第10話 交差する視線 ― 予期せぬ接近
白百合女学院の午後の中庭は、柔らかな風に白とピンクの花弁が舞う、静かな場所だった。
紡は教科書を抱えて、授業の合間の短い休憩時間に中庭のベンチを目指していた。
小柄な体が少し急ぎ足で歩いていると、角を曲がったところで、突然、優美な影と出くわした。
黒髪ロングが風に軽く揺れ、紫銀の瞳が静かにこちらを捉える。白百合 桜良だった。
「あ……」
紡が足を止めた瞬間、桜良の柔らかな声が響いた。
「紡さん、お元気ですか」
優等生らしい穏やかで丁寧な口調。桜良は軽く微笑みながら、紡の前に立った。距離はまだ一歩分ほど。だが、二人の間に、昨日の温室での視線が蘇るような、微かな緊張が走った。
「は、はい……桜良先輩。お元気……ですか?」
紡は慌てて頭を下げ、教科書を胸に抱きしめた。琥珀の瞳が少し泳ぐ。桜良はそんな彼女の様子を優しく見つめ、静かに言葉を続けた。
「先日、ベンチでお話ししたとき以来ですね。……お母様のご様子は、いかがですか?」
その問いかけに、紡の表情がわずかに曇った。
「ありがとうございます……少し、変わりはないんですけど……毎日看病してるので、ちょっと疲れちゃって。でも、学園に来ると元気になれるんですよ」
桜良の紫銀の瞳に、痛みの色が浮かんだ。守り人として世界の重圧を背負う自分とは違う、純粋に家族を思う献身的な優しさ。それが、彼女の胸を静かに締めつけた。
「それは……大変ですね。紡さんほどの優しい方が、そんなに頑張っているのに……」
自然と、二人は並んで歩き始めた。中庭の小道をゆっくりと。
会話が途切れた瞬間、風が二人の制服の袖を軽く揺らし、肩がふと触れ合った。
その刹那——
淡い白と桜色の光の粒子が、二人の周囲で静かに舞い上がった。甘い百合の香りが、ほのかに広がる。芽吹きの再発動。まだ軽いものだったが強い共鳴を思い出させるほどの、温かな響きがあった。
「っ……」
紡の胸が大きく高鳴った。琥珀の瞳が驚きに見開かれる。桜良も、紫銀の瞳をわずかに細め、息を飲んだ。肩の触れ合った部分から、柔らかな蔓のような光が一瞬だけ絡みつく幻視が浮かんだ。
「す、すみません……先輩」
紡が慌てて体を離そうとすると、桜良も一歩後ずさった。光の粒子はすぐに薄れ、香りも風に溶けていく。だが、二人の心には、はっきりとした動揺が残った。
「いえ……私の方こそ、突然近づきすぎました。申し訳ありません、紡さん」
桜良の声はいつも通り穏やかだったが、指先がわずかに震えていた。彼女はすぐに微笑みを取り戻し、「また、お話しできれば嬉しいです」とだけ言い残して、優雅にその場を去った。
紡は立ち尽くし、胸を押さえた。温かい。まだ、肩の辺りが熱い。
(桜良先輩……どうして、こんなに……)
一方、中庭の少し離れた花壇の陰から、その様子をじっと見つめている人物がいた。
深紅の髪をなびかせ、情熱的な瞳を細めた3年生——薔薇宮ルリカ。
彼女の周囲に、棘のある薔薇の幻影が一瞬だけ浮かび、鋭い光を放った。独占欲の強い適性が、嫉妬の炎を燃やしている。
(……あんな小娘が、さくらの隣に? ふざけないで)
ルリカの唇が、わずかに歪んだ。桜良の横顔を、遠くから貪るように見つめながら、彼女は低く呟いた。
「あなたの相手は……私のはずなのに」
棘のような緊張が、中庭の空気に静かに広がった。二人の運命的な接近を、第三の視線が鋭く刺し貫いていた。




