番外編 自分を失っても
※今回は本編より少し時間を遡り、ユウが記憶を取り戻す前日の出来事です。
母親視点と、記憶喪失状態だったユウの様子が描かれます。 ^^)
朝は、少しだけ嬉しかった。
久しぶりの有給で、しかも今日は私の誕生日だった。
「たまにはゆっくりしようかな~」
そう呟いてキッチンに立つ。昨夜のコップを流しへ運び、冷蔵庫を開けば今夜食べる予定のケーキが顔を覗かせた。テーブルの上には『帰り遅くなるかも』というカイトの字と、なぜか隣に描かれた謎の落書きみたいな顔。
「なによこれ……」
思わず吹き出しながらメモを指でつつく。
「三歳児か」
笑いながら洗濯機を回し、洗い終わった服を持ってベランダへ出る。春の風は少し冷たく、ワイシャツとパーカー、それに黒いTシャツが並んで揺れていた。
「あ……」
黒いTシャツを見た瞬間、昨日の車の中で▼?%とのやり取りがふと頭に浮かぶ。
(毎朝カイトに駅まで送ってもらってるんだから、ちゃんとありがとうって言いなさいよ?)
(うん、分かったよ)
(返事だけはいいんだから)
(明日はちゃんと言うって)
そんな▼?%との他愛ないやり取りを思い出し、自然と頬が緩んだ。
「……言えたのかな」
小さく呟きながら、風に揺れる服を見上げる。
穏やかで、何でもない朝。
今日は誕生日だし、夜になればみんな揃ってケーキを食べる。
そんな当たり前の一日が、これから先もずっと続いていくのだと、この時の私は疑いもしなかった。
ーー
昼前。
静かな部屋には、テレビの音だけが小さく流れていた。
洗濯物はすでに乾き始めていて、部屋の中には柔軟剤の匂いがほんのり残っている。
冷蔵庫には、今夜食べるつもりのケーキが入っていた。
(帰ってきたら、一緒に食べよう)
(誕生日くらい、みんな揃わないとね)
そんなことをぼんやり考えながら、ソファに座ってテレビを眺める。
特に面白い番組を見ていたわけじゃない。
ただ、こうして何もせず過ごせる休日も悪くないな、と穏やかな気持ちでいた。
その時だった。
不意に、静かな部屋へスマホの着信音が響く。
「ん?」
テーブルの上に置いていたスマホを手に取り、画面を見て首を傾げた。
表示されていたのは、見覚えのない番号だった。
「……誰?」
営業か何かだろうか。少し迷いながらも通話ボタンを押す。
「はい、もしもし?」
数秒の沈黙。
そして。
「○○病院ですが……▼?%さんのご家族の方で、お間違いないでしょうか」
聞き慣れない男の声が、どこか慎重な口調でそう告げた。
その瞬間。
胸の奥で、何かが嫌な音を立てた。
その後の言葉は、ほとんど頭に入ってこなかった。
事故、搬送、重体――そんな単語だけが途切れ途切れに耳へ届くのに、頭の中では何ひとつ現実として繋がらなかった。
「……え?」
気づけば立ち上がっており、倒れた椅子の音が少し遅れて部屋に響く。
頭の中は真っ白だったが、それでも足だけは勝手に玄関へ向かっていた。
(間に合う)
(まだ大丈夫)
(だって、朝はいつも通りだった)
(帰ってきたら、三人でケーキを食べるはずだったじゃない)
何度もそう言い聞かせながら靴を履こうとして――そこで動きが止まった。
玄関には、自分の靴しかなかった。
いつもなら乱雑に脱ぎ捨てられているはずのスニーカーがない。
朝、「いってきます」と笑いながら出ていった時のまま。
たった数時間前までそこにあったはずの当たり前が、ぽっかりと消えていた。
「……あ」
思わず小さく声が漏れる。
つい数時間前までここにいて、笑って、くだらない話をして、いつも通り出かけていった。
それなのに、その何でもない朝が、急に遠い昔の出来事のように思えた。
胸の奥がざわつく。
嫌な想像を振り払うように、震える手で鍵を掴んだ。
「大丈夫……」
誰に言い聞かせるでもなく、小さく呟く。
「大丈夫だから……」
そう繰り返しながら、私は家を飛び出した。
誰に言い聞かせるでもなく呟きながら、震える手で車の鍵を掴んだ。
ーーー
病院までの記憶は曖昧だった。
信号も、人混みも、誰かと交わした言葉も、ほとんど覚えていない。
ただ一つだけ。
(まだ大丈夫)
(きっと生きてる)
(お願いだから……間に合って)
その願いにも似た考えだけが、頭の中で何度も繰り返されていた。
病院の廊下はやけに白く、消毒液の匂いが鼻についた。
気づけばベンチに座らされていて、誰かに名前を呼ばれる。
「……ご家族の方ですね」
医者の声は聞こえていたが、その言葉は妙に遠く、まるで水の中から聞いているように現実味がなかった。
「落ち着いて聞いてください」
その言葉だけが、やけにはっきりと耳に残る。
「現在、集中治療室で処置を行っています」
「搬送時には非常に危険な状態で……」
「内臓損傷と大量出血が――」
言葉が途切れたように思ったが、そうではなかった。
途切れているのは自分の意識のほうで、医者の説明は続いているはずなのに意味として繋がらず、ただ単語だけが頭の中に浮かんでは消えていく。
「……今も、予断を許さない状況です」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
だが、それすらどこか現実味がなく、医者が頭を下げ、誰かが何かを話している光景だけがぼんやりと頭に残っていた。
視線だけは閉ざされた扉へ吸い寄せられる。
その向こうに二人がいるはずなのに、もう会えないかもしれない――そんな考えだけが、ゆっくりと胸の奥へ沈んでいった。
――
帰宅した頃には、外はすっかり暗くなっていた。
家の中は朝のままだった。
干したままの洗濯物。つけっぱなしのテレビ。テーブルの上に残された惣菜。
何ひとつ変わっていない。
その光景が、まるで時間だけが自分を置き去りにして進んでしまったように感じられた。
ふと冷蔵庫を開けると、朝のうちに買っておいたケーキがそのまま残っていた。
『お誕生日おめでとう』
小さなプレートの文字を見た瞬間、息が詰まった。
「……っ」
声にならない。
泣きたいはずなのに涙も出てこず、ただ胸の奥だけが苦しくて、まともに息を吸うことさえできなかった。
気づけば、冷めきった夕飯を前にしたまま、ぼんやりと時計を見つめていた。
二人が帰ってくるはずだった時間は、とっくに過ぎている。
それでも、どこかで待っていた。
「ただいまー」
いつものように玄関が開いて、そんな声が聞こえる気がして。
「今日の飯なに?」
「腹減ったー」
そんな他愛ない声が、今にも聞こえてきそうな気がして。
けれど、その夜が明けるまで、玄関の扉が開くことはなかった。
ーーーーーー
結局その夜はほとんど眠れず、気がつけば窓の外はうっすらと明るくなっていた。
翌日も私は会社を休み、再び病院へ向かった。
昨日と同じ廊下。同じ消毒液の匂い。
それなのに、どこか別の場所に来たような気がした。
病室の空気は、思ったよりも普通だった。
機械の規則的な電子音だけが静かに響き、昨日の慌ただしさが嘘だったかのように、病院全体が妙に落ち着いている。
「……えっと、つまり」
母は医師の言葉を、まだ完全には理解しきれていなかった。
「昨日の説明だと……かなり危険って話じゃ……」
医師は一度、カルテへ視線を落とした。
「搬送時点では、出血量が多く、一時的に非常に危険な状態でした」
その言葉に、母の肩がわずかに強張る。
「ただ――緊急処置と止血が早かったため、現時点では大きな外傷は確認されていません」
「内臓損傷の疑いも、経過観察レベルに落ち着いています」
母は言葉を飲み込むように、ゆっくりと息を吐いた。
「……じゃあ、命は……」
「現時点では、命に別状はありません」
その一言で、ようやく胸につかえていたものが少しだけほどけた。
「……よかった……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。
病室の扉を開けると、ベッドの上には二人の姿があった。
カイトはすでに上半身を起こしており、腕を軽く回しながら、いつも通りの調子で笑う。
「いやほんと、大丈夫っすよ」
「昨日は死ぬほど痛かったですけど、今日はだいぶマシですし」
そう言って肩を回してみせる。
「ほら、普通に動けるじゃないですか」
医師が苦笑する。
「無理に動かないでください」
「えー、退屈死しそうなんですけど」
「昨日まで死にかけてた人の台詞じゃないですよ、それ」
そんな軽口を叩く姿は、事故に遭ったとは思えないほどいつも通りだった。
母も思わず小さく笑みを浮かべる。
本当に、昨日あれほど怯えていたのが嘘みたいだった。
――だからこそ。
隣のベッドで、もう一人がゆっくりと目を開けた瞬間。
誰も、その異変にすぐには気づかなかった。
ぼんやりと天井を見つめたまま、しばらく動かない。
「……ここ、どこだ?」
掠れた声に、看護師がすぐ近くまで歩み寄った。
「分かりますか? お名前は言えますか?」
「……名前」
口にしかけたところで言葉が止まる。
頭の奥に何かがあるはずなのに、そこだけ霧がかかったように掴めない。
思い出そうとするほど輪郭だけが指の隙間からこぼれ落ちていく。
「……分からない」
その一言に、室内が一瞬だけ静まり返った。
看護師と医師が短く視線を交わし、医師はカルテへ目を落とす。
「……え?」
母はすぐには意味を理解できなかった。
ただ、医師の落ち着いた声だけが静かに続く。
「事故の衝撃による、一時的な記憶障害と思われます」
「き、記憶障害……?」
ようやく言葉の意味を理解した瞬間、母の顔から血の気が引いていく。
「戻るんですよね?」
気づけば、縋るようにそう尋ねていた。
医師は少しだけ間を置いて頷く。
「可能性は高いです。焦らず経過を見ていきましょう」
その言葉を、母は必死にすがるような思いで胸に抱え込んだ。
一方で、カイトはそんな空気も気にした様子なく、いつもの調子で軽く笑う。
「記憶なくなるとか、マジであるんだな」
「いや、こういうのってドラマの中だけだと思ってたわ」
そう言って軽く笑う。
「母さんも、そんな顔すんなって。生きてるんだからさ」
その調子は事故の前と何も変わらない。
母はようやく小さく息を吐き、目元を押さえた。
「……ほんとに、無事でよかった」
母が安堵したように呟く中、もう一人はそんなやり取りをぼんやりと眺めていた。
自分の名前すら思い出せない。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
ただ、胸の奥に説明のつかない違和感だけが残っている。
何か大事なものを置いてきた気がする。
誰かが、自分の帰りを待っていた気がする。
どこかへ帰らなければならなかった気がする。
なのに、その場所も、その相手も思い出せない。
思い出そうとするたび、指の間から砂が零れ落ちるように何もかもが消えていく。
ただ理由の分からない寂しさだけが、静かに胸の奥へ沈んでいた。
―――
夜になり病室の明かりが落ちると、
「疲れたわー今日」
と呟いたカイトは、数分もしないうちに寝息を立て始めた。
だが、もう一人だけは眠れなかった。
静かな病室に響く機械の規則的な音を聞きながら、▼?%は薄暗い天井を見上げ、胸の奥に残る正体の分からない違和感をぼんやりと抱えていた。
そんな静けさの中、不意に誰かの姿が脳裏に浮かぶ。
大きな背中。使い込まれた剣。森の匂いが染みついた皮の上着。
不器用な手が肩を掴み、低く少ししゃがれた声が耳に届く。
「……いいか。死ぬな。生きて帰ってこい」
感情を言葉にするのが下手な男らしい、不器用でまっすぐな声だった。
――場面が滲むように揺らぐ。
次に浮かんだのは、小さな少年だった。
痩せた身体に少し大きな服を着て、泥だらけの手のまま駆け寄ってくる。
眩しいくらいの笑顔。
「ユウお兄ちゃん!」
「おかえり!!」
「ねえねえ、今日の話聞かせてよ!」
「今日は何があったの?」
その声だけが、やけに明るい。
まるで帰ってくること自体が奇跡みたいに、心から嬉しそうに笑っていた。
――そして。
最後に浮かんだのは、一人の女性だった。
優しい顔をしているのに、どこか不安そうで、震える手を必死に伸ばしてくる。
「……行かないで」
止めたいのに止められない。
そんな苦しさを滲ませながら、それでも涙をこらえて言葉を紡ぐ。
「お願いだから……」
「……ちゃんと、帰ってきて」
その声が耳に残った瞬間、すべては霧のように消えていった。
最初から何もなかったかのように。
▼?%は小さく息を吐く。
何を見ていたのか分からない。
誰だったのかも思い出せない。
それなのに胸の奥だけが妙に苦しく、悲しいのか寂しいのか、それとも怖いのか、自分でも分からないまま、気づけば頬を一筋の涙が伝っていた。
「……なんでだよ」
その時だった。
一瞬だけ、知らない光景が頭をよぎる。
黒髪の少年。まだ幼い。
八歳くらいだろうか。
泥と血にまみれた服をまとい、体を引きずりながら森の中を必死に走っていた。
荒い呼吸の向こうでは怒号が響く。
震える手で短剣を握りしめた少年は、怖いはずなのに、泣きたいはずなのに、それでも誰かのもとへ帰るように歯を食いしばって前へ進み続けていた。
――助けなきゃ。
なぜか、そう思った。
だが、その姿も次の瞬間には掻き消える。
「……誰だよ」
知らない。知らないはずなのに。
泣きそうな横顔だけが、妙に胸に引っかかった。
そして、なぜか。
その少年を、一人にしてはいけない気がした。
――帰らなきゃ。
誰の言葉なのか。どこへ帰るのか。
自分でも分からない。
それでも胸の奥には、誰かとの約束を忘れてしまったような、帰らなければならない場所を置き去りにしてしまったような痛みだけが、静かに残り続けていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます!
記憶喪失で終わりましたが、**ep.37「分かたれた意識」**で無事に記憶は戻りました(笑)
しばらく短編の執筆を進めるため、次回の更新は4日後くらいになるかもしれません。
その分しっかり修正して、より良い形でお届けできるよう頑張ります!
引き続きよろしくお願いします!




