初夏の森にて #5
「イヴァン、今日の事は気にしなくていい。デルクも勢いで言っただけで、本気で君を辞めさせるつもりなどないさ。もちろん、私もだ。」
「……あ、ありがとうございます! ご領主様!……本当に、私めの不注意でご領主様に怪我を負わせてしまい、申し訳ありませんでした!……」
岩に腰をかけたキースの足元に跪いて、ひたすら平身低頭謝罪の意を示すイヴァンという青年を、キースは改めて、少し目を細めて見つめた。
彼は悪い人間ではないという第一印象だったが……
ガーライル辺境伯として様々な人間に会う機会が多く、また、今まで人間関係で数々の辛酸を舐めてきた経験のあるキースは、ほとんど反射的に、目の前の青年を値踏みしていた。
人物を良く観察し、自分に害をなす人間か、益をもたらす人間か、正確に判断する事が、キースの立場では、自身の、ひいては領土の平穏に繋がるためだった。
「もう、顔を上げてくれ。」
そうキースに言われて、「はい」と小さな声で答え、下げていた頭を恐る恐る上げ、そっとこちらを見たイヴァンの持つ独特な雰囲気に……
キースは一瞬ハッと息が止まるような心地がした。
当初は、誤って矢で射られた混乱から、じっくりと彼を観察する事が出来なかったキースだったが、こうして改めてイヴァンを見て……
彼が、酷く暗い目をしている事に気づいた。
地味な灰色の髪を、ざんばらに短く切っている。
左側の前髪を長くしているのは、目を斜めに横切る形でついた傷跡を隠すためのようだった。
身長は180cm近い長身のキースとさほど変わらないが、身に纏った粗末な衣服のせいで、その痩せぎすな体型が手に取るように分かる。
骨格はしっかりしているものの、とにかく脂肪が薄く、所々骨が浮き出て見える程だった。
皮膚も髪もハリと艶がなく、ひび割れる程に乾き切った荒地を連想させた。
そんな、一種異様な痩身の中に、黒色の形の良い目が静かに収まっていた。
(……まだ年の頃は二十代半ばの若さだというのに、こんなに暗い目をしているのは、痩せこけた体型のせいか?……いや……)
彼の瞳には、光が感じられなかった。
生きる希望や活力、楽しみに湧き立つ気持ち、そういった感情が何も彼の胸の中には存在しない事を映し出しているかのようだった。
全てを諦め、捨て去り、ただただ静かに、いずれ来る自分の死のみを、ジッと見つめている……
そんな目だった。
(……何か、よほど辛い事があったのだろうか? デルクによれば、戦火に巻き込まれて隣国のこんな辺境まで逃げてきたという話だったが。……)
(……いや、それだけではないな。……彼は、おそらく、病を患っている。重い病を。……)
イヴァンの異常な痩せ方と血色の悪さを見れば、彼の体調が良くない事は容易に想像がついた。
しかし、それ以上に、彼のやせ衰えた姿は、キースに、過去の強烈な記憶を呼び起こさせるものだった。
□
キースの父親が亡くなったのは、ほんの五年程前の事だ。
キースの父は、まだ五十代も半ばで、実年齢より若く見える事もあり、病を患う前はいつも若々しく溌剌とした生気に満ちていた人物だった。
それが、ある時、胃が痛いと言い出したかと思うと、薬を飲んでも休養をとっても治らず、やがて、血を吐いて倒れた。
その一件からほとんどベッドに横になって過ごすようになり、坂道を転がり落ちるかのように体調は悪化していった。
激しい痛みに身悶え、何度も血を吐き、吐くたびに血の量は多くなっていく。
ひと月と経たず、父はまるで別人のようにやつれて、息をするのも苦しげな様子で、寝たきりの状態になってしまった。
キースは、父の名代として辺境伯の仕事に奔走するかたわら、出来る限り父の病床に顔を出した。
キースがやって来ると、父は病に冒され変わり果てたその黒ずんだ顔に、いつも酷く嬉しそうな表情を浮かべて彼を近くに呼んだ。
震えながら自分に向かって伸ばされる、もはや皮と骨だけになってしまった父の手を、キースはしっかりと両手で握りしめながら、決して顔には出さず、密かに心の内でのみ悲しみに泣いた。
「……キース……我が息子、我が誇り、我が宝よ……もう、私は長く持たないだろう……」
「何をおっしゃるのですか、父上! 父上はきっとすぐに良くなります! もう少しの辛抱です! どうかしっかりして下さい!」
「……いつかは、こんな時が来る事は分かっていた。ただ、予想していたより、随分と早かったがな。……キースよ。お前がこうして立派に育ってくれた事は、私にとって何よりの喜びだ。お前になら、この家を、この地を、安心して任せる事が出来る。……後を、頼んだぞ。……」
「父上!」
「……最後に、私の忠告を聞いてくれ。……」
「……キースよ、お前は自分の事を顧みない所がある。我が身を犠牲にして、人民のために尽くしがちだ。それだけが、私は心配でならないのだ。……」
「……お前は、確かに、良い領主となるだろう。……しかし、決して、自分自身が幸福になる事を、おろそかにしてはならんぞ。……」
「……お前が幸福である事を、私は何よりも願っている。……愛する我が息子よ。……」
それから、何日も経たない内に、父はこの世を去った。
キースは、悲嘆に暮れたが、新たに負ったガーライル辺境伯としての責務が、彼を悲しみの中で立ち止まらせる事を許してはくれなかった。
キースは父の死の悲しみを一人胸に秘めたまま、多忙な日々に追われ……
やがて、月日が過ぎる内に、その悲しみは、彼の心や血肉の一部になったかのごとく、同化し馴染んでいったのだった。
今も、キースは、父の墓前に立ち、父との思い出を回想するたび、酷く胸が痛んだが……
もはや、それは、キースに絶望と死をもたらす痛みではなく……
これから先も長く続くであろう人生の中でずっと身の内に抱えていくべき痛み、生きていくための痛みとなっていた。
□
イヴァンの異常に痩せこけた姿と、光を失ったかのような双眸は……
キースに、亡くなる間際のやつれた父親の姿を思い起こさせるものだった。
(……ああ……彼は、死に魅入られている。……)
イヴァンには、目に見えない暗く深い闇がまとわりついていた。
死の闇の気配は、彼の姿から漏れ出し、漂い、辺りに濃くたちこめている。
まるで、彼の肉体を、四肢を、決して逃れられない鎖で縛りつけているかのようだった。




