感情の欠落
健太という存在を喪失してから、湊の生活はさらに加速した。
喪失感から逃れるために、彼は次々と「自分を傷つける記憶」をカットし続けた。
仕事でのミス、人間関係の軋轢、不慮の事故による痛み。
アプリ『Re:Edit』のタイムラインは、もはや無機質な成功の羅列となり、人生には平坦な舗装路しか残されていなかった。
その日の午後、湊は業界大手の表彰式で壇上に立っていた。
かつて自分が憧れていた「理想のインフルエンサー」としての地位を確立し、盛大な拍手喝采を浴びている。
フラッシュが焚かれ、多くの人が彼を祝福し、賞賛の声を送る。
しかし、湊の心臓は、驚くほど静かだった。
(嬉しいはずだ。ずっと追い求めていた場所だ。なのに、どうして……)
彼は壇上で、かつての自分なら感極まって涙していたであろうスピーチを、完璧なイントネーションで読み上げた。
会場からはさらなる歓声。
しかし、湊自身には、その声がまるで他人の演説を聞いているかのように響く。
喜びという感情が、まるで遠い異国の言語のように、心の中で翻訳されないまま通り過ぎていく。
帰宅した湊は、自室のベッドに深く沈み込んだ。
何かが決定的に壊れている。
それは、過去の失敗を消しすぎた代償だった。
喜びや感動とは、苦しみや悲しみという「対照的な感情」を通過することでしか味わえないものだったのだ。
深い谷があるからこそ、高い峰が際立つ。
失敗という闇があるからこそ、成功という光が眩しく見える。
湊は、部屋の隅に置かれた観葉植物をぼんやりと眺めた。
かつては枯らしてしまい、その度に「次はもっと上手く育てよう」と苦心して、ようやく芽が出た時の喜びに震えた植物だ。
今は、アプリのおかげで「常に完璧な状態で維持」されている。
彼は葉に触れた。瑞々しい緑。しかし、その手触りからは何の感情も湧き上がってこない。
スマホを開き、自分の写真フォルダを見る。
そこには、完璧な笑顔を浮かべる自分の写真が何千枚も並んでいる。
だが、どの写真を見ても、湊は自分の表情を「貼り付けられた仮面」のように感じた。
「笑えない……泣けない……」
鏡の前で、湊はわざと歪んだ表情を作ってみた。
悲しそうな顔、怒った顔、驚いた顔。
しかし、鏡の中の男は、ただ筋肉を動かしているだけで、その瞳には何の灯火も宿っていない。
感情を動かすための「記憶の回路」が、編集によってすべて遮断されているのだ。
手に入れたのは、何も傷つかない、何一つ失うことのない、ただただ退屈な「無」だった。
その時、スマホが冷たく光り、通知を表示した。
『感情適応:現在の生活に支障があるため、過剰な情動を排除します』
勝手にアプリが動き出した。
過去の記憶がさらに強制的に整理されていく。
楽しかった記憶も、悲しかった記憶も、すべてがただの「データ」として処理されていく。
湊は恐怖に震えようとした。
しかし、恐怖という感情さえも、アプリが「過剰な情動」と判断して消去しようとしているのが分かった。
自分が自分であるための輪郭が、溶けていく。
湊は何も感じられないまま、ただ暗闇の中で呼吸を繰り返す人形へと成り果てようとしていた。
その時、ドアが叩かれた。
結衣だった。
彼女だけが、この空っぽになった湊の心に、わずかな風穴を開ける唯一の存在だった。




