幕間・まぼろし
赤茶けた大地を、男は走っていた。
地面と同じ赤茶色の岩が点々と盛りがっている他は、枯れたように乾燥した植物の茂みがちらほらとあるばかりの荒涼とした光景が、見渡す限り続いていた。
烈風が乾いた赤い土を宙に浮かせ舞い上げる。
巨大な天幕のごとき青一色の空さえも、ぼんやりと土煙で霞んでいた。
男は、息を切らし汗を飛ばして、全力で走り続けた。
折を見て岩陰に隠れる事も出来ただろうが、それはしなかった。
こんなだだっ広い場所では、隠れた所で一時凌ぎにもならない。
それにもう、追っ手は土煙の中に彼の姿を捉えて、着実に距離を詰めつつあった。
「居たぞ!」「決して逃すな!」「追え! 追え!」「必ず捕まえろ!」そんな、声が、十以上も背後から聞こえてきており、更にみるみる増えていく。
「……グッ!……」
男は、ビュッという風切り音の後に、自分の足に激しい痛みを感じた。
ついに、追っ手の放った矢が、男の体を捉えたのだ。
ふくらはぎに深々と矢が突き刺さり、走る機能を奪われた男は、つんのめるように倒れ込んだ。
ドウッと地面に打ちつけられて転がり、男の被っていた地面と同じ色の赤茶色のフードが捲れる。
その下から現れたのは、思わず目を背けたくなるような醜悪な頭部だった。
男は、頭のほとんどに酷い火傷を負っていた。
しかも、その怪我はまだ真新しく、ただれ崩れた皮膚は、血と膿で滲んでいる。
グルグルに包帯を巻きつけて押さえてはいるものの、その包帯は既にあちこち血だらけだった。
転んだ勢いで巻いていた包帯が一部解け、ほぼ髪の残っていない頭皮が露出して、乾燥した赤い土にまみれた。
耳も鼻も口も、無残に焼けた傷跡に覆われ、もはや人相も分からない状態だったが……
唯一、目の周囲だけは被害を免れたものか、古い刀傷以外綺麗な肌が残っており、両の目もはっきりと見えていた。
男は追っ手の足音が近づいてくるのを聞き、必死に上半身を起こして、ふくらはぎに刺さった矢を抜こうとした。
痛みに震える手でなんとか矢を掴みかけた、その時……
意識が飛んだ。
□
クルクルと、豪華な衣装を着たたくさんの人間が踊っている。
大広間の一角に集った楽団の奏でる音楽に合わせて、それらは、波のように揺らめき、時折、パッと花が開くごとく、色とりどりのドレスの裾が広がった。
そんな、目の前の煌びやかな光景を、壁際に立った少年は、どこかとても遠いものを見る目で見つめていた。
少年は、上質な生地ではあるが、上着もズボンもマントも濃紺一色でまとめられた全く飾り気のない衣服を身にまとっていた。
首の後ろでは、同じく濃紺のリボンで、ようやく結ぶ程に伸びた髪を束ねている。
壁際に、目立たぬよう邪魔にならぬようずっと立っていたが、決して壁にもたれたりはしなかった。
背をしっかりと伸ばし、肩幅に足を開いては、背中で腕を組み、微動だにしない直立不動の姿勢で、もうかれこれ一時間近くそうしていた。
彼の目の前を、ドレスと宝石で身を飾った女性が、真紅のマントをたなびかせる紳士の腕に手を添えて、微笑みをレースの扇で隠しながら通り過ぎていった。
また、同じ年頃らしい貴族の若者達が、大広間の美女達を見渡して値踏みする会話が聞こえてきた。
白髪交じりの貴婦人達が広間の一角に置かれたソファーにたむろして、夫や子供達の愚痴に花をせている姿も見えた。
中年の男が、社交界に出たての自分の娘を連れて、ワインの入ったゴブレットを片手に挨拶に回っている様子もうかがえた。
それら全てが、少年の佇んでいるのと同じ空間で繰り広げられていながら、どんなに手を伸ばしても決して届かない、遥か遠くの出来事のように思われた。
現実感が酷く薄い。
自分がこんな華やかな場所に居る事自体、まるで夢を見ているような感覚だった。
あまりにも自分の存在がこの場に似つかわしくなく感じられ、居心地の悪さを胸の奥に溜め込みながらも、少年は決して動く事はなかった。
この場にこうしてただ立っている事が、自分の責務だと知っていたからだった。
「ねえ。」
フワリと、突然少年の視界が白い花で覆われた。
いや、それは一人の少女だった。
少年よりも年下の、一回りも小柄な少女でありながら、彼女が目の前に現れると、少年の世界は突如陽の光に包まれたかのように眩く輝き出していた。
柔らかな薄布を幾重にも重ねた白いドレスを着た彼女は、まだあどけなさの残る少女だったが、既に一輪の白薔薇のごとき、気高くも清らかな美しさを発していた。
周囲の誰もが少女に目を奪われ、そして、後数年もすれば、彼女が匂い立つような麗しい女性に成長を遂げる事を確信していた。
「一緒に踊りましょうよ!」
少女は、無邪気に微笑んで、ためらう事なく少年の手を取った。
少年は驚いて拒もうとしたが、両手で包むように捉えてくる少女の華奢な手を邪険に振り払う事は、彼にとって禁じられている行為だった。
「どうか、他の方と踊ってきて下さい。私は、この場にただ居るだけで、あなたと踊る事は許されていません。」
「そんな事、何も決められていないわ。大丈夫よ、お父様にもちゃんとお話しして、許可をいただいているもの。」
「し、しかし、やはり私には……」
「毎日ダンスの練習の相手をしてくれていたでしょう? 私、あなたと一緒の時が、一番上手に踊れるの。」
「ねえ、お願い。」
少女の可愛らしい笑顔と共に向けられた願いを、少年には断るすべがなかった。
困惑した表情のまま、かろうじてコクリと小さくうなずいた彼を見て、少女は、パアッと喜びで顔を輝かせた。
「早く行きましょう!」
少女は、少年の手を引いて、シャンデリアの下でクルクルと踊る煌びやかな人々の輪に入っていく。
そんな無邪気にも堂々たる振る舞いに、彼女に気づいた人々が、サーッと波の引くように左右に分かれて頭を下げる。
そんな大広間の中央で、少女は、ドレスの裾を摘んで深々とお辞儀をすると、改めて少年の手を取り、踊り始めた。
「フフフ! とっても楽しいわ!」
少年には、もう、大広間に集ったたくさんの貴族達の姿は何も見えなくなっていた。
ただ一人、目の前の、咲き初めた白薔薇を思わせる、美しくも可憐な少女だけが、彼の世界の全てとなった。
彼女の嬉しそうに微笑む姿を、目に焼きつけるように、ジッと見つめ続けた。
□
「……ハッ!……」
どれぐらい、意識が飛んでいた事だろう。
おそらくそれは、ほんの瞬きの間の出来事だったに違いない。
その一瞬の時間に……
男は、永遠とも言える、幸福な過去のまぼろしを垣間見たのだった。
しかし、すぐに意識は現実に引き戻され、男の目は、赤い土埃の中を走り寄ってくる何人もの兵士の姿を捉えていた。
「……クッ!……」
男は、奥歯を噛み締めて苦痛をこらえては、ふくらはぎに刺さっていた矢を勢い良く引き抜いて、投げ捨てた。
そして、ふらつきつつもなんとか立ち上がり、腰に履いていた剣のつかに手を掛けると、一気に抜き払う。
ワアワアと雄たけびを上げながら、手に手に武器を持って迫り来る兵士達に向かって……
男は、細身の剣を持った片手を前に伸ばし、逆側の片手を後ろに引くように、半身に体を構えた。
「イヤァッ!」
鋭い掛け声と共に、男の剣が、赤茶けた土煙にまみれた空気を切り裂いた。