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十二の静寂  作者: Ono


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11/13

影の月:密偵

 地下獄は音すら老いている場所であった。石の階をいくつも降って最後の鉄扉が閉ざされると、地上の気配はたちまち遠退く。水の垂れる音ひとつ、鎖の触れあう音ひとつ、深い井の底へ沈むごとく闇に呑まれてゆく。そこには燭も篝もない。そもそも火を置くための窪みすら、壁に穿たれていなかった。ただ濡れた石と黴の匂い、古き血の痕に似た冷えがあるばかりだ。

 鴉羽はその獄の中央に坐し、縛められた手を膝に落としていた。目を開けても閉じても変わらぬ景色。されど闇の濃さには層があり、見えぬはずのものほど、かえって肌に触れるように分かる。自らの息や肩にかかる空気の重み、喉の内に滞る熱。――そればかりではない。背の後ろに、常よりなお近く何者かが貼りついている気配があった。

 それを知りながら、鴉羽は振り向かなかった。裏切りの報いは背後よりきたる。主君が直々に、言い渡しの折にそう告げたからである。

「刃をもって斬るは易い。そなたは、そなたの裏に潜むものに喰われよ」

 その声音は怒りに濁ってなどいなかった。それが鴉羽には何より堪えた。怒りはまだ人のぬくもりである。憎しみには、相手を見ている眼がある。けれども、あの時の主君の声には、深雪の朝の空のような澄みきった冷えしかなかった。鴉羽はその冷えを知っていた。まだ彼が幼かった昔の頃に、同じ気配を一度だけ感じたことがあったのだ。


 それは鴉羽が名を得た夜のことであった。

 その頃の鴉羽はまだ何者でもない餓えた童にすぎなかった。山峡の小村はひと晩のうちに焼け落ちた。何者の仕業であったか鴉羽は知らない。野盗であったか、落ち武者であったか、あるいは領境の争いに巻き込まれたか。幼き者にも分かったのは、戸板の割れる音と濡れた薪のごとく人の骨が裂ける音ばかりであった。鴉羽は焼け残った土蔵の床下へ潜り込み、灰と鼠の糞の匂いにまみれたまま息を殺して一夜を過ごした。

 夜明け前、外は雪であった。焼土のうえに降る雪は清らかに見えて、むしろ俗世の惨さを際立たせる。鴉羽が板の隙より外を窺っていると、白き毛皮を肩にした若武者が燃え崩れた家々のあいだを静かに歩いていた。供の者は多かったが、誰も声を荒らげることなくただその若武者の足どりに付き従っていた。

 やがてその者は土蔵の前で立ち止まる。鴉羽は見つかったことを悟り、いざとなれば噛みつこうと獣の気構えで身を固くした。板が外され、朝の光が差し込んでくる。目が合うと、若武者はしばし何も言わず、土にまみれた鴉羽を見下ろしていた。

 若武者の瞳に不思議と深い森の大樹に似た古さを感じた。勝った者の余裕と驕りも、気紛れに憐れみを見せる軽さもない。ただ深い水底を覗くように、じっと鴉羽を見ていた。

「よく息を殺していた」

 それが最初の言葉であった。童の鴉羽は唸るように睨み返した。すると若武者は僅かに口許を緩めた。

「今宵は鴉羽の闇夜だ。月の見えぬ夜に生き延びたなら、お前の名は鴉羽でよかろう」

 それが、久世家当主、久世冬嗣とのはじまりであった。


 冬嗣は若かった。しかし領地を継いでからというもの、飢えた村に対しては久世家の蔵を開き、荒れた川筋には堰を築き、山賊の潜む峠は自ら兵を率いて鎮めた。領内の者はその名を敬い、敵はその名を怖れた。鴉羽は久世の城へ連れてゆかれたが、始めの頃は人と数えられていなかった。食は与えられても席はなく、眠る場所は納戸の片隅、着るものは死人の剥ぎ合わせ。城の子らは鴉羽を灰鼠と呼び、犬より低く見て笑うのだった。

 ただ、冬嗣のみが鴉羽を人にしようとした。冬嗣は鴉羽に字を教えた。筆の持ち方から墨の磨り方、諸国の名、山川の筋に生える薬草と毒草の見分け方、人の顔色の読み方、言葉と沈黙の使いどころ。

 夜更けに誰も通らぬ廊下を二人で歩きながら、冬嗣は折に触れて奇妙なことを教えた。

「人は背を見せる相手にしか情を持てぬものだ」

「背を預ける、ではありませぬか」

 幼い鴉羽が問えば、冬嗣は首を横へ振った。

「預けるは武の道よ。見せるはもっと愚かで、もっと深い」

 その言葉の意味を、鴉羽は長らく知らずにいた。それでも冬嗣の背を見ることは、いつしか鴉羽にとって呼吸のようなものとなった。政の座にある時の背。馬上より野を望む背。雪の夜、炉の火を明かりに書巻を読む背。そこには常に他者を遠ざける厳しさと、何かを独りで負う者の静けさがあった。鴉羽はその背に見捨てられぬよう、影のごとく身を軽くし、息を消し、誰より先に命に従う術を覚えていった。


 やがて鴉羽は城の陽のあたる場所から消えた。忍びとなったのである。名も姿もその都度変えて、冬嗣の命を携えて国境を越え、敵対者の懐から書を盗み、密使を追いかけ橋を落とし、毒を用い、時に喉を裂いた。そのたびに鴉羽の手は汚れたが、冬嗣は委細を問わなかった。鴉羽が持ち帰った結果を見据えてただ一言「よく果たした」と言う。その簡素な労いの中に、鴉羽は人としての形を保っていた。

 元服の夜、庭に灯が並び、白砂がほの青く冴えていた。酒宴も尽きたのち冬嗣は鴉羽を廊下の端へ呼び、庭を眺めたまま言った。

「そなたは我が影となれ」

 鴉羽は膝をついた。胸の奥のどこか、灰に埋もれていたものが赤く熾るようであった。影とは光に逆らわず、主の向くほうへ伸びるものだ。己の形を誇らず、ただ傍らに在るものだ。それでよいと鴉羽は思った。否、それこそが望みであった。


 しかし、良き日々は長くは続かなかった。領内に名も定かならぬ病が出たのである。始めは山里の子が倒れた。肌に薄墨を刷いたような斑が浮かび、夜ごと自分の名さえ忘れてしまう。次いで老いた者、女、兵、牛馬に及んだ。医師は首をひねり、修験者は祟りと言い、古老は水脈を掘り替えた報いだと囁いた。春が近づく頃には七つの村が半ば死に、領境には隣国、斎賀の兵が集まり始めていた。

 冬嗣は眠らなくなった。もともと寡言の人ではあったが、その沈黙はさらに深くなり、瞼の下には夜のような翳が落ちる。鴉羽は密かに諸国の薬師や祈祷師を訪ね、これを解き得る術を求めたが、どれも病を鎮めるには足りなかった。ある夜、冬嗣は鴉羽を城のさらに奥、代々封じられてきた地の底の祠へ連れていった。

 そこには鏡とも水面ともつかぬ黒き盤が据えられていた。周囲には古い呪文が刻まれ、油でも血でもない粘る闇が溜まっていた。火はない。祭壇の縁のみが、見えぬ月に照らされるようにぼんやりと浮かんでいた。

「影縫いの法だ。人の影を抜き、地の脈へ縫いつける。そうすれば境は閉じ、病も呪も押し返せる」

 鴉羽はすぐには意味を解せなかった。影を抜く。ひとの影を。冬嗣は鴉羽の沈黙を承知のうえで続けた。

「命は残る。しかし心の火は薄れるだろう。笑いも、怒りも、涙も、遠くなる。器は在るが、中が空くのだ」


 最初の儀に臨んだのは、城下の染め物屋の娘であった。鴉羽の幼かった時に余りの団子をそっとくれたことのある娘である。娘の足許に落ちた影が黒き布を剥ぐかのごとく祭壇へ吸われた時、鴉羽は生まれて初めて、影というものがただ光の戯れではないと知らされたのだ。儀を終えた後も、娘は確かに息をしていた。だが母に抱かれても泣かず、己の名を呼ばれても、そこにいるのが自分であると気づかぬ瞳をしていた。

 鴉羽はその夜、ほとんど冬嗣に刃を向けかけた。しかし抜けなかった。祭壇を離れた冬嗣は石壁に手をつき、ひどく憔悴した様子だった。いつもまっすぐであった主君の背が、その時ばかりは僅かにしなって見えた。冬嗣は鴉羽の気配に気づいても振り向かず、低く言った。

「領が尽きれば、空になるのは一人や二人では済まぬ。如何に恨みを受けようとも、むごいと罵られようとも、それでも、滅びを待つよりはましだ」

 鴉羽は耐えられなかった。冬嗣が私利ではなく民のために禁を犯していることは分かっていた。だからこそ、なおさら苦しかった。私欲のための悪ならば迷いなく斬れたであろう。だが冬嗣のそれは、あまりにも正しさに近い闇であった。正しき者が一歩を誤れば、止める術がないのだ。儀を行わぬという決断もまた、あらゆる者を見捨てる悪となる。

 鴉羽はようやく声を出した。

「ほかの道を探しまする」

「鴉羽。そなただけは、我が背を去るな」

 冬嗣はもう戻れぬ。主君自身、そう悟っている言葉であった。戻れぬ人は愛しい者をも己の闇へ引き込む。鴉羽は主君その人をではなく、冬嗣の歩みの果てにあるものを恐れた。


 鴉羽は、密かに外へ出た。斎賀との境にある、古き祓いの術を継ぐ遊行の僧たちに接触したのである。彼らは影縫いを断つ秘印を知るといった。秘印を授ける代わりに、久世の城の北谷へ抜ける隠し道を教えよ、と求めた。兵を入れるためではない、祠へ辿るためだ、と。鴉羽は確かに彼らを怪しんだ。それでも主君を刺すことも、民を見捨てることもできぬ者に残された、最後の願いとして、その秘印を求めざるを得なかった。

 雪解けの宵、鴉羽は北の抜け道を開く。そこへきたのは遊行の僧たちだけではなかった。谷霧に紛れて斎賀の兵がなだれ込み、城下に火の手が上がった。人の叫びは春の水より速く駆け、屋根は燃え盛り、逃げ惑う者は石垣の影に折り重なった。鴉羽はその瞬間に悟った。欺かれたのだと。――否、欺かれていることを心のどこかで知りながら、自らそこへ陥ったのだと。

 鴉羽は刃を振るい、敵も、己の迷いも、もはや区別なく斬った。祠の口では血に濡れた秘印が踏み荒らされ、闇が裂け目から噴き出していた。その向こうに冬嗣が立っていた。肩より胸へ深手を負いながら、なお一本の槍のようにまっすぐであった。足元には祭壇から溢れた黒きものが兵どもの影を絡め取り、石へ縫いつけていた。影縫いの法は、鴉羽が止めたかったはずのその術は、鴉羽の手によってかえって完成へ近づけられてしまったのである。


 冬嗣は鴉羽を見た。怒声はなかった。抜き身の剣も向けなかった。ただ、あまりに静かな声で問う。

「なぜだ、鴉羽」

 言い訳はいくつもあった。病に蝕まれた子らの顔。空ろになった娘の瞳。主君が戻れぬところまできてしまった恐れ。

 けれど口より出たのは、みじめな真実のみであった。

「あなたを、止めたかった」

 冬嗣の睫毛が、かすかに震えた。それから彼は言った。

「ならば私の胸を刺せばよかった。そなたは久世の民を背から斬ったのだ。私の民を」

 やがて斎賀の兵は退いた。冬嗣が解き放った影縫いの法が谷を閉ざし、敵を呑み込んだからである。領地はすんでのところで救われた。しかしその代はあまりに重かった。城下は焼け、民はほとんど死に、冬嗣の内なる何かもまた永く損なわれることとなった。

 斎賀を招き入れた鴉羽はその場で殺されず、地下獄へ落とされる旨が言い渡された。


 今、その地下獄の最奥で、鴉羽は独り坐している。ここには一切の光がない。久世に伝わる古き呪があった。裏切り者の影は、悔恨を灯として形を得るという。人の背に従う間は黙しているものが、背かれた途端、牙と手を持つという。

 鴉羽は足許に異変を感じた。石床の冷えが一箇所に集まり、濡れた布をゆるゆると引き起こすような気配が立つ。闇のうちに、さらに濃き闇が起き上がっていた。

 それは人の形をしていた。肩の傾き、首の細さ、右足をやや引きずる幼い頃からの癖まで、影は鴉羽そのものであった。ただし輪郭をなぞるばかりで顔がない。目鼻と口の区別もなく、あるべきところが薄ら窪んでいるのみである。光もないのに、影だけが在る。あり得ぬはずのものが、しかし疑いようもなくそこに立っていた。

 ――お前は、ずっと背にいたのだな。

 鴉羽は心のうちでそう呟いた。影が近づいてくる。鴉羽は後退ったが、背はすぐ石壁に触れた。逃げ場はない。影の腕がゆるやかに持ち上がる。墨を流したように細い指が、鴉羽の喉を探った。指が触れた時、それは冷たくはなかった。長く胸底に澱み、誰にも告げぬまま腐りかけた秘密の温度であった。憎悪も殺意も感じられない。

「待ってくれ」

 掠れた声が出た。誰に向けたものか、自分でも分からなかった。冬嗣にか、死んだ久世の民にか。あの染め物屋の娘にか。あるいは、かつて雪の朝に名を与えられた幼き己にか。


 影の指が鴉羽の喉に絡みつき、締まった。喉の骨が軋み、息が途切れる。鴉羽は影の腕を掴んだ。掴めてしまうことが恐ろしかった。骨も肉もないはずのものが、確かな質量をもって己の首を絞めている。

 視界が白く弾ける最中、鴉羽は過ぎ去りし日々の断片が舞い落ちてくるのを見た。墨を磨る冬嗣の指先。雪の庭に立つ主君の背。「我が影となれ」と告げられた夜。政務に疲れた横顔。血に濡れてなお、まっすぐであった戦場の姿。

 鴉羽はようやく知った。自分が主君を止めたかったのは真であった。だが同じほどに、主君に憎まれたくなかったのだ。正面から刃を向けて抗い、主君の眼に己を映すだけの覚悟がなかった。ゆえに胸ではなく背を売った。民のためでも、正義のためでもない。最後には、自ら傷つくことから逃げたのだった。


 影の指が、さらに深く喉へ食いこんだ。鴉羽の膝が折れる。耳の奥で遠い雪の降る音がした。

 あの朝、土蔵の下から見出された小さな獣は、若武者に名を与えられた時に確かに救われたのだ。冬嗣は主君である前に、鴉羽にこの世の輪郭を与えた人であった。

 その人の背を、自分は売った。道理でも城でもない。自らが最も大切にしていたものを、裏切ったのだ。

 首の奥で鈍い音が鳴った。手から力が抜け、視界の縁より闇が満ちてくる。最期に鴉羽が見たのは、己を絞める影のない顔であった。顔がないのに、そこには自分のすべてがあった。やがて何も聞こえなくなった。


 地下獄に番兵はいない。誰も見届けにはこない。裏切りの報いには見物人など要らぬのである。鴉羽の影はしばらくそのまま、自身の首を絞めた姿で立ち尽くしていた。やがてゆるゆると指がほどけると、支えを失った鴉羽の骸は石床へ頽れた。頸はあらぬほうへ折れ、半ば開いたままの瞳には何も映ってはいない。

 幾夜を経て、斎賀の手が加わった影縫いの法は、久世の城もろとも辺り一帯を飲み込んだという。命の絶えた久世の地で、実体を得た影がひとり地下獄に佇んでいる。主の死によってついに輪郭を与えられた、もう一人の忍びであった。

 顔なきそれは地上がどのように変わってもその場を動かず、立ち去ることもなく、ただ黙して足元の死骸を見下ろし続けている。光源はどこにもない。影だけが密かにそこに在る。闇より生まれたものが、闇の底で伏せた自分の背を見下ろしている。裏切りとはついに他人へ向かう刃ではなく、己が己の背に植えつけて育てたものだと、無言のうちに告げるかのように。

 地下獄の湿った石は何も語らず、見る者もない水滴が絶えず落ち続けた。あわいに立つ影のみが、永い夜の番人のようにひとり、鴉羽の亡骸を見守っていた。


 世界が一つ、静かになった。


                         ――16th Umbraris.

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