Prologue7:「――She is a worshiper――」
そこは、古びた礼拝堂だった。
夜なのか光は無く、一つしか無い燭台だけが視界を確保してくれている。
蝋燭の灯りは優しく周囲を照らしていて、冷たい闇を懸命に照らそうとしているかのような健気さがあった。
「…………」
彼は一人、蝋燭が照らし出す壁画の前に立っていた。
さして広くも無く新しくも無い礼拝堂は、居心地が良いとは言い難かった。
そこかしこから聞こえてくる水漏れと蟲の這う音、整然であるべき長椅子の列は崩れ、かけ布や調度品は薄汚れて見るに堪えない。
それでも何故か、その壁画と周辺だけは小綺麗に整えられていた。
壁画には、巨木に寄りかかる美しい女性が描かれていた。
木の根と共にあるかのような長い茶色の髪が印象深く、柔らかな微笑みは見る者に安心感を与えてくれる。
それは、とある古代の聖女を描いたものだった。
彼は闇の中、温かな灯りに照らされるそれを見上げていた。
「――――様!」
彼が何事かを呟こうとしたその時、礼拝堂の扉が乱暴に開かれた。
外は、雨のようだった。
雨風の音と共にやってきたのは、年若い少女だった。
雨粒を弾く張りのある肌にぱっちりとした眼、そしてウェーブがかった長い黒髪が特徴的な少女だ。
「キミか」
「何故ですか」
本来は美しいだろうその顔が、くしゃくしゃに歪んでいた。
眼を見開き頬をひくつかせ、全身が雨水で濡れているのも構わずに礼拝堂の中へと入って来た。
ずるずるとしたローブのような服が身体にまとわりついて、半ば倒れこむように床に膝をついた。
「――――何故ですか!?」
助け起こそうとした男の手を払い、そして縋りついた。
服に皺を作る程の力で掴み、彼の身体をよじ登ろうとでもするかのようにも見えた。
「何故、何故、何故、何故! 何故、私達を捨てて行かれるのですか!?」
「……捨てるわけじゃない」
「では何故!? 国も! 軍も! 私達も! これからではありませんか!! これから何もかもが始まると言うのに、貴方がいなければ何もかも意味がありません!!」
「私がいなくとも、皆がいれば問題は」
「貴方がいないのに、どんな意味があると言うのですか!?」
鬼気迫る勢いで、少女は叫んだ。
「貴方こそが私達の王なのです! 他の有象無象に貴方の代わりが勤まるはずがありません! あんな愚図共に何が出来ると言うのですか!?」
「彼らも僕の同志だ。そんな言い方はよすべきだ」
「貴方が……貴方で無ければ……」
男の服を掴んでいた手の力が緩み、崩れ落ちるように少女は床へと倒れこんだ。
神に跪き、救いを求める宗教家がちょうど今の彼女と同じ姿勢を取るだろう。
つまり今、まさに彼女は男に救いを、翻意を求めているのだった。
「私達は。私は、私は」
もはや服の裾からも手を離し、ただただ涙に暮れる少女。
「私は、貴方が良いのに……っ」
どうやら、2人の間には何らかの重要な関係がある様子だった。
しかし彼は少女を助け起こすことはせず、どこか痛ましいものを見るかのような表情で彼女を見下ろすばかりだった。
伸ばしかけた手は結局、彼女に触れることは無かった。
「行かないで」
目を閉じて軽く首を振り歩き出した彼の足に、少女の手が触れる。
だが力の無いそれは、男の歩みを止める程のものでは無かった。
「いかないで、いかないで、いかないで」
涙混じりの声は、男を振り向かせることはできなかった。
彼は立ち止まることなく、雨風の吹きすさぶ外へと出て行った。
その間響き続けた「いかないで」と言う叫びなど、聞こえてもいないかのように。
「ああ、何故。何故、何故ぇ……」
礼拝堂には、啜り泣きの声だけが残された。
それは夜が深まり、雨雲の向こう側で月が中天を超えるまで続いた。
そして。
ぎぎ、ぎ。
床の木材を引っ掻く、否、抉る音が響いた。
それは女の立てる音であり、あまりに強い力で引っ掻くものだから、人差し指と中指の爪が剥がれて血の線を描いた。
「 ど う し て 」
憤怒のあまり唇の裏を噛み千切り、出血しながら、彼女は言った。
「なぜ、わたしはあなたのたのために、あなたのためにすべてを、なのになぜ、なぜ、な……ぜ……」
声は老婆のようにしわがれ、蝋燭の火も消えた中で瞳だけが苛烈に輝いていた。
そんな少女を見つめる者は、誰もいない。
ただ一つ、壁画の聖女の瞳を除いては――――。
――――そして、時は流れる。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
さて第7章、ここに来て新キャラクターっぽい何者かが出てきました。
と言うか、この物語のプロローグ集の形式も長いですが、実は一応の意味があったりします。
それでは、また次回。