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十二の静寂  作者: Ono


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10/13

天の月:女神

 都では灰色の冬が七年続いたと言われている。無論、本当に七年ものあいだ雪が絶えなかったわけではない。戦が続き、鐘楼が焼け、河は死者で堰き止められ、市場では黒ずんだ麦と祈りの値が日ごとに吊り上がったために、人々がもはや春と夏の存在を思い出せなくなっていただけのことであった。

 花が咲いてもそれは灰のうえに咲く花であり、陽が差しても、それは煙に薄められた病んだ光に過ぎなかった。季節は巡っていたはずなのに、都だけは長い長い冬の底へ沈んでいた。


 その都の南端、かつて皮革工房や鋳掛屋の並んでいた古い路地にはアルトスという彫刻家の工房があった。王侯の墓碑も大聖堂の祭壇も、彼の手にかかれば冷えた石が人肌のような柔らかさを帯びると人は言う。彼は若い頃から名のある職人で、石に触れるだけで内部に潜むその形の息づかいを聞き分ける男だと評判だった。

 だが、彼を真に彫刻家たらしめていたのは技だけではなかった。アルトスは光を愛する男だった。


 窓辺の水差しの縁に留まる一筋の朝の光、食卓のパンに落ちるナイフの影、妻の頬に散る産毛の淡い輝き、眠る娘の睫毛の先に宿る微かな湿り。そうした儚いものの形を石へ移し取ることに、彼はほとんど祈りのような執着を抱いていた。

 悠久の石もまた不滅ではない。いつか砕けて風化し、土へ還る。だが人の肉よりは長く残る。ならば消えてしまうものの最も美しい瞬間を石の中へ閉じ込めることこそ、自分に許された唯一の信仰なのだと、彼は若い頃から信じていた。

 妻の名はカリスといった。背の高い女で、笑う時にいつも少しだけ肩を竦める癖があった。市場で肉や魚を値切るのは下手だったが、どんな乏しい台所からでも温かな夕餉を作ることができた。アルトスが思索に耽っている時には無理に話しかけたりせず、ただ近くで針を動かし、彼が言葉を取り戻すまで待っていられる女だった。

 娘はミルラといった。七つになったばかりで、父の工房へ忍びこんでは床に積もる石粉を「おとうさんの雪」と呼んで遊んだ。小さな足跡を工房のあちこちに残し、削り屑の中から面白い形のものを拾っては、これが鳥のくちばし、これは王さまのかんむり、これはドラゴンの爪だと言い張る子だった。カリスは娘が工房を散らかすたびに苦笑したが、アルトスは叱れなかった。ミルラが石に触れる指はあまりに真剣で、まるで父と同じものを見ているようだった。


 夜になると、ミルラは父の膝によじ登って古い話をせがんだ。新しい教義が都の隅々まで力を及ぼし、かつて祀られていた古い神々の名は迷信として退けられていたが、アルトスの母は彼が幼い頃、眠る前によくひとりの女神の話をして聞かせてくれた。

 喪に伏す者を抱く白き女神。死者の名を忘れぬ神。涙を流しながら、それでも失われた者を腕に迎え入れる慈悲の女神。

「女神さまなのに、泣くの?」

「泣くとも。だが、自分のためには泣かない。彼女は失った者の代わりに泣くのだそうだ」

「じゃあ、かなしい人がいっぱいだと、女神さまはずっと泣いてるの」

「ああ……そういうことになるな」

 ミルラはしばらく考え、やがて父の胸に頬をつけた。

「おとうさん、その女神さまをほって。うちに置いてあげよう。そしたら、かなしい人がきてもひとりじゃないよ。ミルラがいっしょに泣いてあげるの」


 隣で針仕事をしていたカリスが手を止めて笑った。

「ミルラったら。ずいぶん大きな願いを言うのね」

「だっておとうさんなら彫れるもの。いちばんきれいな女神さま!」

 アルトスは娘の髪をそっと撫でながら、いつか、と言った。今受けている大きな仕事が終わったら、家のための小さな女神像を彫ろう。暖炉棚に置けるほどの、ミルラの手のひらに載るほどの白い女神を。冬が終わるまでには、と娘と指切りをした。

 ミルラはその約束を宝物のように何度も確かめた。冬が終わるまでに。春になる前に。絶対だよ、忘れないでね、と。

 娘と交わした約束を、アルトスは決して忘れなかった。


 その頃、都はすでに飢えと戦に深く裂かれていた。北境で始まった戦が長引き、公爵は勝利を内外へ誇示するために新しい凱旋像の制作を命じた。工匠に選ばれたのがアルトスだった。断れば国の庇護を失う。受ければ家族を養える。彼は迷い、そして引き受けた。石材も助手も与えられる大仕事だったが、期限は過酷だった。昼を削り、夜を継ぎ足し、ほとんど家に帰れぬ日が続いていた。

 カリスは夫が帰らなくとも不満を言わなかった。ただ帰りの遅い夜には灯を消さずに待ち、冷めたスープを温めなおし、疲れ果てて椅子に座る夫の肩を優しく揉んだ。

「おとうさん、女神さまは」

 ある晩、帰宅した父の気配に目を覚ましたミルラが、眠たげな声で言った。

「ちゃんと春までにきてくれるよね」

「ああ、くるとも。この仕事が終わればすぐだよ」

 アルトスは答えながら、自分の声が少し乾いているのを感じた。

「すぐって、ほんとのすぐ?」

「ほんとのすぐだ」

 ミルラはそれで安心したように眠った。カリスは夫の顔を困ったように見ていた。彼が自分に嘘をつく時の目を、妻はよく知っていた。


「無理をなさっているわ。ひどい顔色よ」

「期限が近いんだ。そう長くは続かないさ」

「この仕事が終わっても、都が落ち着くとは思えないのです。食糧も日に日に減って……今日、市場で兵にぶつかられた人が、そのまま袋を奪われていましたわ」

 アルトスは黙り込む。広場では反乱の噂が絶えず、城門には日ごと夜ごと新しい誰かが吊るされていた。勝利像とは名ばかりで、公爵がほしいのは都の民を黙らせるための石の威嚇に過ぎないのだった。

 それでも、夫が何のために仕事を引き受けたのか、カリスはよく分かっているようだった。

「あなた、私たちがいること、忘れないでいらしてね。一人だとは思わないで」

「ああ……」

 その時にカリスが見せた微笑みを、アルトスはのちに何度も思い返すことになる。あれは赦しではなく、共に重荷を担ぐ者の覚悟だった。


 冬が深まるにつれ、都は目に見えて痩せていった。教会の施しには長い列ができ、凍えた子らが物乞いをし、郊外の村から流れてきた難民が城壁の外で野垂れ死ぬ。ミルラはある日、家からパンかごを抱えて持ち出し、路地の隅で蹲っていた見知らぬ少年に半分を渡してしまった。カリスは驚いたが、叱らなかった。アルトスはその話を聞いて胸が軋んだ。自分は勝者を讃える像を彫っているのに、自分の娘は勝利の欠片も持たぬ者にパンを分けている。石より脆い何かが自分の中でひび割れるのを感じた。

「おとうさん、これ見て」

 ミルラが抱えてきた木箱には、白い石片がひとつ入っていた。剣の切っ先とも翼の先端ともつかぬ、滑らかな石の欠片だった。

「いちばでみつけたの。女神さまのかけらかもしれないっておじさんが言ってた」

「こんなものをどうやって買った」

「いとまきどりと、こうかんしてもらったの」

 糸巻き鳥というのはミルラの五つの誕生日にアルトスが作ってやった木の玩具だった。翼に糸を巻いて放すとぱたぱたと羽ばたく小鳥で、ミルラは寝る時にはいつもそれを抱いていた。大切なものを差し出すほどに、ミルラは真剣だった。本気で家に女神を迎えようとしていたのだ。


「おとうさん、ごめんなさい……おとうさんのいとまきどり……」

「いいんだ、ミルラ。あれはお前のものなのだから」

「あのね、ミルラ、これがあれば、おとうさんが女神さまのおかお、わかるかなっておもったの」

 娘はアルトスの手のひらに石片を乗せた。ひどく冷たかった。小さいくせに、奇妙に重い石だった。

「……分かったよ。お父さんが預かっておこう」

 父の言葉にミルラはほっとして笑った。その笑顔があまりに明るく、アルトスは胸の奥に鈍い痛みを覚えた。約束を待つ子供の笑顔ほど容赦ないものはない。


 それから間もなくのこと、カリスが熱を出した。最初はただの風邪に見えた。だが乾いた咳が止まらず、夜になると胸を押さえて苦しそうに息を荒げた。都では冬ごとに流行る肺の病がある。薬草は値上がりし続け、まともな医師は貴族街へしか呼ばれない。アルトスは工房で与えられた前金の一部を薬に変えたが、効き目は芳しくなかった。

「あなた、ちゃんと休んでらして。家のことは私がやりますから」

 寝台の上に横たわったまま、まだそんなことを言う。アルトスは時間を捻出して夜が更けても家に帰り、カリスが起き上がらぬよう翌日の食事を仕度し、ミルラを起こさぬよう寝顔を一瞥し、夜が明ける前に工房へ戻るようになった。

 翌日は公爵の立会いがある。休めば罰金では済まぬかもしれない。働かなければ、薬代が出ない。アルトスは躊躇った末に家を出た。行きがけに振り返ると、カリスは寝台で優しく微笑んでいた。

 幸い、カリスの熱は数日で落ち着き、アルトスは胸を撫で下ろした。もう大丈夫だと思った。その安堵こそが、神々が人に残酷を与える前の短い慈悲だったのかもしれない。人は破滅の前日には自分が破滅へ向かっているとは分からない。


 冬の終わりを告げるはずの夕刻、南地区で暴動が起きた。食糧庫の隠匿が露見したという噂が広まり、飢えた民が門を破ろうとして兵がこれを押し返したのだ。火油が撒かれ、石が飛び、悲鳴が重なり、不吉な風が吹きつけた。アルトスは大聖堂前庭で勝利像の最後の磨きをしていた。像の顔は若い将軍を模し、踏み伏せた敵兵の上に堂々たる姿で立っていた。白い石は夕陽を受けて赤く染まっていた。

 誰かが駆け込んできたのはその時だった。

 ――南の路地が燃えている。風向きが悪い。

 アルトスは(のみ)も槌も投げ捨てて駆け出した。走りながら、自分は何を彫っていたのだろうと思った。勝利。一体、誰の。何に対するものだったのか。

 路地へさしかかるころには、もう家々の輪郭は炎の中に揺れていた。屋根裏の梁が爆ぜ、油を含んだ煙が低く垂れ込める。人々は必死で水桶を運び、悲鳴と祈りと罵倒、誰かの名を呼ぶ声が交じり合っていた。アルトスはそのすべてを掻き分けて家の戸口へ走る。扉は半ば崩れ、内側から火の舌が漏れていた。


「カリス! ミルラ!!」

 奥で何かが倒れる音がした。彼は躊躇うことなく飛びこんだ。熱の塊が生き物のように襲ってきた。肺へ流れ込んだ煙が喉を焼き、目に涙があふれた。寝台のある部屋へ足を向けた時、頭上で梁が崩れ、石灰と火の粉が滝のように降った。灼けた石灰が顔に貼りつく。アルトスは絶叫した。叫んだ瞬間に煙を吸い、息ができずに膝をつく。炎の色が白く弾け、次の瞬間にはもう何も見えなくなっていた。

 灼熱の闇の中で彼は這った。昨夜触れなかった感触を探して手が彷徨う。燃える床板、割れた陶器、焦げた布の端切れ、そして髪のようなものに触れた気がした。だがそれが誰のものか、もう確かめることはできなかった。

 外から誰かがアルトスを引きずり出し、彼は暴れて戻ろうとした。妻と娘がまだ中にいる、と叫んだ。その声は自分でも聞きとれぬほど潰れていた。何本もの腕が彼を押さえ、そして屋根が落ちる音がした。

 その音を、アルトスは生涯忘れなかった。家という形をしていたものが、家でなくなる音だった。


 あれから何日が過ぎたのか、アルトスには分からなかった。目を開けても黒しかなく、日を数えることができない。最初は夜なのだと思った。だが何度瞬きをしても朝はこなかった。医者代わりの修道士が静かな声で言った。視力はもう戻らない、と。

 カリスとミルラの遺骸は崩れた梁の下から見つかったという。見れなくて幸いだったのだと顔見知りの老婆が言った。アルトスの手に残されたのは、炭化した家の欠片、ひしゃげた水差し、カリスの指輪、そして寝床の下から出てきたという木箱だけだった。箱の中にはあの白い石片がまだ入っていた。


 葬送は合同で簡素に済まされた。都には死者が多すぎて、ひとりひとりを丁寧に悼む余裕などもうなかった。アルトスの仕事は失われた。勝利像を仕上げたことで公爵から報酬が出たが、カリスの薬になるはずだったそれはアルトスの目の治療に消えていった。盲目の彫刻家に新しい注文はこない。かつて彼を讃えた者たちも、通りで会えば気まずそうに顔を逸らして過ぎてゆく。

 家族を失い、視力を失い、仕事を失った。それでもなお、命だけが残った。そのことが、彼には耐えがたかった。なぜ自分だけが残ったのか。

 夜ごと彼は工房の夢を見た。石粉のなかで遊ぶミルラ、針を持つカリスの指、暖炉の火。夢の中ではそれらはまだ鮮やかな色を持ち、手を伸ばせば触れられる距離にあるのに、目覚めるとどこまでも空虚な黒だけがあった。

 何も見えない。その闇には、世界がもう二度とこちらへ顔を向けないという感覚があった。


 春になり損ねた雨の夜、旧市壁の外れの崩れた修道院から、巨大な白い大理石が掘り出されたという話を聞いた。埋もれていた古い祭室の残骸だという者もいたし、禁じられた異教の神殿の柱石だという者もいた。アルトスは残っていた工具と信用のすべてを差し出してその石を手に入れた。

 手のひらでその石に触れた瞬間、彼は知ったのだ。石の中に、まだ彫られていない何かがいる。それは勝利でも栄光でもない。もっと静かで、もっと深く、そして失われたものにだけ似合う形だった。

 それは、ミルラの石にひどく似た手触りだった。

 彼は北門近くの廃工房へ移った。そこは昔、貴人用の棺や聖像の飾りを作っていた場所で、窓は煤に汚れて不透明になり、井戸は枯れてただの穴となり、天井からは錆びた鎖が垂れていた。そこに白い石を運び込ませて扉を閉ざした日から、アルトスはほとんど外へ出なくなった。


 盲いた彼の彫り方は以前とまるで違った。光は失われたが、代わりに指先が目になった。指の腹でわずかな凹凸を読み、頬を寄せて石の冷えを聞き、鑿の返す響きで内部の密度を知った。朝から夜まで、そして夜の向こう側まで、工房には打音が絶えなかった。乾ききって空洞を叩く音。

 最初の頃、パンを届ける親切な老婆がいた。だが日が経つと彼女は敷居から先へ入らなくなった。工房の空気が悪いと言い訳のように視線を逸らした。石粉のせいではない。もっと古く、もっと湿った、祈りと腐臭のあわいのような気配が満ちているのだと。

 実際、工房には次第に狂気が満ちていった。大理石が輪郭を持つごとに、夜更けに枯れたはずの井戸から水音がした。風もないのに鎖が鳴り、床に散った石粉のうえへ小さな足跡に似た乱れが現れた。壁際に立てた(たがね)が誰も触れていないのに一本ずつ倒れた。どこからともなく腐ったような百合の香りが流れこみ、時折、工房の隅で子守歌に似た低い旋律が聞こえた。

 アルトスは恐れなかった。都の悲嘆が、忘れられた祈りが、名もなく埋められた者たちの沈黙が、この白い石のまわりへ少しずつ集まってきているのだと感じた。ならば自分はそれを抱き留める形を作らねばならない。

 妻のために。娘のために。そして名を持たぬすべての死者のために。


 像は慈悲の女神であると同時に、失われた者たちの総和となっていった。肩の傾きにはカリスが眠る前に見せた疲れがあり、指先の細さにはミルラの朝の体温があった。胸のくぼみには誰かを抱くために自らを空ける者の静けさがあり、俯きがちな顔には、悲しみを知りながら悲しみに屈しないものの気高さが宿った。

 アルトスはもはや一体の像を彫っているのではなかった。この都に満ちた喪失そのものへ、かろうじて抱擁と呼べる輪郭を与えていた。

 彼は像の足元に膝をつき、囁いた。

「お前は私の妻でなくていい。娘でなくていい。神でなくていい。ただ取り落としたものすべてを、ひとつもこぼさず受けとめる器であれ。そうでなければ、私は何のために残された」

 彼の手のひらの下で大理石は生き物のように冷たく、微かに湿っていた。


 月が痩せてまた満ちる頃、工房の噂が都に広がった。盲目の彫刻家はひとり石に話しかけ、眼窩の窪みに石粉を擦り込み、夜には見えぬ娘と踊っているのだと。どれも半分は嘘で、半分は真だった。彼は確かに石と話したし、工房の奥で時折、裸足が粉を踏むような気配を聞いた。だがそれを幻と片づけるには、悲しみはあまりに重かった。幻であれ何であれ、ミルラの気配が一瞬でもそこにあるなら、彼は耳を澄まさずにいられなかった。

 ただひとつだけ、どうしても彫れない部分が残った。女神の唇だった。頬も瞼も髪のひだも、抱くためにひらかれた腕も、彼は仕事の染み込んだ手で驚くほど正確に成した。だが唇だけ、アルトスの手は幾度となく止まった。

 慈悲と残酷は口許でよく似る。慰めと別れもまたそこでひとつになる。ミルラが眠る前に父へ落とした接吻。カリスが最後に何かを叫んだはずの唇。焼け落ちる家の中で言葉にならぬまま失われた声。そうしたものが一打ごとに甦り、鑿はいつも躊躇った。


 やがて彼は悟った。自分は未だ、最後のものを渡していないのだと。

 石は石だけでは神になれない。祈りは言葉だけでは届かない。失われた者を抱く器を作るなら、そこへ注ぐべきは、失った側の最後の残りでなければならない。名も、家も、光も、家族も、すでに灰の下へ埋もれた。ただひとつ命だけが不自然に、罰のように残っていた。


 外では季節外れの雪が降っていた。音もなく世界から輪郭を奪う雪だった。アルトスは女神の像に寄り添い、肩に手を置き、頬の線を指でなぞった。まるで見えぬ恋人の顔を覚えなおすように、あるいは失った娘の額へ最後に触れる父のように。

「私はお前を見えなくていい。見えたところで元には戻らない。だがもし、お前が目を開くなら、どうかこの都の死者たちを見てくれ。カリスを、ミルラを、名前の残らなかった者たちを。私はそれだけでいい」

 彼は腰の革帯から、細く研いだ彫刻刀を抜いた。本来なら最も繊細な稜線を立てるための刃だった。まず女神の口づけるべき位置を確かめるように、彼は唇の輪郭をそっとなぞった。

「冬が終わるまでに、と約束した」

 アルトスは柔らかく微笑んだ。盲目になってから初めて浮かべる、痛みのない笑みだった。

「遅くなってすまない、ミルラ」

 そして完成した女神に口づけた。父が娘へ、夫が妻へ、職人が己の最後の仕事へ、罪ある者が赦しへ届かぬまま差し出す、すべてを含んだ口づけだった。彼は長く唇を重ね、逆手にした彫刻刀を自らの喉の下へ深く押し込んだ。骨に触れる鈍い感触があり、熱いものが込み上げた。

 噴き上がった血は口腔を満たし、呼吸とともに唇から溢れて白い女神の口許を伝った。鮮血は雪へ落ちる紅の花のように、女神の唇を鮮やかに染めた。


 翌朝、パンを届けにきた老婆は返事のない扉を押した。扉は内側から何か重いものがもたれかかっているように軋んだが、ようやく開いた。彼女はその光景に悲鳴をあげなかった。あまりに静謐で美しく、悲鳴など不似合いだったからだ。

 工房の中央で、盲目の彫刻家は自ら作り上げた女神像に抱かれたまま、自らもまた大理石へと転じていた。女神のひらいた腕の中、ようやく家へ帰り着いた者のように身を預けていた。喉から胸へ流れたはずの血も、衣の襞も、髪の乱れも、すべて静かな石に変わっていた。

 そして女神は、純白だった。足先から額まで一点の穢れもなく、ただ唇だけが鮮やかな赤に染まっていた。絵具ではなく、花汁でもなく、命そのものの赤だった。女神の瞳からは、とめどなく涙が流れていた。

 涙は大理石の頬をつたい、アルトスの石となった髪へ落ち、床の石粉のうえに小さな暗い点をいくつも作った。最初にそれを見た老婆は、悼んでいるのだと呟いた。次にきた者は奇跡だと言い、次の者は呪いだと言った。新しい教義の司祭は像を砕けと命じたが、槌を振り上げた若い兵は像の前で膝をつき、幼い頃に死んだ母の名を呼んで泣き崩れたので、誰も二度と手を出せなかった。


 工房は封じられた。けれど春の雪解けの頃、扉の隙間から百合の匂いが流れ、耳を澄ませば、遠い場所で石を打つ音がするのだと言われた。都の者たちはひそかにそこを訪れ、愛する者の名を胸のなかで唱える。誰も大きな声では祈らなかった。ただ失ったものを失ったまま抱いて立つために、白い女神と、その腕の中で石となった彫刻家を思い出した。

 冬は結局、その年に終わったという者もいる。だが本当のことを知る者はいない。ひとつ確かなのは、すべてを失った男にとって最後に残された救いは、世界を取り戻すことではなかったのだ。失われたものに形を与え、その重さを自らの命ひとつで受け渡すこと。それだけが彼に許された最後の創造だった。

 それだけが、約束を守れなかった父であり夫である彼に、なお差し出し得る唯一の真実だった。

 白い女神は今も唇にだけ鮮やかな赤を残して涙を流す。失った者の名をひとつも忘れぬために。そしてその名を忘れまいとして石になった一人の男を、永遠に抱き続けるために。


 世界が一つ、静かになった。


                         ――18th Caelaris.

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