第九話 私の好きなものを置く席
半年後、旧関税会館の二つの入口には、同じ色の灯りがともった。
王国側の市場から来る者も、川向こうの船着き場から来る者も、今夜は身分証を求められない。招かれたのは、橋を造る石工、食器を焼く職人、商人、外交官、荷運び人、学校の教師。四十八人の市民が、中央食堂の長卓へ着く。
会館が開いて初めての市民晩餐である。
私は受付の名簿へ最後の印を入れた。
「共同責任者。厨房から確認です」
若い受付係が手帳を抱えている。
「北側の組合長が連れてきた弟子について、乳酪を避ける理由が未登録です。厨房は乳製品を使わない皿へ替えました。本人への確認は食後にします」
「それでお願いします。理由は、記録してよい範囲も本人に尋ねてください」
受付係は復唱し、厨房へ戻る。
以前の私は、客の顔を見れば事情を答えられた。今も多くは覚えている。けれど私が答える前に、会館の仕組みが動く。
共有の手帳には、許可された情報だけがある。変更は二人で確認し、三か月ごとに本人へ残す内容を問い直す。私が休む日は副責任者が判断し、急ぎでなければ翌日まで待つ。
誰か一人の記憶へ、四十八人の安全を預けない。
それは私を不要にする仕組みではない。私が倒れなくても続く仕事にするための仕組みである。
受付机の下段には、押し花カードの箱が収まっていた。
公爵家から持ち出した古いカードは、本人の同意を得られた分だけ書き直した。小麦商の頁には麦穂、陶工の頁には青い矢車菊。家族の節目や苦手な食材のほか、同席したい相手や、話題にしてよい仕事も記してある。
箱の一番手前には、野薔薇を挟んだ私のカードがある。
氏名、リディア・ヴァルト。
好物、香辛料を控えた洋梨の温菓子。
休む日、毎週水曜日。母の命日は仕事を入れない。
困ったときに頼める人、会館職員全員。
最後の欄は、三か月前の見直しで書き加えた。
初めての水曜日は、小宅の椅子に座ったまま昼まで落ち着かなかった。二度目は市場へ行き、自分のために布を選ぶ。三度目には、エリーゼと川辺を歩いた。今では休みを告げる前に、受付係が翌日の確認事項をまとめてくれる。
母の命日には墓地へ花を持っていった。
マティアスは同行を申し出ず、会館から花代を出そうともしなかった。夕方、小宅の郵便受けに一通の手紙があり、返事は不要と封筒に記されていた。中には、母の話を聞きたくなった日があれば聞かせてほしい、と一行だけある。
私は翌週、母が野薔薇の封蝋を好んだ理由を話した。
それから私たちは、仕事の外でも手紙を交わすようになった。
彼は返事の期限を書かない。私は書きたい日に書く。会館の修繕、亡妻が嫌った南の療養地、母が焼いた固いパン。大切な話も、笑える失敗も、返書が遅れたことで価値を失わない。
「ヴァルト様、開宴のお時間です」
ゲルダ典礼官に呼ばれ、カードの箱を閉じる。
今夜の彼女は王室の監督者ではなく、会館制度の視察役として来ていた。濃紺の礼服には典礼局の章をつけているが、席は石工の親方と陶工の女性の間にある。
「ハイン典礼官。厨房の最終報告は済みました」
「承知しました。それから、開宴前の紹介文を一箇所、直しております」
渡された紙を見ると、セルン市長の構想により開設した、という文が消されていた。
「旧関税会館の改修はセルン伯爵の提案では」
「提案と実現は分けて記録します。今夜の運営制度を設計したのは、ヴァルト様と職員です」
「皆の仕事です」
「ですから、皆の名を読み上げます。共同責任者の名を抜く理由にはなりません」
半年前、彼女は自分の評価を誤りだったと認めた。訂正は一度の謝罪で終わらず、記録と契約へ残り続けている。
私は紹介文を返した。
「お願いします」
開宴の鐘が鳴る。
二つの扉から入った客が、同じ卓を囲む。私は上座に立たず、中央の空いている席へ向かった。右には川向こうの女性船長、左はまだ空席である。
マティアスの名札は、私の手元にあった。
今夜、彼は市長として客を迎え、給仕の動線まで確認している。席次案では私の正面に座る予定だった。私は完成した案を一度閉じてから、左隣だけを空けると決めた。
仕事上の必要ではない。
彼と話しながら、自分の皿を食べたい。それが今夜の私の希望だった。
ゲルダ典礼官が会館職員の名を一人ずつ紹介する。受付係、厨房長、施設管理官、副責任者。最後に私の名が呼ばれた。
「関係する人々が争わず帰れる卓を制度にした功績により、共同責任者リディア・ヴァルトへ、市と王室典礼局から正式な謝意を申し上げます」
四十八人の手が鳴る。
私は自分の席で立ち、礼をした。
拍手の向こうで、マティアスも手をたたいている。彼の功績として受け取らず、私の代わりに謙遜もしない。
食事が始まると、石工と外交官が橋の欄干について話し、教師が子どもにも読める両国語の標識を提案した。陶工は割れにくい食器の焼き方を説明し、荷運び人が冬の路面には木箱の底を変えるべきだと答える。
公爵家の晩餐へ来なかった商人もいる。
彼らが権威を嫌ったからではない。今夜の卓では、自分の仕事を話すために招かれ、同じ市民として名を呼ばれる。その違いを選んで、ここへ来たのだ。
私は船長の話を聞きながら、魚の皿を食べ終えた。
給仕へ指示を出す必要はない。厨房からの報告は副責任者が受け、食堂の戸口で一度だけ頷く。私は次の皿を待ってよい。
甘味の前に、マティアスがようやく席へ来た。
手には自分の名札がない。私が持っていることを知っていても、空席へ先に座らなかった。
「隣に座ってもよろしいですか。」
私は名札を左隣へ置く。
マティアス・セルン。
伯爵でも市長でもなく、今夜、私が隣にいてほしい人の名である。
「ええ。今日は、私があなたを招きました。」
彼が椅子を引き、私と同じ高さに座る。
「光栄です」
「断ることもできました」
「よい席を逃すところでした」
笑った彼の前へも、私と同じ甘味皿が運ばれた。
淡い青の陶器を、丸い保温蓋が覆っている。会館の陶工が作ったもので、内側の溝に温水を入れ、厨房から席へ届くまで熱を守る仕組みだった。
蓋の取っ手には、小さな洋梨の葉が彫られている。
「これは、あなたが注文したのですか」
「器は会館の備品です。葉の意匠は陶工の提案で、献立は厨房長がカードを見て決めました」
彼は自分だけの贈り物にしなかった。
私の好みを知る人は、もう一人ではない。カードへ書くことを私が選び、職員が覚え、陶工が形にし、厨房長が今夜の皿へ置いた。
給仕が保温蓋を持ち上げる。
焼いた洋梨と蜂蜜の香りが広がり、薄い湯気が燭台の光を揺らす。表面には砕いた麦菓子、横には乳酪を使わない冷たい果実のソース。
温かいうちに食べなければならない。
以前なら、客の皿が正しいか見てから匙を取っただろう。今夜も四十八皿が気になる。けれど厨房長は確認を終え、副責任者が食堂にいる。私の役目は、すべてを一人で見張ることではない。
私は最初の一口をすくった。
洋梨は柔らかく、中央まで温かい。蜂蜜の甘さのあとに、香辛料がわずかに残る。
「おいしいですか」
マティアスは、自分の皿へ匙を入れずに尋ねた。
「はい。私の好きな味です」
口にしてから、もう一口を食べる。
誰かに選ばれた好物ではない。私が試し、比べ、また食べたいとカードへ書いた味である。
「あなたも召し上がってください。冷めてしまいます」
「では、遠慮なく」
彼も匙を取る。
甘味を食べ終えるころ、卓の向こうで歌が始まった。荷運び人の古い舟歌へ、隣国の船長が別の節を重ねる。言葉は違っても、最後の音だけが揃う。
マティアスの右手が、卓上で私の近くにある。
差し出された手ではなかった。私の返事を待つ形にも置かれていない。ただ、隣席の人の手としてそこにある。
私は自分から指を伸ばした。
彼の手が驚きで止まり、それから包む力を私に合わせる。強く引かず、離しもしない。
「リディア」
私的な場で呼ぶ許可を出してから、彼はその名を急いで使わなかった。今夜は問いかけるように一度だけ呼ぶ。
「はい、マティアス」
初めて敬称を外した。
契約書は明日も会館の金庫にあり、解約権も私の住まいも変わらない。恋を選んだから、仕事や家まで一つにまとめる必要はない。
今夜の私は、客の名を覚えている。休む日も、頼れる人も、隣に座ってほしい人も知っている。
そして何より、目の前の皿がまだ温かいことを知っていた。
今夜、温かい皿の前にいる私を、私はもう忘れない。




