ」
別々の人間が2人いたのでは無く、同一人物だった。
それが、<東の軍師>と呼ばれた男――ソフィア人を裏切ったソフィア人の、正体だった。
◆ ◆ ◆
東部叛乱前期の首謀者と、後期の指導者が同一人物。
歴史の年表には書かれていない事実に、リデルは眉を潜めた。
「連合のフィリア人もまた、20年前の時点では迫害される被害者でしかありませんでした。私もその1人。あの人は、私達を、私をそんな地獄から救い出してくれた英雄」
だから、公子のままでいるべきでは無かった。
フィリア人を解放するための戦いを「一公子の叛乱」で終わらせないために、彼は公子としての自分を殺したのだ。
フィリア人のためにそうまでした人間は、古の聖女を除けばアナテマの史上初めてのことだった。
「だから私達は、私はあの人に従ったのです。あの人のためならどんな危険も厭わなかった、あの人のためなら喜んで死んだ。だってあの人は、すでに1度死んでいるのだから」
ん、と、リデルはふと何かが気になった。
今の台詞を口にする瞬間、ファルグリンの表情に陰が走った。
それは太陽を遮る日陰のようで、妙に印象に残った。
陰はすぐに消えて見えなくなるが、気になった。
次の瞬間には笑顔を浮かべ、リデルのことを見つめて言った。
だから、と。
だからこの聖都は、連合は、リデルによって率いられなければならない。
そう言った。
「ん? いや、待って下さい。すると――リデルさんは、混血なのですか?」
不意にアーサーが口を挟んだ、しかし確かに重要なことではあった。
ファルグリンはどう見てもソフィア人では無い、フィリア人だ。
<東の軍師>もとい第七公子アクシスはソフィア人であるから、当然、ファルグリンが母親ならばリデルはその血を引いていることになる。
だがどう見ても、リデルにフィリア人の特徴は無い。
髪の色も、瞳の色も、肌の色も、全てソフィア人の特徴だ。
クロワやノエルのような混血を見ても、その差はあまりにも歴然としている。
「ええ、そうですよ」
それに対して、ファルグリンは一拍の間も無く答えた。
「あの人は大公国の元公子であり、<東の軍師>であり、私の最愛の人であり、貴女の父なのです」
言っていることの意味は、わかる。
だが何故だろう、胸の奥にストンと落ちるものを感じなかった。
「だから本当ならば、貴女は私の手で育てられるべきだった。聖都に居るべきだった。それなのに、あの女がそれを台無しにした」
「……あの女?」
「そう、あの女。妄想の激しい女でした。狂っているとしか思えなかった。そしてその女は、まだ幼い貴女を聖都から連れ出して、姿を晦ませたのです」
ファルグリンの言う「女」、それはドクターの言う「母」のことだ。
リデルは直感的にそう感じたが、根拠は無かった。
「しかもその女が病で死になんてするものだから、あの人は貴女を迎えに行かなければならなかった。だから戦も止めざるを得ず、叛乱は半ばにして停滞を余儀なくされました」
『施設』で聞いたドクターの話と、矛盾はしないように思う。
ドクター自身が狂人であったことを考えれば、多少の齟齬は目を瞑っても良いかもしれないが。
「嗚呼、でも良かった。リデル、貴女がこうして戻ってきてくれたおかげで、私達とあの人の戦いはまた始まる」
いくら世事に疎くても、産みの母親が2人いないことはわかる。
ならば当然、どちらかが偽物なのだ。
どちらかが、嘘を吐いているのだ。
どちらが嘘なのか、今のリデルにはわからない。
「本当に、良かった」
心からの笑顔を見せるファルグリンの顔を、視界に収めながら。
「……!」
リデルは、隣に座るアーサーの手を握った。
息を呑んだのは、どちらだっただろう。
◆ ◆ ◆
湯よりも、水の方が好きだ。
リデルは常々そう思う、湯と言うのは思考する力を奪い取る。
ただ同じ湯でも、聖都と公都とではやはり違うように思えた。
(まぁ、そもそも旧市街にはお風呂自体が無かったわけだけど)
掌から湯の雫を落としながら、そう思った。
すでに夜、リデルはファルグリンの好意で湯を与えられていた。
と言うより、ファルグリンの邸宅に居を貸されていると言うべきだった。
聞けば、ここシュトリア邸は父――<東の軍師>、第七公子アクシス――の持ち物だったらしい。
その頃は、また別の名前で呼ばれていたらしいが。
(木目は古い。すると、割と昔から建ってたってことね)
湯殿も木造だった、湯船に僅かにあるささくれをおっかなびっくり指先で撫でる。
手入れはされているようだが、やはり古い。
湯殿それ自体は広いが、天井や壁に水分による染みや痛みも見えるし、隙間があるのかどうなのか、時折冷たい空気を感じることがあった。
いったい、いつ頃に建てられたのか。
建築に関する技術は無いが、もしかすればその頃にはもっと木材、つまり緑豊かな土地だったのかもしれない。
20年前か、あるいはもっと以前か。
何となく、歴史について考えてみたくなった。
(……さぁ、考えてみようかしらね)
ファルグリン、あの女が自分達を厚遇する理由はあるか?
(アーサーに関しては、あるわね)
あの女は、東部叛乱が中途で終わったと言っていた。
おそらく中途と言うのは、フィリア人の土地を全て併呑出来なかったと言う点にあるのだろう。
要するに、アーサー達がいる土地だ。
あそこは大公国の属領のままだから、攻略するのに現地の勢力を結ぶのはむしろ常套手段だ。
だから、ファルグリンがアーサーに良い顔をする理由はわかる。
しかしここで逆の疑問も生じる。
それは話を聞けば、誰もが思うことだろう。
(アーサーはどうして、連合に入らなかったのかしら?)
わからない、後で確認してみなければならないだろう。
そう思い湯船から出ると、冷えた空気に身を震わせた。
島にいた頃より日に焼けた白い肌の水気は、公都の湯船と違ってむしろ少女の肌から温度を奪っていった。
だがその冷気が、今はむしろ心地良い。
(そして、私か)
<東の軍師>の娘、元公子の娘、そして2人の母の娘。
旧市街でも、公都でも、『施設』でも、そしてここ聖都でも、自分を特別たらしめているのは両親の存在だ。
いわば自分のルーツによって、他者の自分への対応が行われている。
あのアーサーでさえ、最初はそうだったのだ。
(……ママ、ね)
『施設』で意識して、そしてここ聖都。
厚みは無いが良く水気を吸い取る布で身体を拭き――湯殿の隣に小さな脱衣のスペースがあり、照明はどちらも小さな火灯だけだった――丈長の白く薄い衣服を着た。
ちちち、と唇の中で音を立てると、着替えが入れられていた籠の下からリスが這い出て来た。
それを肩に乗せて、湯殿を出る。
「リデル…………様」
すると、湯殿の外でラタが待っていた。
通路も木造でしかも照明は小さな火の灯りだけだ、少し心臓に悪い登場の仕方だった。
彼女は戸惑いと不満を瞳の中に凝縮させて、しかし忠実に主人からの言伝を伝えてきた。
「シュトリア卿がお呼びです」
◆ ◆ ◆
「ああ、来ましたか」
呼び出されたのは、寝室だった。
ベッドがあると言うことと、ファルグリンが見るからに就寝する服装をしていたと言うのが判断の理由だ。
その寝室は、公都の寝室に比べると少々エキゾチックな造りになっていた。
邸宅は3階建てで、ファルグリンの寝室は3階の1番隅にあった。
部屋の奥側に屋根が差し掛かっている不思議な構造で、ベッドの上に三角形ような具合に、屋根が降りて来ていた。
その一番高い位置に薄青色の厚い布がかけられており、それが仕切りになる仕組みだった。
木の根で編み込まれた籠の中には、僅かの蝋と火が揺れている。
「何か用?」
「ふふ、別に取って食べようと言うわけではありません」
別にそんなことを思ったわけでは無いが、警戒心があったのは事実だ。
何しろ今のリデルには、懐に仕込んだリスしかいないのである。
だがそのリスは、今は何かを嫌がるように身を丸くしている。
「ただ、少し2人で話がしたい。そう思っただけなのです」
2人だけで話がしたい、そう言われてリデルは身に力を込めた。
何の話があるのかと思ったのだ、自分のことについてか、アーサー達のことについてか。
いずれにせよ、こうした場合に出てくるような話は重い物が多い。
リデルは島を出てからのこれまでで、そう言ったことを学んでいた。
だから身構えたのだが、その後に起こったのは意外なことだった。
ファルグリンが立ち上がったかと思うと、ふわりとした香りと、柔らかな感触が顔を覆った。
抱き締められているのだと、数秒後に気付いた。
「……苦労をかけましたね」
抱き締められていると確信した瞬間、顔から火が出るのでは無いかと思える程に熱を感じた。
身を固くしたのは、抱かれ慣れていないせいか。
思ったよりも温かく、柔らかくて、そして硬さがあった。
甘い、ねっとりと喉に貼り付くような香りがした。
「く、苦労……って」
「貴女を1人にしてしまいました。クルジュでの旗揚げ以後、ずっと追わせていましたから」
やはり、その時点からか。
他にタイミングが無かっただろうと思うし、明確に<東の軍師>の娘と明言していたのもその頃からだ。
まぁ、島にいた頃はそもそも父が<東の軍師>だとは思っていなかったわけだが。
「ごめんなさい。でもこれからは、私が貴女を守って見せます。あの人に代わって」
「べ、別に、アンタなんかに守って貰わなくても……ぶっ」
「……ごめんなさい、ね」
ぎゅっ、と、より強く抱き締められた。
力強く、それでいて不安感を煽る不思議な力加減だった。
そうしていると、何故か言葉が失われていくような気がした。
甘い香りが、強くなった。
(……ママ)
どっちなのだろうと、改めて思った。
今、自分を抱き締めているこの女性は、本当に自分の母親なのだろうか。
ドクターが言っていた母親は、本当に自分を攫っただけの女性だったのだろうか。
父がいない以上、本当のことはわからないのかもしれない。
いったい、どっちなのだろう――――。
「……っ!」
「え? あ」
いきなり離れたから驚いた、ファルグリンがびっくりした目で自分の胸元を見ていた。
リスが、顔を出していた。
そのつぶらな目に、そしてそんな所にリスがいるとは思わなかっただろう、ぽかんとしていた。
それから、口元を押さえてクスクスと笑い始めた。
「うふ、うふふふ」
「な、何よ」
「いいえ。ただ……うふふ、うふふふふ」
「な、なによー……」
ころころと笑うファルグリンの顔は、年齢に似合わず幼げに見えた。
そんな顔を見ていると、少なくとも自分を騙そうとしているようには見えなくて。
とりあえず、この瞬間だけは考えることをやめても良いのかもしれない、そう思った。
――――保留。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
7章ではリデルの母親がメインとなります。
と言うか、彼女ははたして母親なのかと言う所から問題があります。
そしてファルグリンと言う名前は覚えにくいので、いちいち確認しながら書かなくてはいけないと言う罠。
それでは、また次回。