第24話
中庭の木漏れ日を浴びながら、俺は手入れの行き届いた畑の畝に腰を下ろした。
黒々とした豊かな土からは、朝露に濡れた若葉の青い匂いが立ち上っている。かつては湿っぽくて薄暗い岩肌ばかりだったこの場所も、今や瑞々しい緑と澄んだ空気に満ちた憩いの庭へと姿を変えていた。
「レオンさん、本当にとんでもない場所を作っちゃいましたね……」
感嘆の混じった声に顔を上げると、石畳の小道を歩いてきたエリーゼが、眼鏡の奥の瞳を丸くして周囲を見回していた。ギルドの制服ではなく、休日に合わせた軽やかな私服姿だ。その後ろには、珍しく武器を帯びていないカイも続いている。
「お邪魔してるぜ、レオン。いや、今や一国の軍を退けた迷宮の主様と呼ぶべきか?」
「よしてくれ。俺は昔と何も変わっちゃいないさ」
立ち上がり、軽く土を払って二人を迎える。
少し前まで、この迷宮には国最強と謳われた勇者パーティや討伐軍が押し寄せていた。だが、十年間で限界を超えて鍛え上げられた身体能力と、この迷宮に備わった無数の仕掛けの前には、いかなる猛者も赤子同然だった。正面から挑んできた勇者を安物の鉄剣一本で軽くいなし、迷宮の防衛機構で完膚なきまでに圧倒した結果、王都の評議会は完全に戦意を喪失したのだ。
その武力を背景に交わされた不可侵条約によって、国家による迷宮への武力介入や干渉は完全に禁じられた。かつて無価値と見捨てられ、閉鎖寸前まで追い込まれた洞窟は、今や誰の脅威にも晒されることのない不可侵の聖域となったのである。
「まさか王都の上層部が、あんなに震え上がって条約の書類に即座にサインするなんて思いもしませんでしたよ。ギルドでも今や、レオンさんの名前は生ける伝説扱いなんですから」
エリーゼはテラス席の木製ベンチに腰を下ろしながら、ほっと息をついた。
「でも、よかった……。これで本当に、レオンさんが理不尽に追い立てられることもなくなったんですね」
「ああ。エリーゼやカイが外で動いてくれたおかげでもある。感謝してるよ」
俺がそう言うと、エリーゼは少し照れくさそうに視線を泳がせ、カイは豪快に笑って俺の肩を軽く叩いた。
「マスター、皆様のお茶とお茶請けを用意いたしました」
鈴を転がすような澄んだ声とともに、シズクがふわりと宙を滑るように現れた。手元には、冷たい果実水と焼きたてのクッキーが載った銀のトレイが浮遊している。
「わあ、シズクさん、ありがとうございます! このクッキー、すごくいい香り……」
「迷宮内の農園で今朝収穫された木の実と、新鮮なミルクを使用しております。どうぞご賞味ください」
シズクは淡々とした丁寧な口調を保ちつつも、その表情にはどこか誇らしげな柔らかさが滲んでいた。彼女にとって、外敵の脅威が完全に去り、俺がこうして穏やかに客人を迎えられている現状は何よりの喜びなのだろう。
広場の向こうからは、甲高い金属音がリズミカルに響いてきた。
視線を向けると、中庭の一角に設けた訓練場で、大剣を担いだドーラと、木剣を構えたアルトが激しく打ち合っていた。
「ほらほらどうした少年! 勇者の看板背負ってんなら、もうちっと腰を入れて踏み込んでみな!」
「くっ……まだまだ! 師匠の足元に及ぶまでは、何千回だって振るってみせます!」
身の丈ほどもある大剣を片手で軽々と振り回すドラゴニュートの姉御肌に対し、アルトは額に汗を滲ませながら懸命に食らいついている。かつて迷宮を討伐しにやってきた勇者は、今や俺の弟子としてこの迷宮に住み込み、日中は畑仕事や雑用に追われながら鍛錬に励む毎日だ。
「あいつ、すっかりここに馴染んじまったな」
カイが呆れたように笑う。
「王都にいた頃より、ずっと生き生きとした顔をしてるぜ。国のプロパガンダに縛られてた頃の張り詰めた空気が綺麗に抜けちまった」
「本人がここで学びたいって言うからな。飯の準備と雑巾がけを手伝ってくれるなら、俺としては大歓迎だ」
俺が肩をすくめると、エリーゼがくすりと笑った。
「本当に、ここは不思議な場所ですね。外の街にいると、誰もが効率やランク、利益ばかりを気にしてギスギスしているのに……ここに来ると、時間の流れがゆっくりになった気がします」
「ここはもう、誰かと競い合ったり、成果を求められたりする場所じゃないからな」
俺は木製のカップを手に取り、冷えた果実水を口に含んだ。爽やかな甘酸っぱさが喉を潤していく。
十年もの間、見向きもされなかったこの場所で、俺はただ自分のペースで歩み続けてきた。周囲からは無駄だと嘲笑され、効率が悪いと切り捨てられた時間が、巡り巡ってこの平穏な空間を作り出す礎となったのだ。
陽が少し傾き始めた頃、エリーゼとカイは名残惜しそうにしながらも、帰路につく準備を始めた。
「また休日に遊びに来てもいいですか? ここの果実水、本当に美味しくて……」
「いつでも歓迎するよ。次は新しく収穫した野菜で美味い料理を用意しておく」
「楽しみにしていますね!」
エリーゼは満面の笑みを浮かべ、カイと共に転移門へと向かっていった。
二人を見送った後、俺は中庭を見下ろす高台のテラスへと移動した。訓練を終えたドーラとアルトは、リムが用意した夕食の匂いに釣られて館の食堂へと駆けていったようだ。遠くから楽しげな笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「マスター、本日の外縁部の魔力循環および防衛機能の自己修復、すべて正常に完了しております」
隣にふわりと降り立ったシズクが、手元の光る結晶板を見ながら報告を上げてきた。
「お疲れ様、シズク。いつも助かるよ」
「いえ……私は、マスターの望む平穏をお守りするための存在ですから。今のこの迷宮は、いかなる軍勢が押し寄せようとも決して揺らぐことはありません」
シズクは静かに目を細め、迷宮全域を見渡した。
「ですが、防衛のためだけに力を使うのは、少々味気ないですね」
「そうだな。せっかく広大な空間があるんだ、もっと暮らしを豊かにするような改築をしたいと思ってる」
俺は懐から取り出した羊皮紙を広げた。そこには、俺が暇を見つけては書き留めていた新たな構想が描かれている。
「まずは、地下三層の岩盤地帯を利用して、本格的な大岩風呂を作りたい。湯加減を調整できる魔石を組み込んで、外の景色が見渡せるような露天風呂形式にするんだ」
シズクの青白い瞳が、かすかに興味深そうに揺れた。
「大岩風呂……良いですね。地下水脈の純度を上げ、効能のある鉱石を配置すれば、疲労回復効果を劇的に向上させることが可能です」
「それから、中庭の奥には釣り堀を兼ねた大きな池を作りたい。清流の魔魚を放流して、いつでも新鮮な魚が釣れるようにする」
「水生環境の構築には少々のポイントを消費しますが、余剰魔力で十分に賄えます。果樹園の拡張と併せて設計図を最適化しておきましょう」
シズクは指先を動かし、空中に淡い光の図面を投影していく。思い描いたアイデアが次々と具体的な形になっていくのを見るのは、何物にも代えがたい楽しさがあった。
かつては生き残るため、そして愛着のある場所を奪われないために必死で積み上げてきた力。だが今は、その力をただ純粋に、仲間たちと心地よく過ごす日々のために使うことができる。
「マスター、次の階層の開拓ですが、どのような景観にいたしますか?」
「そうだな……四季を感じられるような、木々が生い茂る広大な森のエリアなんてどうだ? 季節ごとに違う果実が実るような場所にしてみたい」
「素晴らしい案です。では、基礎設計の準備に入りますね」
シズクが嬉しそうに微笑んだ。
ふと見上げると、岩天井に張り巡らされた結晶石が、本物の夜空のように淡い星々の瞬きを放ち始めている。
ここにあるのは、終わりのない争いではなく、どこまでも穏やかで自由な時間だ。明日はどんな施設を作ろうか、どんな作物を育てようか。そんな他愛のない計画に胸を躍らせながら、俺はこの迷宮の主として過ごす、果てしないスローライフの次なる一歩に思いを巡らせていた。




