-05-
引っ越しと言えば、本の整理以上に大変なものはないと、僕は信じている。
確実に半分以上は捨てなければならないのだが、どれも文字通り捨てがたくて、断腸の思いで仕分けを進める。
「あ……」
懐かしい、と思いながら一冊の本を開く。
『井口君へ』
このサインを書いてもらってから、かれこれ数年の月日が経った。
あの頃は、このまま周囲に流されるようにして生きていたら、世界でも終わってしまうような焦燥感に追われていた。
現実の僕は無難な卒業論文を書いて卒業して、無難に会社員になって、それでも人生は続いているし、それなりに楽しい日々を過ごしている。
卒業してから一度も先生と連絡は取っていない。ただ、彼が今日も「ここではないどこか」を求めて歩き続けているらしいことは、前より少しだけ刊行ペースの早くなった小説から伝わってくる。
今、僕の薬指には、あの日の先生と同じようにシンプルな指輪がある。
この片割れをはめている愛しい存在を想って、そっと指輪に口付けた。
今度、先生に連絡してみようか。そうしたらまた、黙って酒を酌み交わして、ぽつりぽつりと長かった旅の話をしよう。
今なら、昔よりずっと、彼のことが分かるような気がするから。
それでもきっと、誰より近くに彼の心を感じた、あの頃にはもう二度と戻れはしない。
それで、いい。それで、いいんだ。
ふと、僕を呼ぶ声が耳に届く。
「いま行くよ」
口元に自然と笑みが浮かぶのを感じながら、パタリと本を閉じた。
そっと彼の名前を指先でなぞり、小さく息を吐き出す。
いつか僕達は辿り着けるだろうか。
「痛みも、苦しみもない、世界へ」




