3-3:「ソフィアフォビア」
今でも覚えていることがある。
瞼の裏に張り付いて、消えない記憶がある。
忘れ得ない事実を、ずっと覚えている。
それは、飢えの余り腐肉を漁った記憶だろうか。
――――違う。
それは、恐怖の余り肉親を見殺しにした記憶だろうか。
――――違う。
それは、失意の余り他者への信頼を無くした記憶だろうか。
――――違う。
『おねがい』
記憶の中で、自分は懇願していた。
懇願していたと、記憶している。
だが重要なのはその部分では無い、その時、自分が何をしていたのかは重要では無い。
重要なのは、自分が何をされていたのか、なのだから。
『おねがい』
覚えている。
ずっと、覚えている。
目を閉じれば、瞼の裏にそれが浮かぶ。
常に、いつも、どんな時でもだ。
『おねがい』
笑っている時も。
泣いている時も。
怒っている時も。
何かをしている時も。
何もしていない時でさえも。
『おねがい、どうか』
その記憶は、自分にしがみついて来て。
『どうか、わたしを――――』
――――離してくれない。
「……当たり前の、ことなのにな」
ぱちりと目を開けた直後、そんなことを呟いてみる。
もたれかかっていた背もたれ――固い椅子に座って寝ていたためだろう――から身を前に傾けると、背骨のあたりから鈍い音が響いた。
ん、と吐息を漏らした後、彼女は何気なく片手を天井へと翳した。
日の光はもちろん、照明の灯りさえ無い場所でそんなことをしても意味が無い。
自分の手は、見えない。
自分の身体が、見えない。
自分自身のことなど、何も見えない。
見えない。
「自分のことからは」
今でも覚えていることがある。
瞼の裏に張り付いて、消えない記憶がある。
忘れ得ない事実を、ずっと覚えている。
自分自身の身に起きたことを、忘れることが出来ずにいる。
手。
手を、覚えている。
あの手のことを、ずっと覚えている。
忘れたくても、忘れられない。
だって。
「自分の業からは、逃げられないんだからさ」
ぽつりと呟くその声は、乾いた口から漏れて暗闇の中へと消えていった。
それを感じて、彼女はふと微笑もうとした。
そしてそれにすら失敗すると、彼女――マリア・アーヴルは、黙って手を下ろした。
◆ ◆ ◆
会議と言う名の査問かと思えば、会議と言う名の葬式だったとは。
クルジュの地下に構えられた会議室――地下道の空間に椅子を並べただけの粗末なものだが――の中で、アーサーはそんなことを思った。
穿ちすぎか、いや、そんなことも無いだろう。
「さて、クルジュ連絡会の叔父貴の方々。そろそろ結論を出して貰わないと、わたしらとしても困るんですよ」
中心にいるマリア、フィリア人の青年グループで構成されるレジスタンスの代表格である彼女は、この会議の場をも仕切る立場にあった。
だがその困った表情を見るまでも無く、会議は上手くいっていないようだった。
いや、そもそもこれは何の会議だったのだろう。
「しかし、そうは言ってもな」
「……ううむ」
「むむむ……」
そもそもレジスタンスと呼ばれているグループ、つまりマリア達のことだが、彼女らは基本的に25歳以下の人間で構成されている。
フィリア人の平均年齢が40~50歳であることを考えるなら、これは不思議な年齢設定とは言えない。
人口構造的には25歳以下だけで7割以上を占めるので、人数的にも適正と言える。
とは言え、彼女らだけでクルジュの全てを把握するのは難しい。
そこで登場するのが、彼女らよりも年齢を重ねた者達、大人達だ。
俗に言う、クルジュ連絡会だ。
工場労働者の親方、商店街の老舗店の店主、婦人会の会長――豊かな経験を持つ彼らは、向こう見ずな若者達を教え諭す存在である、はずなのだが。
「<東の軍師>の探索を完遂させたというのは、喜ぶべきことなのかもしれないが」
「いや、<東の軍師>は結局鬼籍に入っていたのだろう」
「そんなことより、<東の軍師>がソフィア人だったことの方が問題だろう!」
「そ、そうだな。まさかソフィア人だったなんて……」
<東の軍師>は長く、フィリア人であるとされてきた。
彼の活躍の種を作った東部叛乱、その開始はソフィアの公子によるものだったが、<東の軍師>自身はフィリア人だと信じられてきた。
それがソフィア人だった、それの意味する所は何か。
20年前の東部叛乱でさえ、結局はソフィア人同士の諍いでしか無かったのか。
ソフィア人に、ソフィアの力に、魔術に怯えて生きているフィリア人にとって、東部叛乱での「勝利」はほとんど唯一と言っても良い程の誇りだったはずだ。
大陸東部は大公国の支配から逃れ、ここクルジュでもその片鱗はある。
だが今、その唯一の誇りさえも失われつつある。
(良い機会だとは、思いますけどね)
しかし一方で、アーサーはそのことについて不思議と失望や罪悪感を抱いていない自分に気付いていた。
彼自身、<東の軍師>の伝説的偉業に望みを託して探索の度に出た身なのに、である。
それは彼が、知っているからだ。
ソフィア人であろうと、フィリア人のために戦ってくれる存在を知っているからだ。
勝気で臆病な彼女のことを、知っているからだ。
「……良い機会だと、思いますけどね」
今度は声に出して言った、マリアを含めた一同の視線が彼に集まる。
反発よりも怯えの方を強く感じるのは、不安だからだろう。
ソフィア人の少女、それも<東の軍師>の娘を名乗る存在が掌中に飛び込んで来たから。
そしてその卑屈な怯えは、ほんの少し前のアーサーの胸中にもあったはずの感情だった。
「僕達が僕達自身の中にある、ソフィア人への恐怖を乗り越えるために」
ソフィアフォビア、それこそがフィリア人が等しく抱える病だ。
虚も実も、ソフィアと名のつくものにいちいち怯えてしまう。
数十年、いや数百年。
長い間、ただただ名医が現れて治療してくれるのを待つばかりだった。
そして、<東の軍師>という名の名医はもういない。
「どうか、皆さんの理解と協力を、お願い致します」
だから、アーサーはその場で頭を下げた。
深刻な病巣を抱え怯える患者達に、同じ患者の立場で言葉を乗せたのだ。
もう、そろそろ、患者が自分で努力をする時だと思うから。
◆ ◆ ◆
その後、会議は何も決められないままに休会と相成った。
いや、決めるには決めたこともある。
渋々(しぶしぶ)、仕方なく、やむを得ず、とりあえずの仮決定を。
「おい、マリア」
進まない会議の仕切り役などという疲れるだけの仕事からしばし解放され、ほっと息を吐いているマリア。
そんな彼女に声をかける人物がいた、レジスタンス・メンバーの少年、ディスである。
彼は休憩のために廊下に出てきたマリアを呼び止めると、会議の様子を聞いてきた。
「どうなった?」
「さぁねぇ……どうにもならないんじゃないか」
「おいどうした、何でそんな適当な感じになってるんだよ」
どうやら、ディスから見ても投げやりになっているように見えたらしい。
あの適当と勢いだけで人生を生きているディスにそんなことを言われるとは、マリアは何だか死にたくなってきた。
まぁ、それは冗談にしても。
「おや、ディスまで来ていたんですね」
その時、マリアの後から会議室から出てきたのはアーサーだ。
通路の高い位置に備え付けられた篝火の灯りが、3人の横顔を薄暗く照らす。
適当に。
しかし、どこか陰があると思わせる程度に。
3人は、それ以上は一言も話さなかった。
幼馴染と言う関係でありながら雑談に興じさせない、そんな壁があるように見えた。
ありもしない壁だと、笑い飛ばすことが出来れば良いのに。
そう思ったのは、3人の内、誰だろうか。
「――――では」
小さく呟き、アーサーがどこかへと歩いていく。
どこへ、と言うより、向かう先など外しか無い。
外に、アーサーが何をしにいくのか。
そしてその理由こそが会議が休会した理由だとマリアは知っているし、知っているからこそ、止めないでいるのだ。
「なぁ、大丈夫かよ」
「さぁねぇ、いったいどうなることやら」
アーサーの背中を見送りながら、溜息を吐く。
簡単だったことなど無いと理解しているはずだが、それでも、溜息を吐いてしまう。
仕方が無いと言えばそれまでだが、疲れはする。
だからこその、溜息だった。
「いや、そうじゃなくてさ」
「うん?」
アーサーが見えなくなった頃、またディスが何事かを言った。
正直疲れているので、それこそ適当に相手をする。
「まぁ、大丈夫じゃないか、多分。アーサーが何を考えているのかは、わたしにもわからないけど」
幼馴染と言えど、いや幼馴染だからこそ、わからない。
あのアーサーが何故、<東の軍師>の娘とは言えソフィア人を連れてきたのか。
戸惑いを覚えないと言えば嘘になる、何故なら……。
「いや、そうじゃなくてさ」
「え? じゃあ何さ、他に何か」
「俺が気にしてんのは、お前のことだよ」
「…………」
心配そうな顔、声音、気配。
その何れも、ディスと言う少年には似合わない。
「お前、大丈夫かよ」
「……………………」
それに対して、マリアは何も答えなかった。
言葉を返さず、さりとて視線すらも返すことは無い。
彼女はただ、アーサーの去った方向へ視線を向け続けるばかりだった。
「だって、お前――――」
それはどこか、何かから逃げているようにすら見えた。
◆ ◆ ◆
何となく、この場所が気に入ってしまったのかもしれない。
頬を撫でる風に片目を閉じながら、リデルはそんなことを思った。
「ここの臭いには、まだ慣れないけどね」
「すみませんね、昔はもう少し空気も綺麗だったのですけれど」
昨日も登った時計塔、時を刻む大盤の前に立ってクルジュの街を見下ろしている。
そこへやってきたのが、アーサーだった。
と言うより、彼女に近付いてくる者は彼くらいしかいない。
「1人で出歩かないでくださいと、言ったはずなんですがね」
「あら、それを大人しく私が聞くと思った?」
「聞いてくれれば良いなぁと、希望を持ってはいましたよ」
「儚いわね」
「希望がですか?」
「希望がよ」
ぴゅう、と風が吹いて、リデルは頭に乗せた帽子を押さえた。
帽子の中には、薄い金の髪が押し込められている。
「……それで?」
「それで、とは?」
「面倒くさいわね、わかってることをいちいち聞き返さないでよ」
「やはり蛇を服の下に仕込むのはどうかと」
「噛ませるわよ?」
ジロリと睨めば、アーサーは肩を竦めて見せた。
服の下では蛇が腕を這い、いつでも飛び出せるように袖口に頭を向けている。
リスの頭がにゅっと飛び出し、あたりを窺った後にまた引っ込んだ。
どうもクルジュ旧市街の空気が悪いのか、昨日から外に出ようとしない。
(まぁ、私はあったかだから良いけど)
いや、よくは無いだろうというツッコミはどこからも入らなかった。
「で、実際どうだったのよ」
「そうでうすね、どうにもなりませんでした」
「はぁ?」
「いえね、<東の軍師>の娘がソフィア人と言う入り口論の段階で躓いていまして。もはやどうにも?」
「……ふうん」
自分の話題だとわかってはいるが、それでも呆れを隠すことは出来なかった。
朝から何時間も待たされている身としては、結論の一つや二つ即決してくれるものと思っていた。
少なくとも彼女の知る大人――父親のことである――はそう言う人間だったし、アーサーも決断に時間を要するタイプでは無いから、呆れると同時に意外でもあった。
人が多く集まれば、それが集団であればあるほど、決断までに要する時間が延びる。
誰もが何となく知っているだろうその事情を、リデルは今初めて知った。
自分には知らないことが多い、そのことに苛々すると同時に、嬉しくもある。
自分はまだ、多くのことを知ることができると言うことだから。
「……ソフィア人って、そんなに怖いの?」
「一般的なフィリア人にとっては、そうですね」
「どうして?」
以前にも聞いた、フィリア人がソフィア人を恐れる理由。
歴史の話をされてもそれは歴史でしかなく、現実的な理由があるはずなのだ。
今、ソフィア人を異常なまでに恐れる理由を知る必要があった。
これからのためにも。
◆ ◆ ◆
フィリア人が何故ソフィア人を恐れるのか、その説明は本当に難しい。
あまりにも長く、あまりにも複雑に事情が入り組んでしまっていて、もはやフィリア人自身にすらよくわからない状態になってしまっているからだ。
「一番わかりやすいのは……逆らえば殺される、と言う生命への脅威です」
歴史上、フィリア人がソフィア人に反乱したことがないわけではない。
20面前の東部叛乱と大陸東部の解放を例外として、彼らの反乱は悉く粉砕されていた。
百人が反乱すれば千人を、千人が反乱すれば一万人を。
ソフィア人の国と王朝は反乱した人数の倍のフィリア人を処罰した、わかりやすく言えば虐殺した。
今でも、大公国では法律としてそう定められている程だ。
反乱しても何も得られず、余計な被害が増えるばかり。
その繰り返される敗北と懲罰の歴史は、フィリア人の精神の中に深い傷をつけた。
逆らっても無駄だと、嫌が応にも理解してしまう程に。
ソフィア人とソフィア人の力である魔術の前には、自分達など無力なのだと。
魔術による制裁という、フィリア人の努力ではどうしようも無い力を前に。
「正直、そんなことを言われてもわからないわ」
小さく首を振って、リデルがそう言う。
「私だったら、むしろ怒ると思うわ。だって自分が不当に扱われているのに、怖いから、敵わないからって受け入れていたら、何も変えられないじゃない」
「……そうですね」
その言葉にアーサーが微笑む、リデルは何故アーサーが笑ったのかわからなかった。
「僕も、そう思いますよ」
「……? そう」
理由はわからない、が、悪い気分にはならなかった。
それからまた、しばらくの間沈黙した。
そして、やはり
「それで?」
「ええ、クルジュ旧市街のお歴々と会って頂きます。かなり渋っていましたが、まぁ、何とか」
「それは良いけど、私、何を話せば良いわけ?」
「特に難しく考える必要は無いと思いますよ」
話し合えと言う割に無理に話す必要は無いという、なかなかに難しい注文だった。
だが、悪くない。
「そう」
だから、リデルは機嫌良く言った。
「それなら、私は私の言いたいように喋らせて貰うわ」
「ええ、それで良いと思いますよ」
「そう、ならいつも通りで」
いつも通りの自分で良い、そう言われれば、リデルはその通りにすることが出来る。
何しろ元とは言え王子様のお墨付きだ、かつての王都で聞くには、これ以上のものは無い。
誰にとっても、リデルにとっても。
◆ ◆ ◆
――――と、思っていた時期があった。
昼食を済ませた後、リデルは再び例の地下道へと足を踏み入れていた。
ただし今度は桟橋からでは無く、旧市街の外れにある枯れ井戸からだった。
滑車を頼りに滑り降りる経験は、流石に初めてだった。
どうやら地下道への入り口は旧市街中にいくつもあるらしい、日によって使うルートを決めているのだとか。
まぁ、それは良い。
問題は地下道に入り、旧市街の面々が居並ぶ会議室に入ってからだ。
「何をしにきたのか、ですって? それはこっちの台詞よ、アンタ達がパパを頼ったんじゃない。私はただ、パパの代わりに来ただけよ」
正直、これは予想外だった。
さしものリデルも、いやもしかしたらアーサーでさえも、こんな形での対話を望まれるとは思わなかった。
「本当に<東の軍師>はソフィア人なのか、本当に<東の軍師>の娘なのか……愚問だわ。答える価値も無いくらい、意味の無い問いかけだわ」
会話を重ねるごとに苛立ちが募る、それは強烈な不満となって室内の空気を重くしているようにも思えた。
だが、その空気の重さを感じる人間は彼女の他にはいない。
何故ならば。
「ソフィア人のスパイでは無いのか、またそれを証明できるのか、ですって……?」
リデルにとってのソフィア人のイメージは、基本的にはアーサーとルイナだ。
後はルイナの村の人々も入るだろうが、あれは集団としてであって、個人としてのイメージはやはりこの2人に絞られる。
昨日会った2人も、少なくともリデルがソフィア人とわかるまでは普通に接してくれていた。
それに、と、室内でも脱ぐことの無い黒いビロードの帽子に触れる。
あの時、何も言わずにこの帽子をくれた男の子。
彼の姿が、リデルのフィリア人への姿勢を決めたとも言える。
しかし、これはいったいどういうことだろうか。
「……舐めてるの?」
パキッ、と音を立てながら、両手でそれを折る。
それは木片だ、平たく薄い木の板である。
そこには文字が書いてあって、どうやらここでは紙は貴重なのかもしれない。
だが、それは重要では無い。
重要なことは他にある、それは。
「そう、舐めてるのね。上等じゃない」
それは、通された部屋にリデル以外の人間がいない、ということだ。
扉が薄く空き、この木片越しにやりとりをする。
こんなものは対話でも会談でも無い、ましてや会話ですらない。
そんなに。
そんなにも恐ろしいのか、ソフィア人というただそれだけのことで。
深い失望がリデルの胸中を覆う、そして彼女は失望を受け失意に沈む程お淑やかなつもりは無かった。
ルイナがいたらそんなリデルを嗜めるくらいはしたかもしれないが、ここにあの年長の少女はいない。
「――――ふざけんじゃないわよ!?」
叫び、木片の出し入れを行う扉を叩いた。
これまでのノックでは無く、まさしく殴りつけるような勢いでだ。
すると、その勢いに怯えたかのようにゆっくりと、扉が薄く開く。
金属製の薄い扉が、ぎぃ、と音を立てて外向きに開く。
これまでの例なら、その隙間から木片を差し入れる所なのだが。
「舐めるんじゃ……」
次の瞬間。
「……無いわよっ!!」
リデルは右足で、その扉に蹴りを入れるのだった。
◆ ◆ ◆
なるべくしてなった、と言う言葉を、これほど自然な形で使うことになろうとは。
アーサーはそう思った、何故なら目の前の光景はまさにそれだったからだ。
具体的には、小柄で華奢な少女が扉を蹴破って室内に突入する様を、だ。
(いや、まぁ、こうなるとは思っていたんですけどね)
驚愕と恐慌に揺れる会議室にあってただ1人冷静なまま、アーサーはそんなことを考えていた。
彼の目の前では、まさに嵐が吹き荒れている。
そもそも無理だったのだ、直接顔を合わせず、筆談によって対話を行うなど。
アーサーは反対し、マリアは沈黙したが、多数の意思には逆らい難い。
「アンタ達ねぇ、情け無いにも程があるでしょ!?」
嵐、まさに嵐だ。
右足を少し引き摺るようにしていることが引っかかったが、通された部屋からここまで爆走していたあたり、かなり頭に来ている様子だった。
彼女は自分の薄い胸を叩くと、吼えるように叫んだ。
「見なさい!」
帽子を取って薄い金の髪をなびかせ、菫色の瞳を見開いて、見せ付けるようにしながら。
「私はソフィア人よ! でもただの小娘だわ、アンタ達がその気になったらすぐに押さえ込める、ただの小娘よ! そんな私が怖いって言うの!? 情け無いとは思わないの!」
どん、どん。
胸を叩く音がやけに大きく響くのは、あまりにも室内が静まり返っているからだろう。
まさに、情け無い程に。
目の前にいるのは、15にもならないただの小娘、その通りだ。
ソフィア人というだけで、それこそ昨日会ったフィリア人の子供達と違いは無い。
それなのに、この会議室の様子はどうなのだろう。
「そ、ソフィア人……」
「い、石は。石は持っているのか?」
「近付くな、下手なことをすれば殺される……」
リデルの登場に怯え、椅子から腰を浮かせ、いつでも逃走に入れるような体勢を取っているように見える。
相手は本人の言うように、すぐにでも押さえ込める小娘だと言うのに。
「ソフィア人だから何!? 石があるから何!? ソフィア人だから、石があるから、そんな、そんな2つの理由だけで、アンタ達は自分を抑えて生きてるわけ?」
島で1人、誰に抑えられることもなく自由に生きていたリデル。
そんな彼女にとって、島よりずっと大きく豊かな地にいるにも関わらず、怯え縮こまって生きている彼らの姿は理解できないのだろう。
それで良いと、アーサーは思う。
アーサーとて、彼女に出会うまでは同じだった。
元王族である分、他の者達よりはソフィア人に耐性があった彼でさえも、心のどこかで諦観を抱えていた。
フィリア人は、ソフィア人に敵わないのだと。
(リデルさんに出会えていなければ、ということですね)
リデルに出会うまでは、ソフィア人と分かり合えるなどと考えたことも無かった。
まぁ、今でも理解できているかは微妙な所だが。
「……たとえ、お前自身は私達に何もしなくとも」
怯えきって何も出来ずにいる大人達を尻目に、声を発した者がいる。
とはいえ怯えはあるのだろう、少し震えていた。
声の主は、マリアだった。
「お前に何かしたわたし達は、他のソフィアの連中に報復される。今度こそクルジュから追い出されて、全員が奴隷にされるかもしれない。ここは、そう言う場所なんだよ……」
吐き出すような、声だった。
もしかしたら、それが全てだったのかもしれない。
アーサーは言った、ソフィア人は常に10倍の報復をフィリア人に与えてきたと。
そして今マリアが言った、目の前のソフィア人を傷つけることが、その報復のトリガーになりかねないと。
それが、変えようの無い現実。
フィリア人の今に重く圧し掛かる、圧倒的なまでの理不尽な現実なのだ。
諦める他無い、諦めるしか無い、と。
「じゃあ」
だがリデルには、言いたいことがあった。
問いたいことがあった。
諦めていると言うのなら、どうして彼らは。
「――――じゃあ、どうしてパパに。<東の軍師>に助けを求めたのよ」
◆ ◆ ◆
リデルから見れば、<東の軍師>を求めた彼らの行動は矛盾していた。
何もかも諦め、受け入れていると言いながら、彼らは自分達を救ってくれる誰かを求めた。
求めていたでは無いか、いつも、今も。
「フィリア人がソフィア人を倒した唯一の記憶、東部叛乱。アンタ達はそれに懸けてたんでしょ、だからパパがソフィア人だって知ってがっかりしたんでしょ。がっかりしたってことは――どうにかしたいって、思ったんじゃないの?」
リデルの脳裏に過ぎるのは、今まで見てきたことだ。
飢民となって、同胞を襲わなければ生きていけない者達。
身を潜め息を殺して、襲われないようにと縮こまって生きている者達。
奴隷として連れて行かれながら、ただただ受け入れて大人しく船に乗る者達。
賊と戦い勝利し、それから敗北し死んでいった者達。
ソフィア人を畏れ、それでも自分に接してくれた者達。
そして、今。
「でもね、軍師は、君主の望みを叶える存在じゃないの」
軍師とは何か。
リデルはそれを知っている、父の話してくれた御伽噺の中に答えはある。
父の言葉の中に、すでに答えがある。
軍師、それは何も戦争だけを生業とするわけでは無い。
君主の良き相談相手であり、頭脳であり、智慧である。
だが、君主の言うままに策を授ける者を軍師とは呼ばない。
軍師とは、何か。
「軍師は、君主が望むものを手に入れるための、選択肢を与える存在のことを言うのよ」
しん、と、静まり返った室内にリデルの声だけが反響する。
「どれだけ後ろ向きでも、どれだけ情けなくとも。助けを求めることが出来たじゃない、現状をどうにかしてほしいと思えたじゃない。レジスタンスまで作って、ほんの少しでも違うことがしたいって、思えたじゃない。なら、あと少しじゃない」
孤独な少女が、父との約束だけを頼りに島に残っていたように。
そして僅かなきっかけて、そこから飛び出したように。
「あとほんの少し、頑張ってみなさいよ」
アーサーを見る、彼は何も言わない。
代わりに、またあの微笑を浮かべていた。
「さぁ、言ってみなさいよ」
嫌だろう、怖いだろう。
辛いだろう、苦しいだろう。
けれど救世主を求めたのならば、きっとあと少しだ。
ふんっ、と胸の前で腕を組み、リデルは言った。
「アンタ達はどうなってほしくて、私を――パパを呼んだの?」
――その時の彼らの様子を、どう見るべきだろうか。
室内にいる連絡会の面々は、戸惑ったように視線を向け合っていた。
彼らにとってソフィア人とは、フィリア人の意思を確認するような存在ではなかった。
それが今、目の前にいるソフィア人の少女は確かに、自分達に問うたのだ。
お前達はどうしたいのか、どうなったら良いのか、と。
問われて、しかし、わからなかった。
戸惑った。
何故なら彼らが求めたのは、奇跡のように彼らを救ってくれる何者かであったからだ。
その意味でリデルの態度は、彼らが求めるものでは無かった。
「どうなのよ」
「……」
「…………」
「……どうなのよ?」
重ねて問われて、しかし彼らから明確な返答は無かった。
だからリデルは、もう一言二言、言葉を重ねようとした。
アーサーに言ったように、自分の好きに喋ろうと思った。
ここまで来て黙っている方が損だ、だから彼女は小さな唇を開いた。
「――――大変だ!!」
その瞬間、まるでリデルの言葉を遮るように――まぁ、それは流石に被害妄想が過ぎるだろうが――他の誰かが室内に飛び込んで来た。
飛び込んで来たのはディスで、彼は蹴破られた扉と、それからリデルを見て幾分か引く表情を見せた。
が、それでも伝えるべきことはあったようで、特にマリアに顔を向けた。
対するマリアは、苦い顔を浮かべた。
「ディス、何――……」
「総督が来る!!」
ディスの叫びに、さっと、マリアとフィリア人達の表情が青ざめるのをリデルは見た。
「総督が――フェルナンド・トスカティスが、旧市街に来る!」
言葉が矢のように全員の胸に突き刺さり、騒然を生む。
その中にあってただ1人、リデルだけが首を傾げていた。
(そう、とく……?)
それは何だ、また知らない言葉が飛び出して来た。
彼女は数秒の沈黙と思考の後、最後にはいつもの通りにすることにした。
そう、つまり。
アーサーへと、視線を向けたのだった。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
今回は少しトーンダウンする回ですね、次回からまた新しい風景を描ければと思います。
さて、久しぶりに悪役らしい悪役を描きたいところですが……。
それでは、また次回。




