どうか、あなたの手で
二人はしばらく走り続け、そのあと湖の近くまでたどり着いた。水面が静かに揺れ、映った月がぐにゃりと曲がる。
「身体を清めたいわ」
湖を見ながらエミリアは呟いた。髪は乱れ、手も足も泥だらけだ。しかしそれ以上に、エミリアはアルブレヒトに触れられたことを気にしていた。あの汚れた手に触れられた身体を一刻も早く清めたかった。
「かしこまりました。俺が見張っておきますので、湖にお入りください」
ジークから貰った上着を脱いで渡すと、彼はそのまま慌てて背を向けた。アルブレヒトによって胸元のリボンが乱暴に解かれており、胸元の肌着とその下の白い肌がほとんど露わになっていたのだ。肌着の隙間へと這うように伸びてきたあの浅黒い手を思い出し、エミリアは吐きそうになった。早く身体を洗わなければ。コルセットを、肌着を、なんとか手探りで脱ぎ地面に落としていく。自分の手で服を脱ぐのは初めてだった。
一糸まとわぬ姿になり、エミリアはそのまま湖に身体をつけた。深さはそこまでなく安心してかがむことができる。月明かりに照らされた肩に水をかけていく。しかしいくら洗い流しても、清められた気がしなかった。兄の首がはねられた瞬間に飛び散った血、自分の肌に触れる浅黒い手——すべてが身体中にこびりついているようで、エミリアは身を震わせた。
「ジーク」
気がつくと、ジークの名を口にしていた。
「私の身体を洗ってほしいの」
え、と背を向けていたジークが声を漏らす。何を言われているのか理解できない、といった様子だった。エミリア自身もどうしてこんなことを口走っているのか分からなかった。
「お願い、あなたの手でこの身体を清めて」
エミリアは声を震わせた。涙が溢れ、次々と湖の上に落ちていく。冷たい風がエミリアの肩を撫でる。しばらく沈黙が続いた。ごめんなさい、忘れて頂戴——そう口にしようとしたとき、その肩にそっと温もりが触れた。
「……お背中だけなら」
エミリアは小さく頷くと、胸を手で隠しながら湖から少し上がり、背中をジークの前に出した。ジークが手で水を掬い、少しずつエミリアの背にかけていく。ときおり触れる手の温もりを感じながらエミリアはゆっくり目を閉じた。身体に、心にこびりついたあらゆる汚れが、ジークの手によって洗い流されていく。冷たい風を感じながら、エミリアは水音に耳を澄ませていた。
「——っ!」
ジークの指が不意にエミリアの背をすっと撫でる形になり、エミリアは反射的に身を震わせた。
「……! 申し訳ございません!」
その声だけでもジークがたいそう慌てているであろうことが伝わってくる。エミリアは小さく息を吐いた。
「謝らないで、私が頼んだことじゃない。もう大丈夫よ。ありがとう」
エミリアが口早にそういうと、ジークは後ろから布と、簡素な白い服をエミリアのそばにおいた。
「小さいですが、こちらでお身体を拭いてください。それと服ですが……ドレスでは目立つので、こちらにお着替えを」
エミリアは頷き、身体を拭くと渡された服に着替えた。いつも着ている服と違い、締め付けがなくゆったりとしている。エミリアは地面に捨て置いたドレスとコルセットを眺めた。
エミリアが着替え終わると、ジークは積み重ねた枝に火打石で作った火種を移していた。しばらくすると炎は大きくなった。エミリアはその炎をじっと見つめていた。
「ジーク、短刀はあるかしら」
「……? ええ」
ジークはそういうと袋から短刀を取り出しエミリアに見せた。エミリアは半ば奪い取るような形でその短刀を手にした。
「エミリア様、危な——」
ジークは目を見開いて、それ以上言葉を続けることができなかった。エミリアはその短刀で、ドレスを切り裂いていたのだ。そして布片となったドレスとコルセットを両手で抱えると、それを炎の中に投げ入れた。
「もうこのドレスを着ることはないから」
エミリアは大きくなり続ける炎をただ見つめていた。あの城はもう、自分の帰る場所ではない。王女エミリアはもういないのだ。炎によってできた自分の影は、ひどく小さく見えた。




