3-5:「新市街にて」
グロテスクな描写があります、苦手な方はご注意下さい。
では、どうぞ。
――――駆けた。
事態を見た次の瞬間に、彼は駆け出していた。
前への前進では無く、側面への回り込みと言う意味で。
「……ッ」
だんっ……と、足を踏み置いた場所は、あの桟橋だ。
もはや漁師も使わない桟橋、つい先日彼女を案内したその場所に彼は立っていた。
桟橋の端に立ち見つめる先には、川幅に似合わぬ絢爛豪華な船があった。
その左右に無骨な船が2隻、もしかしなくとも護衛船だ。
それらを厳しい目で睨んで、彼――アーサーは、呟きを漏らした。
「これは、不味いですね」
失点は2つ。
リデルの気質を知りながら、彼女の行動を止めなかったこと。
まぁ、元より彼女はアーサーの意思に従う形で動いているわけではなかった。
どの道、彼にはどうすることも出来なかっただろう。
そしてもう一つ、総督の行動を読めなかったこと。
総督の考えを読むなど困難を極めるのだが、しかし過去の事例を見る限り、このような行動に出たことは無い。
あの総督が子供を攫わずに帰還する程、リデルに拘るとは思わなかった。
何しろ、旧市街でソフィア人を発見するなどかつて無かった。
「おい、アーサー! どういうことだよ!? アイツは何なんだ!?」
そこへ、後を追いかけてきたらしいディスの声が聞こえてきた。
アーサーは振り返らないが、そもそもディスは彼の横に立ったので、振り向く必要が無かった。
「まさか、スパイだったんじゃねーだろうな!?」
「こちらのことをスパイしなければならない程に、向こうにとっての僕らの脅威度は高くありませんよ」
「じゃあ何だよ、お前、まさか」
強気の中に不審を潜ませて、ディスは言った。
「まさか、アイツが俺達を助けた。なんて、言うつもりじゃねぇだろうな?」
「…………」
「……おいっ!」
少年が2人、桟橋に並んでいる。
2人の間でどんな会話が成されているのか、彼女には手に取るようにわかった。
それだけの付き合いを持っているし、何より、彼女にとってそれは「二度目」だったからだ。
「…………」
マリアは、見ている。
桟橋に立つ2人の少年の背中を見つめ、会話を聞きながら。それでも彼女はただ見ていた。
それは、彼らの関係の中で言えば、いつものことだった。
見守る。
その行為ははたして、どちらに見られるべきなのか。
マリアは、その問いかけすらただ見ているのだった。
◆ ◆ ◆
これは、流石に不味い。
あてがわれた船室の中でウロウロしつつ、リデルは頭をフル回転させていた。
「落ち着け、落ち着くのよ私。大丈夫、まだ慌てるような状況じゃないわ」
自分に言い聞かせるように呟く彼女は、今は1人でいる。
正直どこか狭くて暗い所に放り込まれるのだろうと思っていたのだが、その予想は外れて小綺麗な客室に通されていた。
小綺麗、と言うか、むしろ彼女の今までの生活からすればあり得ないようなレベルの部屋だ。
ウロウロしながらもビクビクしているのは、そのせいかもしれない。
「それにしても何よ、この部屋。広い割に物が多くて邪魔なのよ、まったく」
部屋自体は白とピンクを基調に整えられていて、どことなく少女趣味だった。
ちょっと見渡して目に付くのは、ソファとクッション、大中小のテーブルと窓などだ。
そこかしこに花柄の装飾がされているあたり、年頃の少女用の部屋なのかもしれない。
厚手の白布を被せられた革のソファと、その上にいくつも重ね置かれた柔らかそうなクッション。
花柄のカーテンが上げられた窓からは外の景色が見え――川が見える、挫けそうだ――窓際の小さな丸テーブルの上には白いランプと水の入った硝子瓶が置かれていて、傍にはスツールと本が数冊見える。
着替えのためだろう、クローゼットの前には折り畳み式の衝立があった。
別のテーブルの上にはレースのテーブルクロスが敷かれていて、ティーセットと一緒に見たことも無いお茶菓子がセッティングされている。
「船の出口まで道は覚えてるけど、部屋の外には見張りがいるみたいだし……」
本とお茶菓子に少し興味を引かれつつも、リデルはごそごそと部屋を調べた。
どこかに外に出られそうな場所が無いか、あるいは使えるものが無いか、そういう調べ方だった。
しかしわかったのは、窓を含めて外へ出られる空間は無いということ。
使えるものはいくつかありそうだったが、リデルが持っていても大して意味の無いものばかりだった。
状況は、考え得る限り最悪である。
早まっただろうか、一瞬浮かぶその考えを首を振って掻き消す。
己の策の結果を否定するのは、軍師のすることでは無い。
それに、あの時はああするのが最善だったはずではないか。
しかしそうは言っても、思うところはある。
先程から何か物足りなさそうに、あるいは何かを探すように振り向いたりしているのは、そのためだろう。
そうした自分の行動にも苛立つが、仕方が無い。
無いものねだりだ、わかっている。
「……皆だけでも、一緒で助かったわ」
ぐい、と襟を掴んで衣服の下を見ながらそんなことを言う。
もぞもぞと動くそれに頼りなげな笑みを浮かべて見せた、その時だった。
部屋の扉が、やや乱雑にノックされたのは。
◆ ◆ ◆
リデルは、目の前の光景が信じられなかった。
と言うより、理解と把握に時間がかかった。
「えっと、ここ、どこ?」
「クルジュだよ、決まってるだろう」
「え、いや……あっちと全然違うじゃないのよ!」
「フィリアの住み処と一緒にするなよ、ぶっ殺すぞ」
傍には不機嫌顔のアレクフィナがいる、彼女は向かいの座席に座ってソワソワしているリデルを鬱陶しそうに睨んでいた。
ヴイイィ……と言う駆動音と共に窓の外の光景が滑るように後方へと消えていく。
すでに船は降り、ソフィア人達の生活エリアに入り込んでいる。
とは言え、総督や魔術師、フィリア兵の集団を連れてゾロゾロ街中を歩けるはずも無い。
パレードではあるまいし。
そう言うわけで、移動手段が必要になる。
それが今、リデルとアレクフィナが乗っている金属製の乗り物「鉄馬車」だ。
総督の命令だからかどうなのか、一応、アレクフィナはリデルに危害を加えるつもりは無いようだった。
「ねぇ、アンタ」
「良いから黙ってな。くそ、何でアタシがこんなガキの面倒を見なけりゃ……」
「ねぇ、ちょっと。聞いてるの?」
「見なけりゃならねぇんだ……って、何だいさっきから、脛を蹴り付けるのをやめな!」
「ならちゃんと返事しなさいよ、礼儀のなってない奴ね」
「お前に礼儀の何たるかを教えられる程、落ちぶれちゃいないよ! それより何だい、総督公邸にはすぐにつくよ!」
「そうじゃなくて、これ、この乗り物? 乗り物……は、何?」
「ああん? 鉄馬車だよ、アタシらの町じゃ当たり前の交通機関だろうに」
その場では「そう」と頷いたリデルだったが、内心では混乱していた。
(鉄馬車……鉄の馬車ってこと? そりゃあそう言うのもあるんでしょうけど、え、でも馬車でしょ? 実物は見たこと無いから詳しくは無いけど、でも馬車って馬に引っ張らせる乗り物のことよね? パパの本でも糧秣の輸送とかに良く使ったって……まぁ、牛の方が便利だったらしいけど。ああいや、本質はそこじゃないわね、馬の無い馬車。じゃあ何で動いてるの? このうぃ~んって音がそれ? だとすれば、これも<アリウスの石>で動いてるの……?)
と言う具合である。
しかし鉄馬車もさることながら、リデルが衝撃を受けたのは窓の外だ。
正直後方へと流れていく風景には気分が悪くなってくるが、それでも街並みを見るだけなら十分だ。
まず道、旧市街以上に広く、滑らかで、馬車が僅かも揺れない程に綺麗に整備されている。
窓越しだが土埃っぽさや生臭さは確認できず、物はわからないが、甘い香りや清涼感のある匂いをいくつか確認できた。
通りを歩く人々の衣装もフィリア人とは比べものにならない程に多用で、綺麗だった。
旧市街に比べ、何と清潔なことか。
「ん……」
「あ? 何だ、トイレかい?」
「違うわよ!!」
自分の衣服は父に貰ったものだが、島を出てから変えていない。
一応気をつけてはいるが、それでも多少くたびれていた。
周りの清潔さに比べると、見劣りするのは否めない。
もじもじしていた所でそんなことを言われたので思わず怒鳴ってしまったが、アレクフィナは片手をヒラヒラさせるばかりだった。
妙に腹が立つ、が、我慢した。
ここは敵地、無闇にアレクフィナを挑発しても良いことは無い。
今はとにかく、相手の隙を窺うべき。
「はっ……総督様の考えは知らないけどね。アンタも、この機会にせいぜいソフィア人の自覚ってのを学ぶんだね」
「…………」
そう考えてリデルは沈黙し、状況の推移を見守ることにした。
……そしてその選択を、数時間後の彼女は後悔することになった。
◆ ◆ ◆
これは、流石に不味いような気がする。
リデルは強い危機感を持っていた、あのアレクフィナと狭い馬車内で一緒に過ごすよりも、だ。
理由は、彼女の服装にある。
彼女は今、島から着続けていた物とは別の衣服に身を包んでいた。
ふんあわりとパフスリーブ調のブラウスに黒地に白レースのベストを重ね、裾に花が描かれた濃い赤のスカートを着て、足は編み上げ式のブーツで締めている。
ブラウスに至っては麻では無く絹で、それは下着についても同じだった。
それに加えて……。
(そ、そういえば、パパが話してくれた御伽噺でこういうのがあったような)
……肌がしっとりしていて、髪もどこか艶があるように見えた。
言ってしまえば、総督庁舎に到着すると同時に湯浴みをさせられたのである。
ソフィア人のお手伝いさん達に甲斐甲斐しく――それはもう甲斐甲斐しく――世話をされ、その間、借りてきた猫のように大人しくするしか無かった。
水浴びしかしたことが無かったリデルにとって、湯浴みと言うのは初めての経験だった。
温かく、身体を芯から解されるあの感触。
機会があればまたやってみたいとは思う、が、それ以上に危機感が強い。
何故ならば。
「ガブガブ、グブッ……グヂャッ」
何故ならば今、食事とは思えないような音で料理を平らげている男が、総督だからだ。
人間と言うより肉団子と表現した方が良いような巨体が、屈むようにしてテーブルの上に並べられた料理を食べ続ける様は、見る人間の食欲を奪うには十分なインパクトを持っていた。
楕円形のテーブルの端と端、と言う位置関係でなければ、正直に言って正視に耐えなかっただろう。
(綺麗にして、太らせて……ま、まさか、私のことも食べるつもりじゃ!?)
そう思えば、目の前に並べられている豪華な料理にも手をつけられるわけも無い。
ただその料理にしても、リデルの食欲をそそることは無かっただろう。
食卓についているのは総督とリデルの2人だけなのに、全長数メートルはあるテーブルの上には所狭しと料理が並べられている。
鴨肉の脂漬け、ビーフ入りクリームシチュー、ブイヨン茹での牛肉、ローストしたスネ肉の煮込み、チーズのフライ、ナスと挽き肉の重ね焼き……どれもこれも、リデルが名前も知らないような料理ばかりだった。
強い香辛料の香りと、食べれば唇にべったりとつく脂。
島育ちで調味料を薄くしか使ったことの無いリデルには、とても食べられた物では無かった。
美味しいのかもしれないが、刺激が強すぎるのだ。
「グヂャ、ギヂャ…………ム゛、ど゛う゛し゛た゛?」
びくぅっ、と肩を揺らすリデル。
一心不乱に肉料理を掻き込んでいた総督が、顔を上げてリデルのことを見ていた。
「た゛へ゛な゛い゛の゛か゛?」
「…………」
ぐっ、と、身体の奥から来る震えと怖気を堪える。
何やら気遣われているような気もするが、真に受けてはいけない。
相手は総督、アーサー達の「敵」なのだから。
「あ゛ん゛す゛る゛な゛」
そんなリデルに、総督は濁った声で続ける。
ゴフゴフと咳き込むあたり、長く喋るのはキツいらしい。
そんな様で、良く総督――王をやっていられるな、と思う。
思考ははっきりしているようだが、あんなに太った人間を見るのも初めてというのもあって、どうしてもそう思ってしまう。
そして、同時にもう一つ不思議に思うことがあった。
湯浴みの時のお手伝い、そして総督に付き従っていたソフィア人の魔術師達。
彼らは皆、こんな姿の……お世辞抜きで言えば醜悪な外見の総督に対して、献身的に仕えているように思えた。
気味悪がることも無く、上司と部下として普通に接していた。
「す゛く゛に゛、き゛み゛の゛り゛ょ゛う゛し゛ん゛を゛み゛つ゛け゛る゛」
「は……?」
「あ゛ん゛し゛ん゛し゛て゛、ま゛て゛」
(いや、待てって言われてもね……)
もしかしてこの総督、自分が何かの間違いでフィリア人街に紛れ込んだとでも思っているのだろうか。
アレクフィナから何か聞いているのではないのか、それともその報告を信じていないのか。
迷子扱いされるのは、率直に言って苛立つのだが。
「……あ」
コトリ、と目の前に置かれた白い食べ物に、目を奪われる。
これもまた見たことが無い、他の料理と違ってお肉や脂でべとべとではない。
どこか冷たそうで、ミルクをクリーム状に固めたらこうなりそうな、そんな食べ物だった。
置いてくれたお手伝いを見上げると、ニコリ、と微笑まれた。
綺麗な笑みだった、総督も、どこか優しげに自分を見ている。
「えーと……いただきます」
銀のスプーン――これまた、初めて見る――を手にとって、一口分、その食べ物を口に含む。
冷たく、そしてほのかであっさりとした甘味が口に広がった。
舌の上でゆっくりと溶けるそれに、リデルはほんのりと頬を緩めた。
「……甘い」
後で聞いた話だが、その食べ物は「アイスクリーム」と言うらしい。
……アーサーは、この食べ物を知っているだろうか?
ふと、そんなことを思った。
◆ ◆ ◆
「おいアーサー、お前、マジでどうしちまったんだよ!?」
旧市街、夜、ディスの声がアジトに響いた。
それを聞くアーサーはしかし、赤い石を嵌め込んだグローブを着けながらの歩みを止めなかった。
湿気の多い通路、今にも消えそうな篝火の炎だけが光源となって、彼らを照らし出していた。
「おい待てって! 本気かお前!?」
「僕はいつでも本気ですよ」
「いやそりゃあ、お前が本気だって言ったらいつだってそうだったけどよ……でもお前、今回は意味わかんねぇだろ!」
「どこがですか?」
幼馴染の少年に淡々と答え、歩みを止めることなく、首だけを回して振り向きながら。
「彼女を、こんな段階で失うわけにはいかない。彼女は……リデルさんの力は、これからの僕達にこそ必要になるんですから」
「いや、だからアイツは何なんだよって話をだな」
「<東の軍師>の娘ですよ」
静かに応じて、続ける。
「そして、僕達の軍師になる人です」
その言葉にディスが足を止めた、合わせてアーサーも一旦、歩みを止める。
ディスの目は、どこか理解を拒むような色を浮かべていた。
「お前……マジでどうしちまったんだよ」
「何がでしょう」
「何が、じゃねぇだろ! ソフィアの奴なんかを連れてくるわ、おまけにそいつを助けるためにソフィア人の奴らの所に行こうとするとか……旅に出る前のお前と、やってることが全然違うだろうがよ!」
……言われて、思う。
目を閉じて思い出せば、ああ、と感じる。
確かに<東の軍師>を求めて旅に出た時は、もっと、ソフィアへの負の感情に満ちていたように思う。
一方的に虐げられる同胞と、過去の自分、そういうものが一体となって、自分に圧し掛かってきていたように思う。
しかし彼は、王族であるが故に知っていた。
ソフィア人もけして、神や化け物ではないということを。
彼らにも自分達と同じような営みがあり、そのために生きていることを知っていた。
だからこそ、アーサーは他のフィリア人とは違う視点でソフィア人を見ていた。
別の気持ちで、ソフィア人らに対して怒りを感じていた。
「だからと言って、僕達まで分別をなくす必要はないでしょう」
「ああ?」
「彼女は僕達を救ってくれました、なら、僕達も彼女を救わなければなりません」
フィリア人を救う、いや、少し違う。
彼女は、リデルは島育ち故か、フィリアもソフィアも区別しない。
悪いことは悪い、良いことは良い、気持良い程に真っ直ぐでブレが無い。
真っ直ぐ、自分の気持ちを素直に表現する。
我侭と言えばそれまでだが、そんなリデルのことを好ましく思っているのも事実だった。
「彼女は……他のソフィア人とは違う。1ヶ月にも満たない旅でしたが、一緒に旅をして、僕はそう思うようになりました」
「アーサー、お前」
「だから、助けに行かなければなりません。僕達のためにも、そして僕自身のためにも」
それに、震えていたのだ。
最後、連れて行かれるリデルの肩が、ほんの少し震えていたのだ。
助けなければならない。
その震えに、彼女の勇気に、アーサーは己の行動を決めたのだ。
そこに、迷いの入り込む余地は無い。
「そうか、アーサー……お前……」
「はい、僕は」
「……そんなにも、アイツのことを……」
「ええ……え?」
何かおかしい、そう思ってディスを見やると、何故か彼は鼻の頭を指先で掻きながら俯いていた。
何やら「人種の壁って、越えられるんだな」などと言っていて不穏だが、どうやらもう反対はしないらしい。
とにかく、一刻も早くリデルを救いに行かなければ。
「お……」
「ん?」
その時、通路の反対側から歩いてくる人陰があった。
茶色の髪の、どこか勝気そうな顔立ちの女。
マリア・アーヴルは、どこか静けさを湛えた表情で2人のことを見つめていた――――。
◆ ◆ ◆
意外に思われるかもしれないが、ソフィア人にも労働の意識はある。
むしろ大公国の法にも労働の美徳が謳われているくらいで、労働意欲は高い。
フィリア人奴隷が活用されるのは、基本的には農業などの一次産業においてだ。
それが低コストでの産業育成に繋がるのだが……それは今は関係が無い。
重要なのは総督公邸で働くソフィア人従業員のための食堂があり、そこにアレクフィナがいることだ。
従業員用とはいえソフィア人のために用意された食堂であって、天井を彩るシャンデリアも相まって、レストランのような場所だった。
まぁ、それもアレクフィナの目の前で料理を平らげるブランのせいで台無しになっているのだが。
「ふひひ、美味いんだぞ~」
「まったく、本当に意地汚い奴だねぇ……そう言えば、スコーランはどうしたんだい?」
「ふひひ、お腹壊してトイレだぞ~」
「……そうかい」
足して2で割ればちょうど良くなるんじゃないか、アレクフィナはそんなことを考えた。
そんな時だ、別のテーブルで話すお手伝い達の会話が聞こえてきたのは。
「……そうなの、そんな子が……」
「そうなのよ、アイスクリームも知らないなんて……」
「私はお風呂に入れてあげたんだけど、服とかもボロボロで……」
「旧市街に迷い込んでたんでしょう? 可哀想に……」
誰のことを話しているのか、などと聞く必要も無い。
リデルのことだろう、十中八九。
(迷い込んだ? 可哀想だぁ? まぁ、ソフィア人が自分の意思でフィリア人とつるんでるなんて話、あるはずないって思うのが普通だろうしねぇ)
実際、自分だってリデルを見るまではそんな可能性を信じてもいなかった。
ソフィア人とフィリア人が、一緒につるむなどと。
まぁ、南端の孤島などに住んでいたらしいので、ただ知らないということもあるだろう。
今回の総督の処置、文句はあるが従ったのはそう言う気持ちもあるからだった。
何だかんだで同胞、それも見る限り純血のソフィア人なのだ。
きちんとした環境で教育を受ければ、ソフィア人の誇りというのを理解するだろう。
フィリア人や、一部の愚か者とは下地が違うはずだ。
「……まぁ、せいぜいソフィア人の自覚を持てば良いだろうさ」
「ふひひ、姐御、どうしたんだぞ~」
「何でも無いよ。ああ、もう、顔中にソースつけるんじゃないよ……ほら、顔をこっちに向けな」
溜息を吐いて、ナプキンを取るアレクフィナ。
そうして部下の面倒を見ながら、思う。
思えば奇妙な出会いをしたものだが、総督に保護された以上、もう妙な場所で会うことも無くなるだろう。
頭の隅にあの生意気な少女の顔を思い浮かべながら、そう考えるのだった。
◆ ◆ ◆
深夜、シュルシュルと言う奇妙な音が総督公邸の通路に響いていた。
その音を立てているのは小動物であって、他にもチチチ、と言う音が聞こえる。
そしてその音に続くように、小さな足音が一つ。
「まったく、馬鹿みたいに広いわねぇ」
こっそりとした呟き、それはリデルのものだった。
服装は食事の時のものだが、頭と髪に帽子と髪飾りを着けている。
どうやら、これだけは死守していたらしい。
そして今、総督公邸が「寝静まる」のを待って、彼女は外へ出ようとしているのだった。
実は彼女があてがわれた寝室の外にはブランが見張りに立っていたのだが、月が中天にさしかかる頃には大イビキをかいて寝ていた。
それで良いのかと思いつつ、チャンスだったので逃げ出させて貰ったのである。
「それにしても、静かね……」
先行してくれている蛇とリスが合図をするのを待ち、こそこそと進む。
隠れるのは性に合わないが、ここは敵地のド真ん中。
港までの道は覚えている、伊達に窓の外を見ていたわけでは無い。
懐に暖めている鳥は、夜には動くことが出来ない。
「……不気味だわ」
普通、重要人物のいる場所はもっと兵士や見張りを立てるものではないのだろうか。
本で読んだだけなので、明確にはわからないが。
それにしても、良くわからないのは総督という人物だ。
いや、公邸で働くソフィア人達の反応だろうか。
聞いた話では、あの総督の新市街――ソフィア人の間では人気なのだそうだ。
しじりつ? と言うらしいのだが、これが歴代総督の中でも高い方なのだとか。
正直、あの容貌で王の仕事が出来るとは思えないのだが。
何でも新市街の近代化に尽力したとかで、あの鉄馬車も総督が本国から導入したらしい。
新市街と旧市街で、随分と評価が分かれるものだ。
(ソフィア人とフィリア人で、対応が違うってことかしらね)
フィリア人の悪、ソフィア人の善、そういうことだろうか。
同じ人物が、異なる人種に対しては対応を変える。
それも、神と悪魔の如く。
それもまた、リデルにはわからない感覚だった。
「……ん?」
こそこそと人気の無い通路――レジスタンスのアジトに比して、かなり広く清潔――を進む中、リデルはある扉の前で立ち止まった。
マホガニー製の大扉で、微細な装飾と金色のドアノブ、ドアノッカーが美しい。
見るからに「僕、高級です」と言わんばかりの造りで、やけに目を引いた。
その時、先に進んでいた蛇とリスがゾワリと身震いし、足先からスカートの中へと潜り込んで来た。
「え、なに……?」
びっくりして足を止める、すると、その扉が僅かに開いていることに気付いた。
そしてその隙間から、妙に鼻につく甘い匂いが漂ってくる。
粘膜にこびり付くような匂いに、リデルが顔を顰めた時。
――――ア゛ア゛ア゛ァ゛ッ゛
……おぞましい叫び声が、聞こえた。
濁っていながらも甲高い声は、その後も断続的に扉の向こうから漏れ聞こえてきた。
聞いているだけで、精神を侵食されるかのような叫び声だった。
「なに? 何なの……これ」
肌の上を、おぞましい何かが這い上がってくるような感覚。
嗅覚を通じて体内に入り込む臭気は脳を溶かすような甘ったるさで、時間が経てば経つほどに思考を弱めていくような錯覚を覚えそうだった。
そしてこれだけの叫び声が聞こえているのに、誰も来ないことに違和感を覚える。
扉の向こうに、何があるのか?
好奇心は、猫を殺す。
だがそれは好奇心と言うだけでは無く、おぞましさの正体を知って、形の無い恐怖から逃れようとする行為でもあったのかもしれない。
そうしなければ、恐怖は実体を伴わずに心を苛むことになるから。
だから、リデルは。
「……だ、誰か、いるの?」
ギイイィィ……。
軋む音を立て、扉を少し開けて。
リデルは、ぼんやりとした赤い光源――<アリウスの石>か――で照らされる部屋へと、入った。
半身だけ、滑り込ませるように。
そして、全身をむわっとした臭気に覆われた。
ガブガブ、グブッ……グヂャッ
それは、夕食の時にも聞いた咀嚼音だった。
皮を歯で裂き、口内で肉を食み、塊を丸ごと飲み込む音だった。
ぼんやりとした光の中、リデルは目を見開き「それ」を見た。
「……ぁ……?」
そこには、何がある?
茶色の髪。
翠の瞳。
日に焼けた肌。
「え? あ……?」
そこには、何がある?
赤い肉。
滴る液体。
生臭い臭い。
「グヂャ、ギヂャ…………ム゛」
そこには、何がある?
てらてらと光を反射する身体。
柔らかな肉がぶつかり合う音。
押し潰される度に、ぐにゃりと歪むシルエット。
濁った叫び。
興奮した息遣い。
「ど゛う゛し゛た゛?」
そこ言葉も、声もまた、夕食の時に聞いた。
総督。
彼が今も、自分を心配そうに見ていて。
濁っている声で、それでも精一杯に優しく、こちらを気遣うような声音で。
優しく、リデルを見て、肉と脂肪で覆われた顔に笑みを、笑顔を。
――――笑顔、を。
「あ……あ、あああ」
赤い、妖しい光源で満たされた部屋。
壁一面に飾られたあれは、何。
床に敷き詰められたあれは、何。
並べられた瓶の中に詰まっているあれは、何。
総督の、てらてらと鈍い汗を滴らせる醜い身体の下で喘いでいるのは、何。
何、何、何、なになになになになになになに。
「ああ、あああ、あ、あ、ああああああああ」
わからない。
わかりたくない。
知らない。
あんなものは、知らない。
知りたくない。
おぞましい。
おぞまじい、おぞましい、おぞましい。
おぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじい。
おぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいおぞまじいオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイオゾマシイ――――――――。
「――――――――――――――――――――――――ッッッッ!!??」
お ぞ ま し い
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
唐突ですが、最後のシーンを目撃した方はSANチェックです、失敗すると1D20という所でしょうか、ご注意下さい。
まぁ、一番正気度を減らすのはリデルなのですけど。
それでは、また次回。