初夏の森にて #4
「キース様、そろそろ帰りましょうぜ。もう山を降りないと、森を抜ける前に辺りが暗くなってきちまいますよ。」
「うむ、そうだな。何も獲れなかったのは残念だが、仕方がないな。」
「どんな腕のいい狩人でも、そういう日はありますって。お屋敷への手土産には、俺の家にあるものから選んでいって下さいよ。」
木々の間からのぞく陽の光が徐々に黄色味を帯び弱くなっていくのを見てとって、デルクが足を止めた。
いくらこの森を隅から隅まで知り尽くしているデルクの案内があるとはいえ、日が落ちて足元が暗くなってしまってから歩き回るのは危険だった。
キースは苦笑いして、提案通り帰りにデルクの家に寄り、森林管理人達の狩りの成果として蓄えられているウサギ肉でも貰っていこうと考えた。
主従二人が、今まで登ってきた山道を、反転して引き返そうとしていた、まさにその時の事だった。
ザザッと草の揺れる音と共に、キースは足にピリッと鋭い痛みが走ったのを感じた。
(……蛇か?……)
とっさにキースもデルクも身構えて、音のしたまだ枯れ色一色の茂みを警戒する。
そこに生き物の姿や気配がないのを確認してから、キースは、痛みを感じた自分の膝下付近に視線を移した。
ズボンが裂けて血が出ていた。
山歩きには、蛇に噛まれる事も含め、尖った枝を踏んだりなどしてケガをしないよう、常に丈の長い革のブーツを履くのだが、今回は、ちょうどそのブーツの途切れた直ぐ上だった。
丈夫なズボンの生地が破れ、露出した肌に一直線に5cm弱の赤い線が浮かび上がってきていた。
幸い、淺く皮が切れただけのようだったが、時間が経つとジワジワと痛みが染み込むように広がってくる。
(……この跡、蛇ではない。……なんだ?……)
デルクも蛇や危険な小動物ではないと察したらしく、音のした藪の中にガサガサと分け入って行ったが、すぐにハッと青ざめた。
「キース様! 伏せて下さい!」
普段は明るい山男といった雰囲気のデルクには似つかわしくない緊迫した鋭い声が響き、キースは反射的に、その場に体を小さくするようにうずくまる。
デルクは、片手に何かを持って藪の中から慌てて飛び出してくると、かがんだキースのそばに立ち、険しい表情でせわしなく辺りを見回し警戒し始めた。
キースは、デルクが藪の中で見つけ、今手にしているものが、一本の矢であるのを知って、ようやく、先程自分が矢で射られたのだと気づいた。
(……何者かが、私の命を狙ったのか?……一体誰が?……)
キースは巨大な富を持つガーライル辺境伯として多くの貴族に羨ましがられる立場にはあったが、彼を暗殺しようとする程誰かから強い恨みを買った記憶はなかった。
表立っても密かにも、彼と敵対する者も居なかった。
警戒態勢でうずくまったまま、グルグルと疑惑で頭を巡らすも、キースは、犯人になり得る人物が全く思い浮かばないままだった。
すると、どこからか、山にこだまして、聞き覚えのない声が聞こえてきた。
「……誰か!……誰か、そこに居るのですか?……」
「おい! 今矢を放ったのは、お前か!? さっさと出てこい!」
「……すみません!……すぐに行きます!……」
キースを庇うように前に仁王立ちになり叫ぶデルクに対し、山の奥から響いてくる声は酷く混乱している様子だった。
声の雰囲気からして、気の弱そうな大人しい若者といった印象だった。
ややあって、ザザザザーッと滑り降りるような勢いで複雑な森の斜面を駆け下ってくる人物の姿が、ようやくキースの目にも捉えられた。
「デ、デルクさん、すみません! 獲物を追っていて、うっかり矢が逸れてしまいました!」
「お前だったのか、イヴァン!」
「日暮が近く、つい焦って射ってしまったのです! まさか、こんな森の奥に人が居るとは思いもよらず……あ! お連れの方は、大丈夫ですか?」
「キース様だ! このシュメルダのご領主様、いや、ガーライル辺境伯様だぞ! このお方にケガを負わせるとは、どう責任を取るつもりだ、バカ野郎が!」
「ご、ご領主様!?」
道でもない斜面を、木々や茂みを巧みに避けて素早く降りてきたのは、二十代半ばの青年だった。
デルクとお互い面識がある事から、森林管理人の一人であると分かる。
そして、キースは全く彼に見覚えがないため、彼が先程デルクが話していた、山中の小屋に住んでいる新しく入った森林管理人だと推察出来た。
「わ、私が、ご領主様に怪我を負わせてしまうとは! な、なんとおわび申し上げていいか!」
「いや、気にしなくていい。イヴァンと言ったか? 誰にでも間違いはある。それに傷とは言っても、ほんのかすり傷だ。」
「キース様はお優しいからこうおっしゃっているがな、俺は許さないぞ、イヴァン! お前は即刻クビだ!」
「デルク、やめないか!」
「本当に、本当に申し訳ありません! この罰はいかようにもお受けします!……と、とにかく、今は手当を急ぎましょう!」
キースにとっては、浅い矢傷を負った事より、主人を傷つけられ気の立っているデルクを落ち着かせる方が余程大変だった。
イヴァンと呼ばれた青年は、そんなデルクの怒りの前で、可哀想な程小さくなり、ひたすら頭を下げて謝り続けていた。
イヴァンは、「失礼します」と断ってから、近くの岩に腰をおろしているキースの足にそっと手を伸ばし、ケガのありかを確認すると、腰に下げていた皮の水筒の口を開けて、水で傷口を洗い流した。
そののち、腰のベルトに通してたポーチから、救急用に携帯していたらしい洗い立ての清潔な包帯を出して、手際良く巻きつけていった。
キースは、浅く皮膚が裂けたのみでもう血も止まろうとしている傷に対して、何もそこまでしなくてもと少々思ったが、その手当には謝罪の意味もあるのだろうとイヴァンの気持ちを汲み、何も言わずに見守っていた。
その時ふと……
(……山に入ってから一度も人の気配を感じなかった筈だが、この青年は、一体いつから、私に矢が届く距離に居たのだ? 私もデルクも、彼の存在に全く気づかなかった。……)
わずかな違和感を覚えたキースだったが……
「もしもキース様に何かあったら、俺がタダじゃおかないからなぁ! おい、分かってんのか、この野郎!」
「す、すみません、すみません!」
「いい加減やめろ、デルク! 私がいいと言っているのだから、もういいのだ!」
まだ怒りが収まらないらしいデルクが、イヴァンの胸ぐらに掴みかかったの見て、意識がそちらに向いてしまい……
それ以上深く考える事はなかった。