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第5話:箱の中の墓標(後編)

錆びた鍵によって開けられた、小さな鉄の箱。その限られた空間の底に横たわっていたのは、豪奢な装丁の日記帳などではなかった。


細く、幾重にも折り畳まれた、数枚の薄い紙片だった。枚数は決して多くない。


けれど、その薄い紙は、彼女が誰にも見せない夜にたった一人で流し続けた涙を吸い込み、限界まで水分を含んで、持った瞬間に指先が濡れるほど、じっとりと重く湿りきっていた。


ルキウスは、溢れ出る涙で視界を曇らせながら、その脆くふやけた紙片を、破らないように恐る恐る広げた。


指先から伝わるじっとりとした冷たさは、まるで三日前に死んだ彼女の体温そのもののようで、王子の胸を強く締め付ける。


掠れたインクの文字は、あちこちが彼女の涙で丸く滲んでいた。


しかし、その筆跡には、世界の呪いに抗おうとした彼女の、血を吐くような強い想いが刻まれていた。


ルキウスは、激しく上下する己の呼吸を必死に抑えながら、震える目で、手記の一行目をなぞった。



『○月×日。おかしい。私の口が、私の意志と違う言葉を喋った。今日、中庭で聖女ソレイユ様に声をかけられた。彼女は……微笑みたかっただけなのに。なのに、私の口から飛び出したのは「身の程を知りなさい、泥棒猫。早く私の目の前から消え失せろ」という、……言葉が口から出た瞬間、私の喉の奥は、まるで見えない刃物でガリガリと引っ掻かれたように、引き裂かれそうに痛んだ。……夜、部屋に戻って鏡を見るのが本当に怖い。鏡の中の私は、私自身の意志とは全く関係なく、見たこともないほど邪悪で、醜い笑みを浮かべて固定されている』



「な、んだ……これは……。何が書かれているんだ……!」


ルキウスの頭の中に、鋭い稲妻のような激しい痛みが走った。


確かにあの日の出来事を、ルキウスは覚えている。


中庭の木の陰から、彼はその様子をすべて見ていたのだ。


聖女ソレイユを大声で怒鳴りつけ、泣かせているフェリシアの後ろ姿を見て、ルキウスは激しい嫌悪感を抱いた。


「なんて醜く、傲慢な悪女に成り下がったのだ」


と、彼女を軽蔑した。あの日を境に、ルキウスの中で彼女への拒絶は決定的なものになったのだ。


だが、違った。彼女はその裏で、自分の喉を引き裂きながら、己の肉体が勝手に動く恐怖に怯え、たった一人で泣いていたというのか。


ルキウスの脳裏に、あの日、罵声を浴びせた直後にすれ違った、フェリシアの顔が鮮明に蘇る。


あの時、彼女の口元は不自然に引きつるように強張っていた。


ルキウスはそれを「勝ち誇った悪女の笑み」だと思い込んでいた。


だが、今ならわかる。


あれは、世界の強制力によって無理やり動かされる肉体に抗い、必死に本当の言葉を飲み込もうとしていた、悲痛な抵抗の歪みだったのだ。


手元にある紙片を扱う王子の指が、冷や汗と、紙から染み出す本物の涙の湿り気で滑る。


震えながら次の紙片を開くと、そこには、ルキウス自身の名前が、掠れた文字で何度も、何度も記されていた。



『○月×日。ルキウス様まで、あの狂ったお人形たちの仲間入りをしてしまった。今日の夜会で、私を睨みつけた彼の目は、昔、あの小さな鉄の箱と、錆びたボロボロの鍵を笑顔でくれた、あの優しい男の子の目ではなかった。彼の瞳は完全に虚ろで、まるで何かの目に見えない物語の糸に操られている、中身のない操り人形のようだった。私はルキウス様に嫌われたくなくて、泣きながら彼の服の袖にすがりつき、「私は悪くない、ソレイユ様をいじめてなんていない」と、本当のことを叫びたかった。特別な相手をしてほしいわけじゃない。昔のように、ただ優しく名前を呼んでほしかっただけ。だけど、この世界の呪いは、私が本当の心を見せることを絶対に許さない。私の体は、私の意志に反して、すがりつこうとした手を冷酷に振り払い、ルキウス様を激しく突き飛ばした。そして、私の口は「気安く触るな、無能な王子が」と、高らかに笑声を上げてみせた。違う。違うの。ルキウス様、私はあなたを心から愛している。お願いだから、私をそんな冷たい目で見ないで。私を悪女にしないで』



最後の数行は、何度も流された涙でインクが酷く滲み、文字の輪郭が歪んで掠れていた。


それを今、ルキウス自身の新たな涙がさらに濡らし、文字を完全に溶かしていく。


「フェリシア……っ、フェリシア……! ああああああ!!」


ルキウスの目から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、床を濡らし、手記の紙をさらに深く濡らしていった。


思い出した。


彼女に冷たく突き飛ばされたあの日、激怒したルキウスは「もうお前を愛することはない。不愉快な悪女め」と、彼女の心を粉々に砕くような言葉を冷酷に言い放ったのだ。


その時の彼女は、確かに高飛車に、傲慢に笑っていた。


しかし、その瞳の奥には、今にも壊れそうなほどの、張り裂けんばかりの絶望が、ずっと張り付いていた。


なぜあの時、自分はそのあまりにも明らかな違和感に気づけなかったのか。


いや、気づこうとしなかったのだ。

世界が、自分の脳が、彼女を「悪女」という記号として処理することを強制していたから。


自分自身も、世界の通りに動く、中身のない操り人形(死人)だったからだ。


ルキウスは濡れた紙片を胸に強く押し当て、呼吸を忘れたように号泣した。


しかし、手記はまだ終わらない。

めくった最後の紙片には、彼女がこの狂った世界の「本当の正体」に気づき、一人で絶望を受け入れた、あまりにも残酷な出来事が書き殴られていた。



『○月×日。今日、私は確信した。この世界には、絶対に逆らってはならない『絶対的な運命シナリオ』が存在する。私は最初、この不気味な世界の強制から逃れようと必死だった。悪役令嬢としての行動を拒み、周りの人々に真実を訴えようとした。だけど、私が運命のレールを外れようとするたびに、世界はその歪みを補正しようと、恐ろしい災厄を引き起こす。先週、私が世界に逆らって、ソレイユ様を陥れるための罠(馬車の暴走)を事前に阻止した時のこと。私は運命を捻じ曲げ、街中で暴走するはずだった馬車の前に飛び出し、そこに巻き込まれそうになっていた平民の幼い女の子を助け出した。女の子は無傷だった。私は「運命に勝った」と、神に感謝した。だけど、世界はそれを許さなかった。翌日、私が助けたはずのその女の子は、突如として発生した不自然な石材の崩落事故に巻き込まれた。助からなかった。それどころか、ただの事故とは思えないほど、肉体が原型を留めないほど無残に、引き裂かれるようにして亡くなった。まるで見せしめのように。世界が私に『運命を弄んだ罰だ』と突きつけるように。気が狂いそうだった。私のせいで、あの罪のない子が死んだ。私が余計な『生』へのあがきを見せたから、世界はその辻褄を合わせるために、より凄まじい残酷さでその子の命を奪ったのだ。その時、頭の中に直接、冷たい声が響いた。……悪役令嬢は、断罪され、死なねばならない。――逆らえば、歪みはすべて、お前の大切な者へと向かう。次に歪みの標的になるのが誰か、私には分かっていた。ルキウス様、あなただ。もし私が悪役になることを拒み続ければ、世界はあなたを、あるいは私の亡き母が愛したこの国そのもの(世界)を、あの女の子の何倍も無残なやり方で、徹底的に破壊して破滅させるだろう。だったら、答えは一つしかない。私は喜んで悪女になろう。首を刎ねられるその瞬間まで、完璧に傲慢な悪役令嬢を演じきって見せる。ルキウス様。あなたが私に婚約破棄を突きつける時、あなたの心は痛むかもしれない。でも、どうか自分を責めないで。それはあなたの意志ではなく、この狂った世界の仕業だから。私は、あなたを恨まない。歪な木箱の底に、この最……の本……を隠し……す。どう……、誰に……見つか……ませんよ……に。私……涙と一……に、こ……で静か……朽ち果……て』



ルキウスは手記を抱きしめ、床に額を擦り付けた。


激しい嗚咽が喉を引き裂く。フェリシアは、世界から悪と断罪され、誰一人として味方がいない孤独な地獄の中で、たった一人でこの世界の真実と戦っていた。


自分を人形のように操り、冷酷な刃で首を落としたルキウスを、彼女は亡き母親と同じように愛し、その命を守るために、自ら進んであの断頭台の階段を上ったのだ。


「俺は……俺たちは、なんてことを……!」


周囲の人間が、マルタが、誰もが同じ台詞を不気味に繰り返していた理由が、ようやく完全に理解できた。


彼らは世界の運命に従って動く、中身のない死人(お人形)に過ぎなかった。


この狂った世界の中で、ただ一人、世界の脅迫に屈せず、心を持って必死に「生きて」いたのは、悪役として断罪されたフェリシアだけだったのだ。


ルキウスは、胸に抱きしめていた手記を破らないよう恐る恐る床に広げ、溢れる涙で文字がこれ以上滲まないよう、震える手で最後の紙束をめくった。


そこには、文字は書かれていなかった。

代わりに、一枚の小さな、見覚えのある画用紙があった。


それは、ただの古い紙切れなどではなかった。


十年前、まだ世界が狂う前に、二人がお互いに拙い絵の具で描き合って交換した、お互いの似顔絵だった。


絵の隅には、幼いルキウスの筆跡で「ぼくのおひめさま へ」と書かれている。


彼女は、忘れていなかったのだ。

自分が彼女を忘れ、罵り、その首を落としたその瞬間まで。


彼女はこの歪な箱に、この錆びた鍵をかけ、自分が贈った似顔絵を抱きしめて、ルキウスの知る『本当の自分』のまま、たった一人で死んでいった。


その時、王宮の鐘が、フェリシアの死によって「物語が完結した」ことを告げるように、厳かに響き渡った。


その音とともに、ルキウスの頭を締め付けていた目に見えない『霧』が、急速に晴れていくのを王子は感じた。


それは、世界の呪いの解除。フェリシアの死という対価によって、ルキウスたちがようやく「人形」から「人」へと戻される、地獄の始まりの合図だった。

【制作メモ】

本作は、作者が考案したプロット、設定、言葉遊びをベースに、AI(人工知能)と二人三脚で本文の執筆・調整を行って完成させました。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。本作は全7話の短編小説です。


毎日【18:03】に連続更新(全3日間)いたします。


【更新スケジュール】

第1話、第2話(公開中)

第3話、第4話、第5話(公開中)

第6話、第7話(明日公開完結予定)


もし少しでも「先が気になる」と感じていただけましたら、【ブックマーク登録】や【評価(★やポイント)】をいただけますと大変励みになります。


残された手記、そして二人が行き着く世界の真実を、どうか最後まで見届けていただけますと幸いです。


次回の更新も、よろしくお願いいたします。

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